瞼の裏で
ー今日こそ。
理沙は決心し、できるだけ自然によろけた。右肩が男の人にぶつかる。男の人が口を開くのが見えた。
その瞬間、理沙は目が覚めた。興奮がまだ少し胸の奥に残っていたが、すぐに落胆へと変わった。まただめだった。その思いが理沙を支配する。時計を確認する。3:52の数字に、またため息をついた。起きるべき時間にはまだ早い。
理沙が夢の中でしようとしたことは、男の人ー毎日理沙の夢に必ず現れるーの声を聞くことだ。よろけてぶつかれば、声が聞けるだろう。そう思って画策した。
いつから、あの男の人が夢に現れるようになったのか。それは覚えていない。気づけばいつも現れる。恐らく理沙と同い年で、理沙が成長するとともにその人も成長した。
彼以外の登場人物は毎回変わる。父と喧嘩する夢、妹の真理と買い物に行く夢、誰かに襲われる夢などいろいろ見てきたが、彼だけはいつも現れるのだ。彼を見る場所も決まっておらず、道ですれ違うこともあれば、電車の中で見かけることもあった。
毎日現れるのだから、気にならないわけがない。理沙は彼の名前が知りたくて何度も声をかけてみたが、いつも彼が口を開く瞬間に目覚めてしまうのだ。
理沙はどうせ目覚めてしまうなら起きなきゃいけない時間に彼に話しかけたいわ、と思いながら冴えてしまった目でリモコンを探し、明かりをつけた。
何日か経った後、理沙は目覚めた時にとても驚いた。7:15の数字。理沙は朝が弱く、夢の途中で目覚めた時以外は7:30の目覚ましで無理矢理起こされ、それでも渋っていると、母が呆れた顔で起こしに来るのが日課だ。なのに、今日はとても目覚めがよく、理沙はとても清々しい気持ちになった。学校に早く行きたくてたまらない。リビングに降りると、兄の信太郎がすでに起きていて、理沙を見て少し驚いた。
「珍しいな。理沙が自分から起きるなんて。雨でも降るんじゃない。」
「私もそう思うわ。お兄ちゃん、傘を忘れないようにね。」
理沙はにやっと笑い、朝食のパンを焼いた。パンが焼けるのを待つ間に顔を洗い、髪を結った。母が真理を起こして2階から降りてきた。そして信太郎と同じように理沙をからかった。
学校に行き、朝礼が始まる。担任が連絡事項を述べた後、少し間を置いて言った。
「今日は、転入生がいるの。男の子よ。」
教室がどっと賑やかになった。
「かっこいいかな?」
隣の席の真由美が理沙に話しかけた。
「さあ、でも期待しちゃう。」
理沙が答えると同時に、転入生が入ってきた。教室中の視線が彼に集まる。彼は、少しうつむきながら担任の後ろに着いて歩き、教卓の横に立った。
理沙は彼の顔を見てはっとした。思わず息を飲んだ。間違いない。夢の中に現れる、あの人だった。
担任が、挨拶して、と言うと彼は教室を見渡した。そしてある一点で目が止まった。彼も驚いた表情で理沙を見つめた。
「樋渡くん、どうしたの?」
彼は担任の声で我に帰り、樋渡圭史です、と名前を告げ、頭を下げた。
その日、何度も何度も圭史に話しかけようとしたが、いつも圭史の周りは人だかりができていて理沙は彼に話しかけることは叶わなかった。
しかし、転機は訪れた。放課後、電子辞書を机に忘れて教室に取りに帰ると、まだ圭史が残っていた。教室の扉を開け、圭史と目が合う。会いたかった、と圭史が言った。
「毎日、会っていたわ。」
理沙が言った。圭史はそうだな、と少し笑って、理沙の手を握った。
「声が、聞きたかった。名前を知りたかった。何度も話しかけたんだけど、その度目が覚めたんだ。夢じゃないなら、教えてくれ。名前なんていうの?」
「沢田理沙よ。私も、ずっとあなたの名前、知りたかった。樋渡圭史っていうのね。やっと聞けて、とっても嬉し…」
理沙がいい終わる前に、圭史が理沙の手を引っ張って抱き寄せた。理沙は驚いて小さく声を上げたが、圭史は離さなかった。
教室に西日が差して、2人を照らした。