陣野隆司
1
ある日の夕刻。
その二人とぼくは出会った。
それは奇跡といってもいい僥倖だったかもしれないし、必然であるといえる通過点だったかもしれない。
ただ、その時のぼくにとっては前者としか思えなかった。
呼吸をするのも苦になるような絶望感が、胸を圧迫する。
それは過呼吸気味に強引に空気を肺に送り込まなければ、あるいは呼吸を止めてしまっていたかもしれないほどのものだった。
噴き出す汗を気にすることもなく、ぼくはただ荒い息を繰り返す。
秋の空気は澄んでいて、日が暮れた後にそれは鋭利な刃物のようだ。肺の壁を傷つけていくように冷たい。
ああ、違う。
そう思うのはぼくのせいだ。
その時のぼくはこの世界に生きていたくなかった。
何か、特別なことがあったわけではない。
ただいろんなものが煩わしく、また鬱陶しく思えたのだ。
学校も、家族も、友人も、他人も全部。
(……壊したくなる)
ぼくは本格的に参っていた。
きっかけみたいなものがあったわけではないと思う。
ただ、家族のどこか曖昧な距離感や、テレビの政治の醜態や、さまざまな事件や揉め事の報道、学生同士の喧嘩、クラスメイトの喧騒、日常のそれらが、
ただ、壊したくなっただけなのだ。
殴って、罵って、踏みにじってやりたい。
唾棄したい。
それはなんて楽しそうなことに思えた。
どうしてそれをしてはいけないのかわからなかった。
ぼくはただ絶望していた。
そんな思考が頭の中をぐるぐると回っていることに絶望していたんだ。
ぼくという人間の根底にはそんな考えがあったという事を、この輪廻は示していた。
それを認めたくなくて、感情を吐き出す場所すら確保することもできないまま、その日も過ぎていった。
そのころのぼくは家に帰ることもいやで、その上喧騒からも離れたいために町のどこかへ繰り出すこともできなかった。だから、放課後は基本的に図書室で過ごしていた。
宿題などの勉強に、読書、睡眠とやることには事欠かなかった。
閉室時間の午後五時まで、今思うと自分の思考を止めるために、ぼくは一身に意識をそれらに向けていた。
その日は眠って過ごしていた。
長机に腕を組んで置き、それを枕にしてぼくは伏して眠っていた。
ふと目覚めたぼくは腕時計で時間を確認した。
(……五時、……過ぎてる)
デジタル表記の時計は既に五時十分を指していた。
いつもなら当番の図書委員がいつまでも居座るぼくを追い出すのだが、この日に限って見逃したのだろうか、ぼくはまだ、本と共に閉ざされた図書室にいた。
向こうのミスなら僕が気にする必要はない。そう開き直って、ぼくは寝なおそうと腕を腕を組み替えて机に伏す。
だができなかった。
一度覚醒してしまった意識は、なかなか眠りの淵へと向かってくれなかった。
また、考えてしまう。
『本当にイヤダ。こんなセカイ。もう、イキテイタクナイ』
目を閉じて作り出した闇の中、黒い人型の輪郭がそう唇を動かした。
(そんなことはない、いつかこの世界をよく見える日が来るんじゃないか。そもそも君は何がつらくてそう思うんだ?)
ぼくはいつものように反論する。
だが影はぼくの反論や疑問を無視してぼくを一方的に責める。
『本当にそうオモッテイルノカ。セカイをよく見てみろ。利己的な人間のセカイ。そこにいて、オマエは何も思わないのか?
何かをコワシタイだろう?オマエのそれはこのセカイへの不満と、それを打開したいと思う現れじゃないのか?
もし人が全て、タニンを想いやることができたら。人と人が親切心だけでタスケアエタナラ。
それは素晴らしいセカイだと考えてるんだよな』
人型が嗤う。ぼくの思考を読んでいるかのように、常のぼくの考えをそいつは暴露する。
嘲笑う。その人型の闇は腹を抱えていた。
『ばっかじゃねーの?』
……。
ぼくはいつの間にか沈黙していた。
『オマエ、社会じゃ少数派なんだよな。お前みたいに善人面引っさげて生きていけるほどニンゲン優しくないし、強くもないんじゃね?ジブンのことでイッパイなんだからよ
それにさ、オマエ、そう思うだけで何かしたのか?』
闇の中で対峙するぼくは、左右の拳を爪が皮膚を突き破りかねないほどきつく握っていた。
ああ、たぶんその事実にぼくは気づきたくなかったんだ。
そして人型は最後に提案する。
どこか慈愛を持ったその言葉。
『いい加減、ラクな生き方シテミタラ?』
ぼくはいつの間にか、歯ぎしりしていた。だけど、否定の言葉を叫ぶにはその感情は弱かった。だから、ぼくはその人型の口をふさぐことはできない。
『ジブンのことだけ考えてみろよ。低能なバカどもはヒト以下だ。オマエが気に留める必要なんざねーよ。
ホラ、そうすりゃー悩みは万事解決だ。低能どもの心なんて考える必要もない。間違ったものは全部壊せばいいんだよ』
黒の人型は自分に酔ったように楽しそうにそんな演説を続けた。
でもぼくにはそれに対してヤジも言う事が出来なかった。
否定できなかった。
『そういうのが賢い生き方なんだよ。なんでテメエはそうやって賢く生きれないんだよ』
(そんなの、ぼくだってわからない!)
ようやく紡ぎだせたそれは否定ではない。ただの嘆きの言葉だった。
ぼくは暗いなか目を凝らし、そいつを睨みつけた。
それは徐々に色を付け、ある形へと変貌した。
それは鏡を覗けば見えるものだった。セカイを恨んでいるように眼の下にクマを作り、恨みや憎しみのようなどろついた感情を湛えた瞳をした人だった。
その人型はぼくだった。
それはぼろぼろになった表情で、そのぼくの口で、掠れたぼくの声で告げる。
「オレはもうやめたいよ?こんなイキカタ」
壊れたぼくはそう言った。