冷えた熱と、押しつけられた宿命
レコーディングの打ち上げを終えた夜。喫茶『風見鶏』のドアをくぐり、燃と登夢は夜の街へ出た。
先に雷やシャケ、谷神姉妹がそれぞれのバイクで夜の闇に消えていくのを見送った後だった。
燃は軽く息をつき、登夢のガンメタBMWに跨がる。テールランプが赤く灯り、夜の街に4気筒の重い唸りがこだました。
ヘルメット越しに感じる夜風は、レコーディングを終えた熱と、活動休止を決めた静けさを燃の身体から冷やしていく。
燃のマンション前。エンジンが切られ、静寂が戻った。
燃がバイクを降り、ヘルメットを脱いだ。
「送ってくれてありがとう、登夢。お前も疲れてるだろ」
登夢もヘルメットを外し、燃を振り返った。
その瞳は、夜の光の中で静かに光っていた。
「……燃、単刀直入に言う。家に下宿しろ。」
「単刀直入だなあ。おまえらしいが。でなんでまた。」
登夢は、最小限の言葉を選んだ。
「母さんが心配している。」
「そうか。でも、迷惑じゃないか。」
「……おまえはうちの子みたいなもんだ。
俺は、お前には家族が必要だと思う。」
「そうかな。家族っていればいるだけまどろっこしいだけだと思う。面倒だし。」
登夢は、バイクのタンクに手を置き、静かに続けた。
「……お前は一人で全て背負った。結果は、失敗だった。」
燃は、何も言い返せない。
「……今回の件、考え直すいい機会だ。
お前は人に頼らずたいていのことは自分でできる。
だが……俺はもう少し人に弱みを見せたほうがいいと思う。
……それに、頼るのは、弱さじゃない。」
燃の胸が締め付けられた。
「すまん、少し考えさせてくれ。」
登夢は、その返答で十分だと受け止め、頷いた。
「……今すぐとは言わん。考えておいてくれ」
登夢は、再びヘルメットを被る。
「……母さんには伝えておく」
バイクのエンジン音が夜の闇に響き渡り、すぐに遠ざかっていく。
燃は、その音が完全に消えるまで、そこに立ち尽くしていた。
登夢の寡黙な説得は、燃の心に、深く重い問いを残していった。
部屋に帰った燃は、登夢への返事を決めかねていた。
登夢の優しさは心に響いたが、誰かに頼るという行為は、父の不在で育った燃にとって、依然として大きな抵抗を伴う。
しばらくどうするか考えていると、リビングに設置された古びたプッシュホンが、けたたましく鳴り響いた。
液晶に表示されるのは見慣れない長い番号。ロンドンからの国際電話――燃の父、赤紙 将からだ。
燃が受話器を取ると、時差を意識して冗談半分で答えた。
「ハロー。ナイス・ミーツ・ユー、将」
遠い時差と国際回線特有のノイズを伴って、父の抑揚のない声が聞こえた。
『そっちは夜だからグッドイーブニングだろう』
燃は(で、できる……)と、父の正確すぎる返しに舌を巻く。
『おまえの下宿先の件で話がある。』
(登夢のやつ仕事が早い、もう手を回してきたか)と思いながら、燃は話を返す。
「登夢のとこに下宿しろって言うんだろ」
『いや、違う、草薙じゃない。杠葉家だ』
父の声は淡々としているが、燃の頭に、その名前が重く響いた。杠葉家。
それは、亡き母、和の実家だ。
「え!? 杠葉家? なんでだよ!?」
ノイズの中、父は淡然と説明した。
『杠葉の伯父さん夫婦、彪さんと絃さんもロンドンへ赴任することになった。
家は大学生のかれんと中学生の仁の二人きりだ。
燃、おまえも入試を控え大事な時期。
仁も高校入試を控えているので男手が欲しい。
かれんはしっかりしているようでぬけているところがあるからな。
おまえにもいい刺激になる』
「反対だ!」
燃は即座に受話器に叫んだ。
「学園から遠すぎる。電車通学だぞ? 当社比、通学時間が二倍だ! それに、母さんの実家だとしても、勝手が違う。うっとうしい!」
燃の心は、母のルーツへ向かう運命に、無意識のうちに動揺していた。
父は、燃の反論を予測していたかのように、言葉を重ねる。
『長女のかれんが家にいる。美大生で、家事も得意な美人だ。お前は楽になるぞ』
『それと、かれんが使っていたピアノ演奏用の防音室がある。お前のドラム、誰にも文句言われずに叩き放題だ』
しかし、燃の心が動かないのを知り、父はノイズの向こうから、冷徹な結論を放った。
『仕送りは、このままの額で続けて送る』
燃の脳内で、警報が鳴り響いた。固定電話を握る手の力が強まる。
母の思い出の地という感傷と、実質約10万円が懐に入るという打算が、激しく衝突する。
(マクドのバイトに、行かなくて済む……?)
(紅茶のランクを、トリプルSに上げられる……?)
(ああ、薔薇色の学園生活。)
通学二倍のデメリットは、10万円という現金の前で、瞬時に崩壊した。
「……わかった。行きます。杠葉家へ、喜んで下宿させていただきます」
燃は、運命と打算が混ざった、複雑な決断を固定電話越しに伝えた。
『そうか。助かる。ちなみにだが、マンションの契約更新はしていないので、今月いっぱいで契約は切れる。時間がないがよろしく頼む』
淡々とした説明だった。
「おい、ちょっと待て! 引っ越しどうすんだ、荷物運べないだろ!」
燃は叫んだが、電話はすでに冷たく、無情な音に変わっていた。
「どうすんじゃ、むっきー!」
受話器を叩きつけそうになった瞬間、電話が再び鳴る。
液晶に表示されたのは、登夢の番号だった。
燃が受話器を取るやいなや、登夢の短く、そして確実な声が響いた。
『……明日、迎えに行く。引っ越しの準備をしておけ』
登夢の「仕事の早さ」は、血縁の温かさでもあった。
燃は、安堵で力が抜けるのを感じた。
「助かった。よろしく頼む。すまないが、引っ越しの件は他言無用で頼む」
燃は、答えるだけで精一杯だった。
『……分かった。準備ができたらすぐ休め』
そう言って登夢は電話を切った。
燃は、受話器をそっと置いた。
引っ越しと言っても大した準備は無く、燃はあらかた片づけて眠りについた。
親たちの強固なネットワークに運命を支配されながら、燃の打算がそれを肯定するという、皮肉な幕開けだった。




