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天国のあとに残った灰  作者: 霧崎 蒼司


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第94話: 覚醒の足場

闇の中で、アコウが静かに声を漏らした。

「いつまでも他人の引き立て役でいるなよ、ゾア」

その声は低く、大きくはなかったが、確かな重みがあった。

「周囲が超越者ばかりの時、すべきことは気落ちすることじゃない」

「集中しろ。彼らに追いつくんだ」

「お前が持つ天賦の才と能力があれば……必ずできるはずだ」

傍から聞けば、それはただの独り言に過ぎない。

だが、アコウにとって、それは偽らざる本心からの期待だった。


――戦場にて。

冷たい風が梢を抜け、静寂の中に長いさざめきを刻んでいく。薄い月光が地を照らし、森を光と影のまだら模様に二分していた。

そこに立つのは、二人だけ。

アスタリオン。

そして、ゾア。

二人の視線がぶつかり合う。

言葉はない。

だが、その眼差しにあるのは絶対的な真剣味――互いに命を賭しているという確信だった。


ゾアが瞬きをする。

その瞬間――。

周囲に高くそびえる漆黒の柱が、音もなく姿を現した。衝撃も、地響きもない。ただ、そこにある。

ゾアは一瞥し、瞳孔を微かに収縮させた。

脳内でアスタリオンの能力に関する記憶を掘り起こす。かつて見たもの。かつて味わわされたもの。

だが、アスタリオンがその思考を断ち切るように口を開いた。


「敬意を表して、一つ教えておこう」

彼は目を開けた。紫の瞳が夜闇に発光する。

「私の能力は、進化とともに時を経て変容する」

「形は同じに見えても……その効果は別物だ」


ゾアは一瞬、呆気に取られた。

能力が奇妙だからではない。

アスタリオンが自ら、これほど重要な情報を開示したからだ。

「……なぜ教える?」

ゾアが単刀直入に問う。

「それはお前にとって、絶大なアドバンテージのはずだろう」

アスタリオンは微かに笑った。

「言ったはずだ。敬意だと」

彼は一歩、静かに踏み出した。

「対等な勝負を望んでいるのだよ。互いを理解し合った上での結果でなければ、意味がない」


ゾアは数秒間、沈黙した。

脳裏を掠めるのは、NGについて教え込まれた記憶。教科書の冷徹な文言。敵という存在についての教訓。

だが、今目の前にいるのは――。

怪物ではない。

矜持を持った、一人の好敵手だ。

ゾアは静かに息を吐いた。

おそらくNGも人間と同じなのだろう。

悪しき者もいれば、そうでない者もいる。

すべてを一括りにするのは、最初から間違いだったのだ。


ゾアはそれ以上語らなかった。

胸元に手を差し入れる。

魂そのものから引き抜かれるように、白銀のエネルギーの帯が現れた。光は凝縮し、見慣れた剣となってその手に収まる。

ゾアは重心を低くした。

戦闘態勢。


アスタリオンはその剣を見て、眉を微かに動かした。

「……まだその剣か。以前のようにもっと多様な戦い方をすると思っていたが」

ゾアは柄を強く握りしめる。

「基本に見えるものこそ、俺が最も習熟し、最も効率的に使えるものなんだ」


空間が再び静寂に沈む。

葉を揺らす風の音だけが響く。

一拍。

二拍。

そして――。


ゾアがその場から消失した。

地面を蹴る衝撃で足元が微かに割れ、超高速でアスタリオンへと肉薄する。

今回、彼は黒い炎を使わなかった。

あの闇の柱の真の正体に疑念を抱いていたからだ。正体不明の罠に自ら飛び込むつもりはない。


戦いの火蓋が切られた。

数十の銀の斬撃が空間を切り裂き、アスタリオンへと殺到する。

彼の肉体はバラバラに寸断され、空中で霧散した。

だが――。

血は流れない。反撃のエネルギーすら感じられない。

それは、完璧に擬態された「汚染変異体」だった。

本物のアスタリオンは、そこにいなかったのだ。


「後ろだ」

遅すぎた。

アスタリオンがゾアの背後に現れ、真っ直ぐな拳を放つ。

ゾアは目を見開き、本能的に反応した。間一髪で身を翻し、拳の先が肩をかすめる。銀の剣が即座に裏打ちされる。

一撃、二撃、十撃。

白銀の軌跡が夜を切り裂き、森の陰鬱な空気を引き裂く。

だが、アスタリオンの身体は突如として自身の影へと溶け込んだ。

斬撃は虚空を抜け、彼が最初からそこに存在しなかったかのようだった。


その時――。

周囲の黒い柱が、地底から響く緊張した金属音のような低い鳴動を一斉に放った。

音は大きくはない。

だが、心臓に響く。

ゾアは一瞬、動きを止めた。

ダメージは感じない。物理的な圧力も、空間の歪みもない。

彼は即座に自身の状態を確認した。心拍、エネルギーの循環、認識。

現実には留まっている。幻覚に引きずり込まれたわけでも、転送されたわけでもない。

ならば……。


アスタリオンが、講義でもするかのように平然と言った。

「黒い柱の能力を……変更した」

「今のこれは、範囲内にいる者の『スキル・クールタイム』を増大させる」


ゾアは剣の柄を僅かに握り締めた。

アスタリオンは続ける。

「回転の速いスキルほど遅くなり、そしてこれの恐ろしい点は……」

目を見開くと、紫の光が閃いた。

「使用制限がないことだ。戦いが続く限り、柱が存在する限り、お前のクールタイムは無限に近い時間へと引き延ばされていく」


空気が重く沈む。

ゾアはその意味を即座に理解した。

「温存することが、無意味になるわけか。長引けば長引くほど、俺の手足は封じられる」

アスタリオンは微かに頷いた。

「だからこそ、最初から起動した。お前が全力を見せる前に様子見を選ぶことは分かっていたからな」

その声に嘲りはない。

ただ事実として、認めていただけだ。


ゾアは微かな奇妙さを感じた。

アスタリオンは、あまりにも「潔い」戦い方をしている。

能力を説明し、戦略を明かす。

それは油断ではない。ゾアに、納得のいく敗北を与えたいがゆえだ。

完膚なきまでの、理にかなった敗北を。


ゾアは短く息を吐いた。

「……なら、温存する必要もなくなったな」

言い放つと同時に、彼は弾丸のようにアスタリオンへと突き進んだ。

銀の剣が振るわれる。

数十の汚染変異体が道を阻むように飛び出す。

だが、今度のゾアの剣筋は以前の焦燥を感じさせない。

滑らか。

正確。

冷徹。

一振りごとに最適な軌道を辿り、表面的な切断ではなく、変異体の存在の核心を絶つ。

紙細工のように崩れ去る汚染体。

ゾアは一歩も無駄な動きを見せず、縦横無尽に駆け抜ける。

暗い森に銀の光が乱舞し、完璧な軌道を描き出していく。


アスタリオンは目を細めた。

ゾアが、変わっている。

強くなっただけではない。より洗練され、研ぎ澄まされている。

初めて出会った時の戸惑いは、もうない。

一歩一歩、一振り一振りが、過去の自分を遥かに超越していることを証明していた。


アスタリオンが即座にリズムを変えた。

その掌に闇の球体が出現する。

回転せず、震えもしない。

ただ、そこにあるものを「呑み込む」だけ。

凄まじい吸引力が爆発し、地面、木の葉、瓦礫、そしてゾアをも球体の中心へと引きずり込む。

ゾアは歯を食いしばり、剣を地面に突き立てて踏ん張るが、それでも強引に引き寄せられる。


「遅いな」

アスタリオンが指を鳴らす。

球体が弾けた。

光のない、重苦しい爆発が響く。空間が押し潰されるような破壊だ。

ゾアは咄嗟に剣を構え、盾とした。衝撃波が彼を宙へ弾き飛ばす。服は裂け、肉体は凄まじい圧迫感に震えた。

着地する間もなく――。

頭上からナイフよりも鋭い闇の糸が降り注ぐ。

ゾアは空中で身体を捻った。

一、三、十の連撃。

銀光が連鎖し、肌に触れる前にすべての糸を切り伏せる。

地を踏むと同時に、止まらずにアスタリオンへと肉薄した。

だが、前方の地面が突如として爆ぜた。

巨大な闇の手が地底から突き出し、宙に浮いたゾアを鷲掴みにして締め上げる。

骨の軋む音が響く。

ゾアは声を上げない。

銀の剣が完璧な円を描いて一閃。

闇の指がすべて切り落とされた。

落下するその瞬間、死角から無数の闇の糸が再び襲いかかる。

ゾアは辛うじて身をかわしたが、糸の刃が肉を裂き、長い筋を刻んだ。血が滲む。深くはないが、痛みは確かだった。


アスタリオンは見下ろし、紫の瞳を微かに揺らした。

「……成長したな。黒い炎を使わずに、ここまで持ちこたえるとは」

ゾアは立ち上がった。

高次エネルギーが全身を巡り、浅い傷口がゆっくりと塞がっていく。

彼は冷静に答えた。

「黒い炎は必要ない」

「今回は、それを使うつもりはないんだ」

ゾアは剣を目線の高さに掲げた。

「純粋な剣術で、お前と渡り合う」


モニター越しに見ていた者たちは、驚愕を禁じ得なかった。

ゾアは『フェニックス・ブルーアイ』を所有している。スキルのエネルギー消費を極限まで抑えられるはずの彼が、スキルを使わないというのは、自ら最大のアドバンテージを封じるに等しい。

だが、ゾアは確信していた。

強者とは、常に能力で勝つ者のことではない。

市川と白龍の戦いを思い出せば明白だ。

市川は能力に依存せずとも、盤面を支配していた。

能力とはただの道具。

勝敗を分かつのは高次エネルギーの質……そして個人の技量だ。

そして技は、極限まで使い込むことでしか磨かれない。

能力に頼り続けていては、ゾアは永遠にその上の境地には届かない。

彼は、もう以前の自分ではいたくなかった。


アスタリオンを待たせることはない。

ゾアが地面を力強く蹴った。

銀の斬撃が空気を裂く。

アスタリオンが両断される。

だが、やはり影に過ぎない。

茂みから闇の糸が雨のように降り注ぐ。

ゾアは予測していた。

後方へ跳躍。

かつて彼がいた場所に糸が突き刺さる。

ゾアは糸の起点を見なかった。

前回の戦いを思い出していた。アスタリオンは常に、相手の自然な回避方向の死角に本体を置く。

ゾアは自分をその位置に置いた。

「もし俺なら、どこに潜む?」

瞳孔が絞られる。

あの茂みではない。

左斜め後ろだ。


ゾアが身を翻す。

渾身の一閃。

銀の光が巨大な弧を描き、大樹の列をなぎ倒した。

アスタリオンは回避のために潜伏場所から飛び出さざるを得なかった。

今度こそ――本体だ。

彼の顔に驚きが走る。

ゾアは当てずっぽうではない。

彼の動きを「読んで」いたのだ。


モニターの向こう側で、アコウが微かに口角を上げた。

「……身体が思い出し始めたようだな」

その眼差しが鋭さを増す。

「旧主体の戦闘経験が……徐々に目覚めている」


その言葉通りだった。

純粋な剣術と、この肉体に刻み込まれた微かな戦闘経験だけで、ゾアはアスタリオンの仕掛けるすべてを一つずつ解体していく。

かつて彼を苦しめた闇の柱は、今や持ち主のエネルギーを削るだけの無用な長物と化した。もしアスタリオンがこれ解除すれば、ゾアは黒い炎を解禁できる。そうなれば戦局は完全にゾアへ傾く。だが維持し続ければ、無意味に消耗し続けることになる。

召喚された汚染変異体も、もはや障害にすらならない。現れた瞬間に冷徹な剣筋で切り刻まれ、魂のない黒い塵となって消えていく。


アスタリオンは認めざるを得なかった。

ゾアは、彼を能力のさらに深い階層へと踏み込ませるに足る存在になったのだと。

本来、アスタリオンの能力は無数のスキルを内包している。覚醒した当初は、彼自身も効率的な順序すら分からなかった。あまりにも強すぎる力は、時に重荷となる。

だが、今は違う。

彼は抑制を学んだ。

配分を学んだ。

完璧な効率で命を奪う術を学んだ。


アスタリオンが両手を合わせた。

ゾアが肉薄し、銀の刃が空中に軌道を描く。

その瞬間――。

地表から数百もの漆黒の腕が競り上がった。

それらがゾアの身体を執拗に掴む。

死体のように冷たく、腐食性の物質を帯びた手が肉を焼き、筋肉をじわじわと削っていく。焼けるような感覚が全身を駆け巡った。


ゾアの動きが僅かに止まる。

だが、刹那の間だけだ。

彼は身体を回転させ、全身の力を込めて狂気的な速度で剣を振るった。

数百の連撃が爆発する。

銀光が流星群のごとく降り注ぎ、無数の腕を瞬時に切り落とした。腕は黒い霧となって消える。

だが――。

空が暗転した。


ゾアが仰ぎ見る。

頭上、闇で形成された数百もの巨大な拳が、隕石のように降り注いでいた。

回避する時間はない。

ゾアは歯を食いしばり、剣を立てて防戦に回る。


――轟ッ!

――轟ッ!

――轟ッ!


巨大な打撃が連続して叩きつけられる。一撃一撃が建物を粉砕するほどの質量を持っている。大地は割れ、瓦礫が波のように舞い上がった。

衝撃が骨の髄まで響き、ゾアの肉体が震える。絶え間ない連続攻撃が、息をつく暇さえ与えない。

しかし、アスタリオンは攻撃を緩めない。

自らの腕を黒いゴムのように引き伸ばし、恐るべき乱打を繰り出した。

一拳一拳が空気を歪めるほどの圧力を伴っている。

ゾアが吹き飛んだ。

背後の岩壁に叩きつけられる。

巨岩が砕け散り、塵が舞う。


ゾアは瓦礫の中からゆっくりと立ち上がった。

「……本当に、とんでもない変異体だな」

口角の血を拭い、視線は標的から逸らさない。

「お前の能力は……一体どういう理屈で動いているんだ?」

砂塵の中でアスタリオンの紫の瞳が光る。

ゾアはそれを凝視した。

「その瞳……市川と同じ特性なんだろうな。『世界に選ばれた者』のそれだ」

彼は肩の埃を払い、妙に落ち着いた声で言った。

「だとしたら、幸運なんだろうな。もっとも、市川は幸運なんて呼べる境遇じゃなかったが」


アスタリオンは数秒間、沈黙した。

「……生まれた時からこの瞳だった。紫を隠すために能力を使い続けていただけだ」

ゾアは微かに笑った。

「なら……お前にとって、それは誇るべきものじゃなかったのか。あるいは周囲に、その価値を理解できる奴がいなかっただけか」


アスタリオンは答えない。

一瞬、彼の眼差しが暗く沈んだ――触れたくない記憶に触れたかのように。

そして、彼は顔を上げた。

「変わったな、ゾア。その性格……お前のものではないな」


その言葉は、何気ないようでいて、最も深い部分を突く針のようだった。

ゾアの動きが止まる。

「これは……この肉体の人格か?」

思考よりも先に、声が漏れた。


その瞬間――。

アスタリオンが消えた。

正面からの激突。

もはや搦め手はない。

闇からの奇襲もない。

真っ向からの殴り合い。

一拳一拳が濃密な闇を纏い、破壊の塊となって襲いかかる。ゾアは剣を振るい応戦するが、その刃は闇の防護を容易には通さない。

闇はただの覆いではない。

力の核そのものだ。

そこから放たれるダメージは、ゾアの剣を震わせるほど凄まじい。


二人は入り乱れた。

剣と拳が激しく交錯する。

金属の硬質な打撃音が空間に響き渡る。

土石が爆ぜ、砂塵が終末の戦場のように巻き上がる。

速度は視覚の限界を超え、踏み出す一歩が亀裂を生み、放つ一撃が相手を粉砕せんとする意志を宿す。


そして、拮抗した力の均衡が、息が詰まるほど張り詰めたその瞬間――。

ゾアは感じ取った。


黒い炎ではない。

フェニックス・ブルーアイでもない。

それは……。

内側から開かれようとしている、別のエネルギーの階層。

別の扉。


この肉体。

この記憶。

この本能。

すべてが一つに溶け合っていく。


ゾアは剣の柄を、折れんばかりに握りしめた。


「……覚醒の足場ステップ。……ここだ」

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