音衣さんと宏哉さん
3
そこからぼくらは少し話をした。
基本的には音衣さんが話して、ぼくが受け答えして、宏哉さんは書類を整理しながら、偶に音衣さんに話を振られると顔を上げてぼくらに交わった。
「どうして閉館時間を過ぎてるのに二人はここに残ってるの?」
音衣とぼくが同い年だったこともあるけど、フレンドリーな彼女の態度がぼくの口を軽くしていた。
いつの間にか敬語を止めていたぼくを気にした素振りもなく、音衣は笑う。
「閉館時間は過ぎたけど、完全下校まではまだ時間があるからだよ」
ぼくが首を傾げた。確かに完全下校は六時ぐらいだったけど、それがどうしたんだろう?
「図書委員会の仕事が残ってるんだよ。俺がやってるこれだ」
すかさず宏哉さんがもう十枚もないだろう書類を指で叩く。
「要望書ってやつかな。この本が読みたいから図書室に置いてくれとか、新しく出る本にこんなのがあるから置いてくれってやつ。それを纏めてるんだよ」
彼はボールペンとA4サイズのノートを示す。
そのボールペンを右手で回しながら、彼は疲れたように笑う。
「この纏めたやつをプリントにして、委員会と図書室の先生に提案するんだよ。それで次の委員会でみんなで議論するわけだ」
「あれ?要望書をそのまま委員会で議論するんじゃないんですか?」
「いやいや。しょーじきそんなふうにできないんだよ」
彼は山のような要望書をボールペンで示す。
「内容が重複してるものもあるし、中には議論に値しない要望書もある。議論する以上ある程度分かり易いデータとして纏めた方がスムーズに進むしな」
誰も図書委員会で学校に残り続けたいとは思ってないだろ?と彼は笑って言う。
けどぼくは少し首を捻った。
「図書委員って本好きだと思ってたけど」
「そりゃ立候補でなったやつはな。でもそれだけじゃないだろう?くじで運悪く図書委員になったやつもいるし。それに本好きは本が好きなだけで、学校の図書室が好きとは限らないだろう」
それもそうかとぼくは納得した。
「とにかく面倒だけど、みんなのために俺もこうして頑張ってるんだよ」
どこか誇らしげに彼は言った。
「みんなのため、ですか?」
ぼくは知らずそう漏らしていた。
ぼくの中に暗い感情が湧き出していた。
ぼくにはそんなことはできないだろう。ぼくは彼の言う《みんな》を壊したいのだから。
焦燥感に似たこの感情はなんと呼ぶものなのだろう。
さっきまでの楽しい会話を忘れたようにぼくはその感情にのまれていた。
「そうだよ?
おこがましくあるかもしれないが、俺のこれは間違いなく人のためにやってるよ。
ただ内申点のために委員長やってるなら、ここまではやりたくないからな」
彼はぼくの瞳から目を逸らさずに、ただ何かを見通すようにずっと見ていた。
逆にぼくはそれから逃げるように目を伏せた。
彼の鏡のような輝きは、ぼくには眩し過ぎたんだ。
彼はきっと素直に人のために行動できるのだろう。
打算も裏も何もなく、彼はただ努力してのためになることをしている。
文句も言わずに、むしろ誇らしく。
そんな彼の努力の賜物かもしれない。図書室がぼくにとっても居心地の良い空間になっているのは。
口に出すこともできないぼくとは、大違いだ。
ああそうか。
ぼくを支配したあの焦燥感に似た感情の正体がわかった。
あれは嫉妬だった。
ぼくは彼のように行動したかったんだ。
苦しかろうと、面倒だろうと、人のために行動したかったんだ。
それがきっと、ぼくが望んだセカイを作る方法なのだから。
そんなぼくをどう見たのか、彼はふっと空気が抜けたように笑った。
「ま、君にもいろいろあるだろうけど、聞かないよ」
その方がいいだろう。
聞かれたところでぼくにも説明できない。
ぼくを悩ましていたあの衝動。それはぼくの本質に近いものだった。
すべてが煩わしいだとか、人の喧騒が鬱陶しいだとか、利己的な人間が厭だとかそんなものは二の次の理由だった。
ぼくの本質が第一に、そんな世界の破壊を望んでいるのだ。
こんな不満だらけのセカイを壊したい。そうして人のためにみんなが行動できるセカイが欲しい。それがきっとぼくの心からの願望だったのだ。
でもぼくは、そのための行動すらしていない。
もちろん壊してはいけないのだけど、彼のようにそれができる人を見ると、その自分の矮小さや醜さが際立ってしまう。
月と並べられたスッポン。そんな言葉が今になって浮かぶ。
そんなぼくの暗い面を人にわかるように説明できないし、したくない。それはその時も同じだった。
それっきり彼は完全下校を知らせるチャイムが鳴るまで何も話さなかった。
余計なことは話さないとその態度は雄弁に語っている気がした。
逆に音衣さんはとてもお喋りだった。
ぼくが黙り込もうが、お兄さんが黙り込もうがお構いなしだった。
むしろお兄さんが沈黙を決めたのをいいことに、その口は制限が外されたように動いた。
「陣野君。クラスは何組?誕生日はいつ?血液型は?好きな食べ物は?嫌いな食べ物は?
私は6組で、誕生日は12月30日!血液型はO!好きな食べ物はレモンタルト!でも、甘いものなら大体は好きだよ!嫌いな食べ物は辛いもの!カレーは甘口にはちみつと卵を混ぜたものなら大好き!」
と、ぼくがいちいち答える間もなく次々と質問を連射してくるマシンガントークだった。
でも彼女はぼくの話を聞いていないわけではなかった。
自分のことを話した後はきちんとぼくの目を見て、話すのを待っていてくれた。
どこか子犬を思わせる瞳でぼくはいい子なんだなと思う。思わず微笑んでしまうぐらい。
そんな彼女を悪くは思えなかった。
でもこの娘とぼくが煩わしく思った喧騒と何が違うんだろうと、ふと考え込んでしまった。
どちらも騒がしいはずで、もしそれが会話だったとしても、ぼくは嫌になるはずだ。
本当にどうなってるんだろうと夢中で話す彼女をぼんやりと見つめていた。
その時、チャイムが鳴った。完全下校を知らせるチャイムだった。
ガタッと椅子を鳴らし、まず初めに宏哉さんが立ち上がった。
「音衣、先に校門まで出といてくれ。俺はここの鍵を職員室に戻してから行く」
彼はそう言い残して図書室の本の貸し出しの受付カウンターの方へ行く。
音衣さんはのほほんとした様子で手を振ってそれを見送った。
「じゃ、邪魔にならないうちに行こうよ」
確かにいつまでもお世話になっているわけにはいかない。
彼らのおかげでほんの少しだけ楽になったし、お兄さんの言葉には道を開いてもらった。
きっと彼らに関わるのもこれで最後だ。
ぼくはホッとしたような、どこか物悲しいような気分で図書室を出た。
「ぼくはもう帰るよ」
靴箱へとスキップしてるかのように軽い足取りで向かう少女の背に声を掛けた。
振り返った彼女は思わず吹き出しそうになるくらい間抜けな顔をしていた。
「へ?一緒帰ろうよ」
「一緒って……」
家の方角だってまだ知らないのに、なんでこの娘は一緒に帰るつもりでいたんだろう?
「兄さんもそのつもりだと思うよ」
「そういう問題じゃないし、お兄さんがそんなこと言うとは思えないんだけど」
ほとんど無意識にそう返すと、音衣さんはぷくーっと頬を膨らませた。
「そういう問題なの!なぜならわたしが隆司君と一緒に帰るつもりだから!兄さんもお菓子のおまけのように付いてくるの!」
拗ねたように、あるいは怒ったように彼女はぼくの腕を取った。
「え、ちょっと!」
「いいから、早く来るの!!」
またしても掴まれた腕を引かれ、僕らは夕空の下へ向かう。
秋の夕日はどこか優しく、その身を赤く燃やしていた。
多分、このとき彼女はぼくを放って置けなかったんだろうな。
ぼくがどんな顔をしていたのかはわからないけど、彼女たちが心配になるような顔をしていたのは間違いないだろう。
音衣さんはそんな人を見て見ぬふりはできない。
そういう人なんだ。
校門で合流したお兄さんは、ぼくの腕を捕まえた音衣さんを見てただ肩を竦めた。
ただ、何も言うことはなくさっさと歩き始めた。
一歩後ろを僕の腕を引く音衣さんが同じペースで歩く。
「隆司君のうちはどこ?」
ホントに来る気なのか?と背に汗を流しながら、一応自宅のある町名の名前を言ってみた。
「距離的にわたしたちの方が近いね!」
バン!!とお兄さんの背を音衣さんは叩いた。
「痛いんだが?」
「気にしない気にしない!」
またしても肩を竦め、いそいそと歩き始めるお兄さんはどこか哀愁すら感じられた。
ふと音衣さんを見てみると、実の兄を叩いたにもかかわらず、「服は何しようかな~」と悩ましそうに顎に手をやって考えていた。
だんだん足並みが遅くなり、ついにはぼくよりも後ろを浮かれた思案顔で彼女は歩いていた。
それを苦笑いで見守っていると、宏哉さんが少し申し訳なさそうに目を細めながら近づいてきた。
「悪いな。どうやらあいつ、一度家に寄ってから君の家にお邪魔する気みたいだ」
もはや彼女にとってそれは規定事項なのだろうか。と呆れを超えた笑みを浮かべてしまう。
ともあれ、少なくとも広哉さんはそうなることを気にしているようだ。
「ぼくは別に構わないですよ。二人の家に行くのも、二人が家に来るのも」
「……俺も行くのか?」
というか妹さんが行くだろうって予言してました。
「まあ、君はいいだろうが、親御さんとかの事情もあるだろう?」
ぼくは少し暗い気持ちになる。
親は最近ぼくとの距離感を測り損ねている。これが思春期と彼らは納得しているようで、ぼくの様子にを特に不審がってはいない。何にせよ彼らとぼくの関係は良好とは言い難い。
だけど感謝はしていたし、今もしている。この時のぼくに必要以上に関わられたなら、ぼくは彼らと出会う前に壊れていただろう。
気づくとお兄さんはぼくを凝視していた。一体ぼくがどんな表情をしていたかはわからないが、いい感情は浮かんでいなかったということだろう。
「大丈夫ですよ」
ぼくは少し慌ててそう答えたが、彼はまだしばらく何かを見通すようにぼくを見つめていた。
今度はぼくもそれを見返す。視線が揺らがないように意識を集中させた。
やがて、ぼくが気まずくなる前に彼はその双眸をぼくから外した。
内心ほっとする。彼に見つめられると小さなウソでも見抜かれそうだ。何より、人に暴かれたくないこの暗い部分をすぐに見透かされそうで怖かったのだ。
「おい!音衣!そんなフラついた上に遅く歩いてんなら置いて行くぞ」
「はっ!!ちょ、ちょっと待ってよ~」
あたふたした音衣さんが駆け足で戻ってくる。
ぼくはその瞬間まで、お兄さんから微妙な距離を取っていた。
無意識の警戒が現れてしまったかのように、ほんの数歩分の距離を。