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星降る傘

玄関に立った少年の手には、落書きされた透明のビニル傘が握られていた。


 「これを差して上を見たら、ほら、流れ星が見えるでしょう?私たちが、初めて一緒の傘に入った、記念」

 由菜(ゆな)は星マークのたくさん描かれたビニル傘を指差して得意げに言った。昼に、コンビニで買った安いビニル傘だった。急に雨が降ったから、買ったのだ。そしてそのまま、二人は初めて相合傘をした。由菜の家まで二人で歩いた。通り雨だったのか―近頃は天気が変わりやすい―途中で雨は止んだが、二人は傘を差したままであった。二人の、いつもより少し近く感じる距離の緊張感と安心感をずっと味わっていたかったのだ。

 「俺、こんな傘差せねえよ。」と少年は抗議した。由菜は、にやっと笑って油性ペンを少年に見せた。

 「これで描いちゃったから。」


 由菜の家のすぐ近くでバスに乗った。家とバス停が近くてうらやましい、と少年は思った。少年の家から最寄のバス停まででも、歩いて10分かかるのだ。由菜の家から、少年の家の最寄のバス停までは、25分ほどかかる。少年が降りるまでに、いろんな人々が乗ったり降りたりした。途中でまた雨が降り出した。



 「あれまあ…。」

 少年がバスを降りると、その後ろから降りてきた人が言った。屋根のついているバス停の中で、彼女は再び声を出した。

 「雨が降っているのねえ。」

 少年はその声の主を振り返った。80歳ほどの女性であった。バスに乗っている最中に雨が降り出したのに気づかなかったのだろうか。

 彼女は、困ったわ、というような顔をした。どうやら傘を持っていないらしい。雨は以外と強い。少し屋根のないところに出たら、すぐに濡れてしまいそうだった。

 少年は、傘を差そうとして、やめた。横目で女性をちらっと見た。

 (傘…。)

 「これ、よかったら使ってください。」

 気づくと、少年は、女性に傘を差し出していた。例のビニル傘である。女性は、右手に黄色のハンドバッグを持っていた。女性は左手で傘を受け取った。

 「まあまあ、ありがたいわあ。…でも、お坊ちゃんが濡れてしまいますからねえ。」

 女性は少年に傘を返す仕草をした。もうお坊ちゃんなんて言われる年頃じゃない、と少年は思った。少年は傘を受け取らなかった。

 「俺は、家が近いから、平気です。その傘、使ってください。では。」

 家が近いなんて、嘘であった。いや、もしかすると近い部類には入るのかもしれない。しかし、この雨の中、10分も歩いたら、どれだけ濡れるか(そしてそのことで母にどんな顔をされるか)は、目に見えて分かっていた。


 少年は走り出した。後ろからお坊ちゃん、と言う声がする。女性が少年を引きとめようとしているのだろう。しかし少年は止まらない。走ったら家まで5分かからずに着いた。少年は、走れば以外と近いのだな、と思った。リビングに入ると母が少年の姿を見て、予想通りの顔をした。

 「あんた、そんなに濡れてどうしたの?傘は持ってなかったの?」

 少年は答えなかった。

 「もう、とにかく早く着替えて。タオルで体を拭いて。風邪引くわよ。」

 少年は母の言うとおりにした。服を脱いで、タオルに身をくるませ、着替えを探した。

 一人になってから考えた。見知らぬ人に親切にする理由を探した。理由もないのに親切にすると言うことは、少年の中ではありえない。複雑な年頃である。

 

 そういえば、あの婆さん、両手に荷物を持っていなかったか。

―いや、一度は傘を受け取ったんだ。両手に持っていたはずがない。

 婆さんの方が実際は俺より家が近いのかも…。

―それでも、濡れて体を壊しやすいのは俺より婆さんの方だ。俺が傘を渡したから、婆さんは濡れて帰らずに済む。結構な年の婆さんだった。少し風邪をこじらせただけでも命にかかわるかもしれない。大げさか?

 自問自答を繰り返した。そのうち、面倒くさくなって少年はベッドに倒れこんだ。そして、由菜のことを考えた。傘のことを考えた。

 由菜が記念、と言ったものを人に渡してしまった。

 このことは少年に少し焦燥感を与えた。由菜は、"記念"が好きだ。目に見える形で、残しておくのが好きだ。小さなことでも、何でも記念にして、家に持ち帰っていた。少年の手元に傘がないことを知れば、由菜は怒るだろう。いや、怒るのではない。傷つくのだ。



 4ヶ月が過ぎて、梅雨の季節になった。

 今朝、晴れていたから今日は降らないだろうと思って、少年は傘を持ってこなかった。しかし、下校の時間には、雨が降っていた。本格的な雨であった。

 「え?傘持ってこなかったの?!」

 由菜がオーバーに驚きながら、少年を引き寄せた。由菜の傘に二人で入った。他愛もない話をした。こうして、二人で下校する時間が、少年は一番いいと思っていた。由菜のことを知り、由菜に知ってもらう、何にも変えられない時間であった。

 「そう言えばさ、あの傘、あれ以来1回も見てないけど、ちゃんと持ってるの?」

 由菜が不意に話し出した。"あの傘"と言われて、少年は少し眉を動かした。由菜が星の落書きをした、あのビニル傘に決まっている。初めて相合傘をした時以来、一度も使っていない。それもそのはず、少年はバス停で出会った年老いた女性に、その傘を渡してしまったのだから。

 持ってるよ、と嘘をつくこともできる。しかし、少年はそれをしなかった。だからと言って、女性に渡したことも言わなかった。なんだか言い訳がましくて、言えなかった。それに、困っている人に手を差し伸べるような、善良な男子だと思われたくなかった。やはり、複雑な年頃だ。

 「ごめん、あれ、失くした。」少年は結局、こう言った。

 「え、何それ。失くしたって…ひどいよ。大切な、記念だったのに…。何で?しかも今まで隠してたなんて。」

 「隠してたことは謝るよ。だけど、記念は、もういいだろう。俺たちは、傘以外にも、いろんな記念を作ったじゃないか。」

 「でも、初めて相合傘をした記念は、あの傘だけよ。」

 由菜は悲しそうな顔をした。少年との思い出の品が減ってしまった。そのことは、彼女を傷つけた。少年には、由菜の気持ちを理解できなかった。由菜が思い出好きだということは知っている。あの傘だって、由菜にとっては大切な思い出だった。もちろん、少年にとっても大切なものだ。だけど―――。

 「記念記念って、分かんねえよ。思い出ばっかり見て、何が楽しいんだ。」

 そう、少年はこれが分からなかったのである。どうして思い出にこだわるのか。思い出の品をなくしただけで、由菜はどうしてこんなにも悲しそうな顔をするのか。分からない。分からないから自棄になる。少年はいらいらしていた。

 「そんな言い方しなくたって…。だって思い出があったら、いいじゃない。あの時二人でこう言ったね、こうしたねって、いつか言い合えたらきっと…。」

 「そんなの、楽しいわけがない!」

 少年は怒鳴っていた。

 由菜は黙ってうつむいた。彼女は走り去った。少年は雨にさらされた。傘を差していて濡れないはずの由菜の頬が濡れていた。



 少年は、バスに乗った。

 由菜を傷つけたかったわけじゃない。

 由菜のことを理解してやれない、自分にむかついているのだ。それなのに、由菜に当たってしまった。

だけど、由菜の言っていることが分からない。思い出は、もちろん大切なものだろう。だけど…少年にとっては、思い出はそんなに重要じゃない。

 少年にとって一番大切なのは、"今"だ。



 バスを降りると、雨がひどくなっていた。

―父さん、もう帰ってるかな。帰ってたら迎えに来てほしいけど…。

 この雨だと、走って帰るのにも無理があった。かなり大降りだ。

 少年が立ち竦んでいると、誰かが少年の肩をたたいた。

 「お坊ちゃん、いつぞやは有難うねえ。」

 見ると、いつかの年老いた女性であった。女性はにこにこ笑っていた。

 「これ、お坊ちゃんの傘よ。ひどい雨ねえ。この傘で帰りなさいな。」

 女性は少年の手に傘を握らせた。少年は傘を見て驚いた。その傘は、どこにでも売っているようなただのビニル傘だった。だけど普通ではない。その傘には、たくさんの星が散りばめられている。その傘は、由菜との思い出の傘だった。

 「これ…。」

 「あの日家に帰ってねえ、傘の模様が、手書きだってことに気づいたのよ。お坊ちゃんに返さなきゃいけないわってずっと思っていたのよ。バスに乗るときはいつもこれを持っていたけどなかなか会えなかったわねえ。でも、今日会えてよかったわ。済まなかったねえ、これがなくて今まで困っていたでしょうねえ。でも、あの日は本当に助かったわ。有難う。」

 「え…いや、とんでもない…。あの、おばあさんは、今日は傘は…。」

 「私は娘にこれを買ってもらったの。」

 そう言って女性はかばんから折り畳み傘を取り出した。

 「いつもバッグに入れておけば急に雨が降り出しても困らないでしょうって、娘が買ってくれたのよ。きれいな色で気に入っているの。」

 女性はにっこりと微笑んだ。




 少年は傘を差して歩いた。思いがけず、傘が戻ってきた。由菜にこのことを話したら、由菜はどんな顔をするだろうか。喜ぶだろうか、それとも、嘘をついたのかと怒るかもしれない。少年の心が温かくなった。由菜と初めて相合傘をした日を思い出した。この傘の下で、肌が触れるか触れないかの距離に、二人はいたのだ。少年にとっての思い出は、少し大切なものになった。

 それでも少年にとっては、思い出よりも"今"が大切だ。そして、"未来"が…。

 

―明日、もしも雨が降ったら、

 少年は思った。

―由菜とこの傘で一緒に帰ろう。

 

 少年が見上げると、それは満天の星空だった。

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