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森田兄妹

 2


 その言葉を最後に、ぼくは消えた。代わりに現れたのは横に90度回転した図書室だった。

 ひどく汗ばんだ体を起き上がらせ、背もたれにどっぷりとそれを預けた。

 ……。

 ぼくは無心で呼吸を繰り返す。マラソンを走り終えたかのようにひどく肺が痛かった。

 なにも考えられないまま、秋の空気はただ肺を痛めつけていく。

「……、…………!!……だ……てよ」

 耳に聞こえるのは、図書室の静寂とぼくの荒い呼吸音だけだったはずが、いつの間にか人の声らしきものが聞こえ始めた。

 ぼくはそれに引き寄せられるように立ち上がり、無意識にその声の方へ歩きだしていた。

 本棚に隠れた向こう側からその声はぼくを手招きしているようだった。

「……。し……ない」

 本棚を回り込む前に、もう一つ、低い声が聞こえた。

 その途端ぼくはなぜか声のほうへ向かうのを止めてしまった。

 招かれているように感じた声が、その時はぼくを拒絶したように思えた。

 本棚と本を背にして、膝を抱えるようにして座り込んだ。

 浮かび上がるのはさっきのぼくの言葉。

 賢く、楽に生きたいという告白。

 それはぼくもまた同じで、ひどく共感してしまった。

 世界に自分ひとりだけ取り残されてしまったような孤独と、どうしようもない空しさをぼくは感じていた。

 その時ぼくは、

 歌を聞いた。

 低い声で、ゆったりとした旋律が奏でられる。

 どこかで聞いたことがあるその曲は、

「坂本九」の『上を向いて歩こう』だった。

 それは胸の奥の空白を温かいもので埋めるように、ぼくに染み渡ってきた。

 ぼくはより強く、膝を抱いた。

「……うっ!ひっく」

 孤独感と空しさと、温かい何かと体を抱いて、膝に顔を押しあて、ぼくは声を殺して泣いた。

 どうして僕は泣いているのだろう。

 間抜けなことにその時のぼくは全くわからなかった。

 でも今はわかる気がする。

 全てが嫌になっていた。絶望していた。でもぼくは壊れたくなかった。セカイを壊したくなかった。

 でも世界が価値ある者には思えなかったのだ。

 そんなぼくは優しくされたり、共感を得たり、そんな特別なことをしてもらいたかったんじゃないんだ。

 ただ、キッカケが欲しかっただけだと思う。

 ぼくが嘆くキッカケを、涙を流すキッカケを、

 世界について嘆くキッカケを。

 その日までのぼくは探していたんだ。

 そして、その歌はようやくたどり着いたキッカケになったんだ。


 ひっくひっくとしゃくりあげ、ぼくは何とか涙を抑えようとしていた。

 でもできない。体裁を気にせず涙を流す。

 堪えようのない羞恥心が心を埋めようとした。しかしそれ以上にぼくの心を占めたものがあった。

 心地よさだった。

 それは不覚にも本当に気分がよかった。

 涙と一緒に、ぼくの抱えた何かも流れて行ってくれるようだったから。

 だけどさすがに声を聞きとられたのか、パタパタと踵を踏んで履いた靴を鳴らしたような音を出し、誰かが近づいてきた。

「あり?人が残ってる」

 女の子の声だった。

 ぼくはいよいよ顔を上げられなくなっていた。ただ肩を震わして、泣き声を抑える。

 そうしているとさっきの女の子の声に反応したのか、靴底をするような音が近づいてきた。

「マジか?あーあー、おれには何にもみえませーん」

 どこかけだるそうなその声は低い男性の声だった。

「職務怠慢だね」

「いいえ、現実逃避です、っと」

 語尾に何かを割り切るように付け足して低い声が言う。

 よく聞くとそれはさっきの歌を奏でた声だった。

「とりあえず、あんた。落ち着くまでトイレにでも行って来れば?」

 何か投げやりな調子に、女の子の声が「その態度はないよ!」と注意をして、バンっと何かを叩いた音がした。

「どうしたの?何があったの?」

 子供にするように、女の子はぼくの肩をやさしく撫でてくれた。

 ぼくは返事もできないまま、落ち着くまで、彼女の手の温度を感じていた。

 暫くしてなんとか顔を上げられるようになり、そしてぼくは傍らのその少女の姿を目にした。

 天使のような微笑みを浮かべたちょっと童顔の少女だった。

 夕日に映えた栗毛が綺麗で、どこか浮世離れしている。ふわふわした雰囲気を持っている気がした。

「落ち着きましたか?」

 ぼくはうんと無言で肯いた。

 彼女はぼくを急かすこともなく、興味深いそうにぼくのあちこち見てくる。なんだか気恥ずかしい。

 キョロキョロとぼくのあちこちを写す瞳や、子供っぽい顔なんかは無邪気な女の子という印象があるけれど、今もまだ触れているその手からは聖母のような優しさが感じられる。

 あんまりじろじろ見るのも悪い気がするので、次にあの低い声の男性を探す。

 だが、キョロキョロ辺りを見渡してもあの声の主らしい人はいなかった。

「もしかして、兄さん(・・・・)を捜してるんですか?」

 ぼくのそんな行動を猫のように丸い瞳で見つめていた彼女が尋ねた。

「……にいさん?」

 彼女はぼくを腕を引っ張り本棚の向こうへ回り込ませた。

 ゆっくり見え始めた棚の向こうにその彼はいた。

 彼はどこにでもいそうなこれといった造形がいい顔でもない、特徴といえば黒縁のメガネと、人を遠ざけそうな鋭い目が表面上の特徴だった。身体的特徴は特になく、強いて言うなら机の下に見える足が長いような気がした。

 彼は書類の束を机の脇に置き、それに一枚一枚目を通しているようだった。

 彼は不意にすっと顔を上げ、ぼくの手を引く彼女からぼくへと順に視点を移し、またすぐに書類に目を移した。

「ネイ。そいつはもう大丈夫なのか?」

 こちらを見ずにいう言う彼はどこか冷たい気がした。

「うん。そうみたい」

 無邪気な笑みを浮かべ、ネイと呼ばれた少女はぼくの腕を引き、彼女が兄と呼んだ青年と同じ机、それもよりにもよって彼の正面の椅子に座らせた。

 彼はその眼光を真正面、つまりぼくに照射していて、ぼくは縮こまるように背を丸めてしまった。

 なんでこうするんですか?

 と念波を込めてネイさんの顔を見たが、何とも言えない微笑みを返して、ぼくの斜め前、彼女の兄から一つ間を開けた椅子に座った。

 彼女が座ったのを見ていると、いつの間にか彼は書類の方へ目を向けていた。

 終始こっちを見ながら微笑むネイさんと、もうこっちを見ることもなく書類を整理するその少年は、鏡写しのように真逆だった。

 表情も態度もそうだけど、雰囲気が全然違う。ネイさんは年相応の子供っぽさが残る柔らかな雰囲気だ。だけど、ぼくと年はほとんど変わらないと思われる彼は、大人の冷静さに似た冷たさが感じられる。

「さっそく質問だが」

 やはり彼は書類を見たままそう口を開いた。

 話し方もどこか冷たそうな気がしてきてしまう。

「あんた、閉館時間過ぎた後にどうして図書室にいるのか教えてくれないか?」

 読み終えた書類をまとめて彼はようやくぼくの顔を見た。

 ぼくの内心の全てを写したような、磨かれた鏡のような彼の瞳を向けられると嘘なんて見抜かれてしまいそうでつけない。

「ぼくはさっきまで寝てたんです。いつもは図書委員の人に起こされるんだけど、今日に限ってそれがなかったみたいです」

 正直にそう答えた。

 だけど何故か彼は一瞬不機嫌そうに眉をピクッと動かした。

 何か悪いことを言ったのだろうかと、ネイ(?)さんの様子を窺うと、両肩を竦めて苦笑いを送ってきた。一体どういうメッセージなのか、思考しているとふと彼女はニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「兄さん、完全に職務怠慢決定だね。いつも閉館までいる男の子がいるから、その人に声をかけるよう当番の人に言われてたじゃない」

 あからさまに自分の兄を非難するネイさんは心の底から楽しそうだった。

「……」

 そのお兄さんは頭を掻きながら、無言でそれを聞き流しているように見えた。でも、その姿になんだか諦めと呆れが見て取れるような気がした。

 じろっと彼の双眸がぼくを貫いた。蛇に睨まれた蛙のようにぼくは緊張で動けなくなってしまった。

「おい君」

 彼は椅子の上で背筋を伸ばし、正しく四十五度頭を下げた。

「すまなかった。こちらのミスを君のせいにするところだった。許してほしい」

 パチリと一度瞬きしてから、ようやくぼくは謝られていることに気がついた。

「あ、いえ。そのぼくもうっかりしていましたし」

 うっかりも何も寝ていたら時間が過ぎていたので、ある意味では不可抗力かもしれない。しかし、ぼくもそれを確認したうえでさらに眠ろうとした。間違いなくぼくにも責任はある。

「本当にすまない」

 もう一度謝罪の言葉を口に出し、彼はようやく頭を上げた。

「兄さんが謝るなんて珍しい」

 ニヤニヤとネイさんは笑い、お兄さんはそっぽを向いた。

「俺が謝るのが珍しい訳じゃない。俺が謝る事態に陥るのが珍しいんだ」

 なんか子供の屁理屈のようだった。はいはいとそれをあっさり流すネイさんとのやり取りは傍で見ていると微笑ましい。

 このやり取りだけで随分とネイさんのお兄さんの印象が変わった。

「あのぅ」

 その空気に割って入るのはかなり難しいのだけど、この際仕方ない。

「お二人は図書委員なんですか?自慢じゃないですけど、ぼくここの常連なんで、図書委員の方の顔はほとんど覚えているんだけど、二人ともお会いするのは初めてですよね?」

 それは好奇心からの質問だった。もちろん二人が初対面だったこともあるけど、何より閉館時間を過ぎた図書室でどうして歌を歌ったのか気になった。

 二人の計四つの眼がぼくを射抜く。

 お兄さんは怪訝そうな、ネイさんは驚いた様子もなく平然とした様子だった。

「……意外と俺の顔は知れてないのか?」

 ほとんど表情を変えないまま首を捻るお兄さんはどこか不満そうだ。

「世間の認知なんてそんなものだよ♪」

 表情がコロコロ変わるネイさんは機嫌良さそうに笑っていた。

 なんだか楽しそうな彼女を見ていると、こっちまでちょっと楽しくなってくる。不思議な娘だなぁ。

「無知な君に教えておいてあげよう。自分のことを何も言わないのに他人になんでも聞くのは少し印象が良くないものだよ。こっちも君と同じで、顔を向き合わせている男の名前を知らないんだからな」

 皮肉っぽく彼はぼくを睨むが、もうそんなに怖くない。

 彼の話からすると、ぼくが先に名前を教えた方が良かったということなのか。

 遅れたけれどぼくは頭を下げた。

「ぼくは陣野じんのです」

「陣野か。

 俺は森田。森田宏哉もりたひろや。図書委員のヘッド。図書委員長なんて役職の男だよ」

 図書委員長と聞いて、想像したのはほとんど形式だけの生徒会の各役職を決める選挙。大抵は信任投票で、むしろ立候補してくれる人を探すのが課題であるだろう。

 図書委員長も立派な図書委員の一人だ。だけど、会う機会もない上に、信任投票だけで決まって、それ以来表に出ていない各委員長の顔を覚えているはずもなかった。

「それでこいつが妹の……」

 手を向けてネイさんを示す。

「森田音衣です。音の衣と書いて音衣って読むの」

 音の衣。それは一体どんな想いでつけられた名前なのか。

「陣野君はどんな名前なの?」

「……どんなって言われても」

「下の名前は?」

隆司たかしです。法隆寺の隆と司るとかいて隆司」

「……兄さん、法隆寺の隆ってどんな字でしたか?」

 音衣さんは何やら小声で宏哉さんに質問していた。

 スッと彼は小さな紙を彼女に指し示した。

「なるほど~。いい名前だね!で、どういう意味があるのかな?」

 あまりに澄んだ瞳で尋ねられ、思わずぼくは正直に説明していた。

 一般的ではない自己紹介だと今でも思う。



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