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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

お水さま 路傍の祠

*この小説は同作者の「お水さま」の前日談です。

 「お水さま」を読んでからお読みいただくと、より楽しめます。

                            『ぽちゃ』

 「これって、俺たちの仕事じゃないっすよね」

 先週入ったばかりの安藤が、玉の様な汗を滲ませながら不満を漏らす。

 前職も土木の会社にいたせいか即戦力なのだが、こいつは今ひとつ融通がきかない。


 「今回の公共工事は入札に負けちゃったからな。つまらない仕事だけど値段は良いんだよ」

 俺は軽く安藤の肩をたたく。確かにこれは俺たちの作業じゃないのだが。

 「全部で三十社だから、一人十社運ぶだけだ。頑張ろうや」

 そう言って、目の前に積まれた石造りの祠を眺めた。

 ところどころ風化しているとはいえ十キロ程度はありそうだ。

 これを手作業で運ぶと思うと確かに気が滅入る。


 林の奥から、蝉の声が容赦なく降り注ぐ。


 「社長、そこそこ重そうなんだけど、この道一輪車も入れないんですよね」

 白いタンクトップの脇から、自慢げに三角筋と白い歯を見せびらかせながら男が質問する。

 山田はうちの会社では古株だ。いつも俺の考えを察して動いてくれている。


 「この祠を山道の先にある沼まで運ぶのか今回の仕事だ。荒れた山道だから全部手作業だな」

 俺の言葉に山田は下を向いて苦笑いをする。

 「よし、やりましょう。午前中に終わらせちゃおうかな」

 俺たち流の冗談。そして腕を曲げて上腕二頭筋をアピールしてくる。


 「筋トレにいいだろ? 無料どころか日当付きのトレーニングジムみたいなもんだ、やる気になるだろ?」

 俺は山田に笑いかける。

 「そりゃ、いいや。こんないい話はなかなか無いな。いくぞ、安藤」

 山田は両手を広げると、渋る安藤の尻を叩いて焚き付ける。


**


 実際、こんな仕事でも無いよりマシだ。

 鉄道が次々と延伸され、大規模住宅地が各地で造成されている昭和の今、この周辺の造成工事は、ゼネコンと地方自治体が共同で進めている大きなプロジェクトなのだ。

 隣の自治体にある、しかも弱小の会社には落札できっこないことは最初から分かっていた。けれど、入札さえしておけば仕事は回してもらいやすい。

 そうして今回の仕事も手に入れた訳だ。


 俺は軍手をポケットから出して安藤と山田に渡す。

 「つまんない仕事だからな。怪我だけはするなよ」

 南からの熱風が容赦なく体力を奪う。俺たちにはちょうどいい作業日和だ。

 「30分ごとに休憩にしような」

 俺の提案に山田と安藤は白い歯を見せながら頷く。

 「当然だよ。ドリンクは社長持ちでヨロシク」


 歩きながら、俺はこの仕事を受けた経緯を思い出す。

 どうやらゼネコンは、一面の畑だったこの地域を新しい住宅街として開発したいらしい。

 そして、農家が立ち退いた後に残った祠の処分が俺たちにあてられた仕事ということだ。

 この小さな祠は水神を祀っていたものらしい。昔水神を祀っていた沼に移設して欲しいという発注なのだけれども、沼までの道が殆ど整備されていないというのがオチだ。

 やっぱり地元じゃないと良い仕事は入ってこない。

 技術のいらない手作業の、力仕事にしては良い単価というのが救いだ。


 「とりあえず、一社ずつ運ぶか」

 俺は山田と安藤に声をかける。

 雲ひとつない青空がうらめしい。俺たち好みの結構な重労働になりそうだ。

 林の入り口にある、文字の消えた立て看板を眺めながら俺はそう思った。


**


 林に入って数分は砂利道が続いていた。

 木々の枝が頭上を覆っているので日差しが直接当たらない。

 左右の林からは少し涼しい風が吹いて来る。


 「な、安藤。良い風が吹いてくるじゃないか」

 後ろを歩く、不貞腐れた顔をした若手に声をかける。


 「これで運んでいる祠が重くなければ最高なんですけどね」

 後ろから安藤の声。

 「言うじゃないか」

 俺は返す。


 「それより……」

 安藤の沈んだ声。何か言いたげだ。

 「なんだ?」

 「これって、神様の祠ですよね?」

 「たぶんな」

 安藤が何を言いたいのか分からない。


 「前に道路工事の時に道祖神を動かした事があるんですけど」

 「道祖神も重そうだな。やっぱりこんな暑い時期か?」

 「いや、そうじゃなくって、その時は移動のために神主を呼んで祈祷をさせたんですよ」

 「地鎮祭みたいな?」

 振り返って安藤の顔を見る。


 「ああ、まああんな感じです。でも今日はそういうの無かったじゃないですか」

 何か不安げにそう言う。

 「もう終わってるんじゃないの?」

 俺は考えても仕方ない不安は考えないタチだ。

 「だと、いいんですけど」

 安藤は沈んだ声で答えた。


 施主が信心深ければ神事はすでに終わらせているだろう。

 俺が最初に見た時には祠は既にこの林の前に積み上げられていた。

 少しでも安く上げたい、いや、安く上げることしか考えない施主なら……。


 「俺だったら、こんな祠、はつってどこかの基礎の砕石にしちゃうけどな」

 俺の冗談に、安藤は声も出さずに口を引きつらせて笑った。


 ずっしりとした石の祠に、持つ手が痺れる。

 砂利道が終わって、道は左右に雑草が生い茂る山道にかわる。

 

 遠くから近くから響き続ける、途絶えることのない鳥の声。

 日差しは露出している肌を容赦なく刺し続ける。

 前方に、少し開けた場所が見える。


 「社長、このまま先に行くのは体力が持たないな。あの空き地を中継地点にしません?」

 山田の引き締まった筋肉は、玉のような汗をいくつも浮かべている。

 力仕事の最中に山田が音を上げるのは、なかなかある事じゃない。

 

 山田でも厳しいのなら安藤はたまったもんじゃないなと思った。

 「そうするか、とりあえずその空き地に祠を下すぞ」

 振り向きざまに安藤に指示をする。


 「あの木の下で、ひと休みするぞ」


**


 「この暑さの中での運搬作業はさすがにきついな」

 本音が出てしまった。けれど、木陰の気温は周囲より少しは過ごし易い。

 「一息つけますね」

 山田はさっきまで着ていた白いタンクトップを絞っている。

 地面に落ちた汗が水たまりに見えた。


 「さっきから気にかかっているんですけどね」

 山田は真剣な表情で俺を見つめる。

 「この先の沼に水神が祀ってあって、そこまで運ぶっていう話でしたよね」

 俺は黙ったまま頷く。

 「水神を祀るって事は社があったと思うんですよ」


 頭上にかかる枝が風に揺れる。葉がこすれる音がする。


 「社があるのなら、お参りしやすい様に普通は道に石畳とかあるんじゃないですかね。まあ、参拝を想定していない奥宮とかもあるにはあるんだけど」

 山田は空を見上げる。

 「一本道に見えたけど、道を間違えていないかな」


 施主から迷いそうな道があるとは聞いていない。けれど、この暑さの中に石の祠を持って戻るのは嫌だ。

 「確かに道を確認した方がいいかな」

 俺は思って、安藤を呼ぶ。

 「安藤、この先に行ってみて、沼があるか確認してきてくれないか」

 「俺っすか?」

 不満そうな目で俺を見る安藤。


 「おじさんたちはもうヘトヘトなんだよ。頼むよ、若者」


 額にひと雫、水滴が垂れてきた。雨が落ちてきた気がした。

 けれど、空を見上げても雲は出ていなかった。


 「わかりました」

 安藤は俺たちから目をそらして不満げに答えた


**


 安藤が出かけたあと、俺たちは大きな木の影で休むことにした。

 ここは空が開けていて、見上げると青空が大きい。

 つがいの鳥が仲良さそうに飛んでいくのが見えた。


 「なあ、社長。考えていたんだけど、さっき安藤が言ってたこと俺もおかしいと思うんだ」

 俺の隣に座る山田は、正面を向いたままぽつりと話しだした。

 「さっきの安藤の話って、神主を呼んでないって事?」

 俺の質問に安藤は頷く。


 「俺も昔、こんな感じの祠を廃棄する仕事をした事があるんだけど、その時は確かに神主を呼んで御霊抜きの儀式をしたんだよな」

 山田はつぶやく様に話しかける。


 そよ風が流れて、汗で湿った身体から熱を奪う。


 「その時は儀式をした神主の神社に祠を処分するために運ぶ役目だったんだけど、今回は沼に設置する役目だろ?」

 山田の言葉に俺は前を向いたまま頷く。

 「この祠、まだ生きてるっていう事だろ? 中に神様が残っているとしたら御霊抜きの儀式はされていないというのが普通の見方かもしれない」


 「何が言いたいんだ?」


 「祠を設置するということは、そこが本来あるべき所だからそうするのか、祠を使って何かを押さえ込もうとしているのか」

 「押さえ込む?」

 おれは山田の顔を見た。

 「この国には神社が結構あるけど、悪霊を閉じ込めるのが目的に作られている所も意外と多いらしいぜ。なんちゃってな」

 山田は本心を隠すかの様に、わざとふざけた顔で笑った。

 

 野鳥が足元に降りてきて、何かをつつきだした。


**


 蝉の声に混じって足音が聞こえてくる。

 曲がり角から、安藤が歩いてくるのが見えた。

 その道を挟んだ二本の木に、荒縄が結び付けられているのが見える。

 道の両側から雑草に覆われた山道。ここ最近は人が侵入した跡がない。

 いったい、誰が結びつけたものだろう。


 「ありましたよ。沼」

 安藤が遠くから大きな声で叫ぶ。

 「もう少し先ですよ。10分歩くか歩かないか」


 「あと10分か、全部で30分くらいの道のりだな。片道2キロくらいか」

 俺は腕時計を見ながら山田に話しかける。

 それを聞いて頷く山田。

 「往復4キロで1時間として、10往復で10時間、休憩なしでだぜ? 1日の作業量じゃないな」


 「確かにな、入り口からここまでで往復40分、それでも休憩をいれると8時間を超えるな」

 俺の言葉に山田が頷く。

 「とりあえず今日は運べるだけ運んで、明日は人を増やすか」

 まあ、今回の単価は常識はずれに良いから人を増やしても利益はでそうだ。


 木々の葉が、流れてくる風にそよいだ。


 「お疲れ、安藤。俺たちは次の祠を運んでくるから、お前はここで休んでていいぞ」

 明日は人を増やすとなれば、ここで慌てる必要がない。

 「次ここにくる時に、社長が飲み物を用意してくれるってよ」

 山田が余計な事を言う。


 「沼、あったにはあったんですけど、とてもじゃないけど行く事はお勧めできないです」

 安藤の様子がおかしい。


 「どうした?」

 道が悪いのか、祠を設置する場所がないのか。


 「沼の左側にお経が書かれた石柱があって、沼自体の雰囲気も怪しげで」

 安藤は、俺たちに目を合わせずに地面を向いている。


 「確かに、お経は仏教だな。水神とは関係なさそうだ。でも見間違いじゃないのか?」

 それより、安藤が言う、行かない方が良い理由は何だろう?

 「行かない方がいいっていう沼の雰囲気って、どんななんだ?」

 

 「誰か大勢に見られている様な気がしたんです。それとたくさんの人のヒソヒソ声がして」

 訴える様な表情の安藤。

 「その後、『ぽちゃ』っていう水音がだんだんと近づいて来るんで、俺は走って逃げました」

 安藤は俺のシャツを握りしめる。

 「ここは、来てはいけない場所かもしれない。この仕事、降りましょうよ」


 「そんな事言われてもな」

 俺は腕を組む。

 「この場所はどうだ? 安藤。ここも嫌な気配はするか?」

 山田が安藤に問いかける。

 「いえ、ここは別に。逆に落ち着く気がしますね、運んできた祠があるからかな」

 安藤は辺りを見回す。そして普段の表情に戻った。


 「じゃ、俺たちはまた祠を運んでくるから、ここで落ち着くまで待っててくれるかな」

 安藤は、黙ったまま頷いた。


**


 左右の林から、少し湿った風が肌を撫でる。

 風に当たると汗が乾く。


 俺は入り口までの道のりで、山田に話しかける。

 「安藤のこと、どう思う?」

 山田は振り向いて答える。

 「怖がっていたな。最初からこの仕事を嫌がっている感じはしていたが」

 「安藤はこの辺りの出身だ。嫌がっていたのを俺が無理やり今日の仕事を誘ったんだけど」

 俺は安藤との会話を思い出す。

 「そうなんだ。でも社長、今それ以上に気になるのは、お経が書かれた石碑のところだ」

 「確かに。殆ど人が来ない場所に、何もなければそんなの建てないな」

 「供養の石碑だとして。昔あの場所で何か大きな悲劇があったか、それとも刑場だったとか」

 「でも山田、周囲の状況を見ても、ここはあんまり人が入り込む場所じゃないぞ。大きな悲劇も考えにくいし、江戸時代の刑場は見せしめのために街道のそばに設置していたと聞いた事がある」

 「確かにな。でも、じゃあ安藤が言っていた石碑は何のための物なんだと思う?」

 俺には答えが見つからなかった。

 「まあ社長、なにも無いといいんだけれどな」


 青い空に、薄い雲が流れていく。

 太陽はじりじりと肌を焼く。

 けれど、俺の心境はそんな夏の景色とは正反対に、この現場の異様さに沈みかけていた。

 山田のポケベルが音をたてた。


**


 俺の目の前には二十七社の石の祠がある。

 おれは、祠を目の前に林の切り株に座っている。


 「ポケベルで家から呼び出しがあったんだ。公衆電話を探して来る。ついでに飲み物を買って来るから社長はここで待っててもらえるかな」

 言い残して山田はここを後にした。

 俺は今回請け負った仕事の事をもう一度考えてみる。


 まず俺は、近隣の仕事でもいいからとにかく仕事が欲しかった。

 で、落札できないことを知りながら入札をした。

 結果、当然落札できなかったわけだが、一ヶ月後にこの仕事の話がきた。

 まず、ここがおかしい。話が来るまでに時間がかかり過ぎている。

 そして、提示のあった金額。作業の内容に比べて高額すぎる。

 この金額なら普通であれば地元の業者が受注しているはずだ。

 なぜ一ヶ月決まらなかった。


 山田の言っていた事。

 この奥の沼に水神が祀られていたとして、そこに至る道が参拝向けではない。

 そして、安藤が言っていた沼の石碑の意味。何のために置かれたのか理由が不明だ。

 安藤が言っていた、沼の周囲での大勢の視線や声、水音も意味がわからない。

 この周囲は一体が森と言っていいほどの森林が広がっている。

 俺たちが入った道以外には道はないと聞いている。

 周囲に民家も、散策路すらもないはずだ。

 謎が多すぎると思った。


 遠くから歩いて来る山田が見えた。誰か老女を連れている。


**


 「社長、実はさっきのポケベルなんですが、娘が学校の水泳の授業中に溺れてしまった連絡で。今日は病院に寄るので帰りたいんです」

山田はいつになく慌てている。


 「娘さんが? 命に別状はないのか?」

 「大丈夫そうなんですけど、病院に支払いをしなくてはいけないのと、車で家まで送りたくって」

 「なら安心した。今日はお疲れな。で、その人は?」

 俺は一番最初に感じた違和感を質問する。

 「この人は、公衆電話を借りた商店の奥さんです。今日の作業の事を話したら、現場を見てみたいって」

 年配の女性は俺に缶コーヒーを二本渡した。

 「はい、まだ冷たいよ。で、まさかとは思ったけど、この道を入ったの?」

 丸く巻いた白髪は、後ろ姿でそう言った。

 俺は黙ったまま頷いた。


 道の奥から湿った風が流れて来る。


 「社長、俺はこれで」

 山田は振り返った後、駆け足で去っていく。


 「どこまで行ったのか案内して。まあ、私は入れるところまでしか行かないけどね」

 まぶたに少しシワのある、それでも大きな目。

 「歩きながら説明するよ」

 女性は湿った風に向かって歩き出した。


 林の木々は夏の日差しを浴びて、その緑を濃厚に輝かせている。

 左右の木々が砂利に覆われた道に影を落とす。

 

 「この先の沼は、昔は水神の沼と言われていてね、入り込む川も、流れ出す川もないのにいつも水を湛えているのが不思議だと言われていたのよ。まあ、地下から湧き出てくる水が少しだけだったから蒸発する水の量と同じくらいっていうだけだったと思うんだけどね」

 女性は突然沼の事を話しだした。この先の沼は水神の沼というらしい。


 「水神の、と言うことは沼は信仰されていたんですか?」

 「水不足の年も、この沼は少しずつ水が湧き出ていたから昔はね。それもあってこの周辺ではどの家も沼をみたてて水神の祠を信仰していたわけ。それがさっきの祠」

 「俺たちが運んでいたのは水神の祠なんですね」

 半分風化した祠が並んでいる様を思い浮かべる。


 「そう。でも、江戸時代の末期にこの周辺を収めていた奉行が沼に刑場を作っちゃったのよ」

 眉間に皺をよせる女性。

 「周囲の人が信仰していたのに?」


 「そう。街道上にあった刑場を移したらしいの。昔は処刑って見せしめの意味があったんだけど、その奉行は処刑するところを人に見せるのは残酷だと思ったらしいのよ」


 「それでお経の書かれた石碑が」

 「石碑まで行ったの?」

 女性は驚いた様に振り向く。


 「いや、俺は」

 

 「よかった。取り返しがつかない事になってると思った。この地域は刑場を受け入れる代わりに灌漑用水を引いてもらったらしいの」

 「水神は必要なくなった?」

 「でも、各家庭では信仰は継続していたのよ。相変わらず祠を祀ってた」

婦人は人懐こそうな笑顔で俺にそう言った。


 「明治になって、刑場が廃止になったでしょ? その時にあなたの言っていた石碑が建てられたの。でも、そこでお経を読んだお坊さんが可哀想な事になっちゃってね。何人かでお経を読めば良かったんだろうけど、一人だとね。その後もあの沼に行った人たちにいろいろと不幸な事があって、結局誰も行かなくなっちゃったのよ」

 巻かれた白い髪のおくれ毛が風になびく。


 「沼に行っては駄目って事ですか?」

 「絶対に駄目。お水さまがついてくるから、この地域の人は絶対に近づかないわ。でも、この道に絶対入っちゃ駄目っていう意味ではないの。どこまで入れるか教えてあげるから」

 そう言いながら、婦人は振り返る。


 「今回の仕事は、沼まで石碑を運ぶ事なんですけど」

 婦人の背中に話しかける。


 「絶対に駄目。入っても良いところを教えてあげる。この地域の人なら、それで文句は言わないはず」

 そこまで聞いた俺は、その後は一言も話さずに、婦人の後を歩く事にした。

 気を抜くと、沼まで入った安藤の事を話しそうになってしまうから。


 「祓詞を読んでくださった神主様がつけてくれた結界があるの。全部は祓えていないみたいだけど、そこまでなら入っても支障ないらしいから」

 婦人は笑顔で振り返った。


**


 三社の祠が置かれた、少し広がった草地の木の下に安藤は座っていた。

 この場所は、この先より少しだけ安らかな雰囲気がする。


 「あ、社長。あれ? 山田さんは? それからその人は?」

 驚いた表情の安藤に缶コーヒーを渡す。

 「約束の飲み物だ。この人は地元の商店の人。この缶コーヒーをくれたんだ」

 「あら、やだ。さっきの人からちゃんとお金はもらっているから」

 女性は口に手をあてて微笑む。

 「社長のおごりじゃないんだ」


 婦人は辺りを見回すと、道の先にある木に括り付けられた荒縄をじっと眺める。

 そして俺に耳打ちをする。

 「ここまでなら平気。でも、あの縄の先には絶対に行かないでね。あと、ここに祠を置いてもらえると私たちも安心。信仰がまだ少し残っている気がするの。私からもお願いするわね。じゃ、少し休んだらお願いね」

 俺は女性は来た道を帰って行くのを見送った。


 「安藤、この仕事けっこうきついから、明日人を増やして片付けようと思うんだ。今日は終わりにしようか。日当は一日分だすからさ、明日もよろしく」

 「社長、俺、明日もなんて死んでも嫌ですよ」

 暑さに疲れた様子の安藤。

 「本当のことを言おう。俺も嫌だ」

 俺の言葉に、安藤は初めて笑顔を見せた。

 そして、家に帰る事にした。


**


 俺が家に帰ると、家の中は水浸しだった。

 「何にもしていないのにキッチンの水道が壊れちゃったのよ」

 俺の妻は、何もしていないのに周りの物がよく壊れる。

 「なぜ連絡しなかったんだよ。俺なら直せたのに」

 「だって、あんた仕事の時に連絡すると怒るでしょ」

 妻の反撃。言い返す事ができない。

 「とりあえず直すから、ちょっと向こうに行っててくれないか。

 この症状ならどうせパッキンの故障だろう。簡単に治る。


 『ぽちゃ』

 水滴の落ちる音がする。

 安藤から聞いた、沼の中から聞こえてきた音を思い出す。

 『ぽちゃ』


 俺は水道の配管を見ながら今日のことを振り返る。


 山田の娘は水泳の授業中に溺れたらしい。

 そして俺はこれだ。

 そういえば、安藤が沼に行く前に水滴が落ちてきたっけ。


 困った事が全て水に繋がっている事が気に掛かった。


**


 俺は今、蝉の声と小鳥の囀りを聞きながら残った二十七社の祠の横に立っている。

 今日は昨日集めた山田と安藤に加えて二名を加えて五名で作業をするはずだった。

 けれども、安藤が来ていない。

 四名だと一人最低六往復になってしまう。

 俺は、昨日の安藤の言葉を思い出す。


 『社長、俺、明日もなんて死んでも嫌ですよ』


 ケツを割られたと思った。けれども、今はどうしようもない。

 俺は今日集まった山田と二人に説明した。


 「これから、ここにある祠をこの先の祠が三社置いてある所まで運ぶ。片道約二十分だ。そこで十分休んだら戻ってまた運ぶ。それの繰り返しだ。暑い中の作業なので、飲み物と弁当を手配する。後についてくるように」


 俺は祠を持って先頭に立つ。

 次いで筋肉質の山田。


 昨日と同じ、砂利道の間は歩きやすい。


 山田が小さな声で話しかけてくる。

 「社長、安藤はどうしました?」

 「安藤か、昨日の帰りに『社長、俺、明日もなんて死んでも嫌ですよ』って言ってたな」

 俺は答える。

 「そうですか、心配する必要はなさそうですね」

 山田は胸を撫で下ろした気配だ。

 「で、今日は沼までじゃなくていいんですか?」

 「俺が元請けと交渉する。あの広場までで良い事にしよう」

 「助かりますよ。沼までだと八時間で足りなそうな気がしたんで」

 白いタンクトップは、同じく白い歯を剥き出して笑った。


 そうして、今日こそは何事もなく一日を終えた。


**


 「山田、俺はこれから安藤の家に行こうと思うんだけど」

 二人を先に家に返した後、俺は安藤に相談する。


 夏の六時過ぎとはいえ、茜色の夕陽が落ちてきている。

 林の奥は、すでに薄暗い。

 祠の方角から、いくつものカラスの声が響く。


 「俺も一緒にいきますよ。安藤の事ちょっと心配だし」

 山田が俺の一歩前を歩き出した。


 それから約三十分後、俺たちは二階建てのアパートの前に到着した。

 それぞれの家からは蛍光灯の灯りが漏れている。

 周囲は、すっかり夜の闇に飲まれている。


 二階に一部屋だけ灯りがついていない部屋がある。


 「安藤の部屋、電気がついていないな」

 手帳に書かれたメモを見ながら俺は呟く。


 スチール製の外階段を登る。

 203と書かれた木製のドアの横に安藤と書かれた黄ばんだ紙が貼られている。


 ドアのノブを回すと、鍵はかかっていなかった。

 チャイムを鳴らす。

 返事はない。

 ノックをする。

 返事はない。


 俺はゆっくりと、いや、おそるおそるドアを開ける。

 ドアがきしむ音がする。嫌な音だ。


 水の匂いがした。

 淀んだ、沼の表面に浮かぶ腐った水の様な匂い。

 電気はついていない。


 「安藤」

 名前を呼んでも返事はない。


 「上がるぞ」

 暗闇にむかって呼びかける。


 靴を脱ぎ、部屋に上がった。

 電気をつけると台所が横にあった。


 「山田」

 俺は後ろからついてくる山田に呼びかける。

 山田は黙ったまま俺の後に続いている。


 台所と部屋を仕切る襖をそっと開ける。

 暗闇に、安藤がいた。

 部屋中に腐った水の匂いが立ち込めている。

 布団から上半身を起こして固まっている。


 「安藤」

 俺が名前を呼ぶと同時に山田が灯りをつける。


 蛍光灯が安藤を照らす。


 安藤は恐怖に怯えた表情で、瞳を大きく広げて、天井を見上げていた。

 両手で天井から来るものを防ぐ格好で固まっている。


 真っ白な顔で、体を固めたまま息絶えていた。

 濡れた髪を真っ白に変えて。瞳から赤い液体を涙の様に流しながら。


 俺は山田と顔を合わせながら、次の行動を考えた。


**


 安藤の死が沼のせいかどうかは分からない。

 けれど、縄の先に行ったのは安藤だけだった。

 安藤は、祠のある場所は落ち着く気がすると言っていた。

 祠は問題ないのだろうか。

 少なくとも俺と山田は無事だ。

 そうすると……。


 安藤の亡くなった理由は沼なのだろうか、それともお経の書かれた石碑?


 俺は、水の腐った匂いの中で、安藤に手を合わせた。


 『ぽちゃ』

 どこからか、水音が聞こえた。


 


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