第84話: 制御された自壊
「それは、あまりに恐ろしすぎはしないか?」
市川の瞳がわずかに翳った。その動揺はほんの一瞬、対峙する者が辛うじて気づく程度のものだったが、彼は即座にその気概を立て直した。無理やり背筋を伸ばし、何ものもその意志を揺るがすことはできないと言わぬばかりの構えを維持する。
「恐ろしいと言えるだろうな……私にとっても、お前にとっても」
白龍の声が低く沈む。その曖昧とも取れる言葉には、不可解なほど重苦しい質量が伴っていた。彼はそれ以上語らなかったが、その眼差しがすべてを物語っていた――それは、かつて禁忌の境界に触れ、支払うべき代償の正体を知る者だけが宿す光だった。
直後、白龍が手を挙げた。その動きは緩やかで、指先は奇妙な秩序に従って開閉される。あたかも歴史の闇に葬られた儀式の印を結んでいるかのようだった。激しいエネルギーの爆発も、空間を圧する咆哮もない。ただ、闘技場全体に背筋を凍らせるような寒気が広がっていった。白龍の目尻から、二筋のどす黒い血が流れ出し、頬を伝って地面へと滴り落ちる。
市川は即座に異変を察知した。生存本能が脳内で、一呼吸でも躊躇えば取り返しのつかない結末を招くと叫んでいる。彼は足に力を込め、瞬きの間に地を蹴って突進した。「爆破」と「覇者の権力」を同時に起動させ、放たれた拳は空気を圧砕する威圧感を纏う。
だが、すべてはわずか一秒の出来事だった。
白龍の瞳が突如として変貌した。老練な戦士の冷静さではなく、もっと深く、古の何か――あたかも別の実体が彼を通じてこの世界を見開いたかのような。市川が肉薄した瞬間、周囲の時間。が凝固した。音が消え、動きが凍りつく。空間は白黒へと転じ、窒息しそうなほどの静寂が支配する。その中心で、白龍だけが色彩を保っていた。
彼は微かに笑った。
「……面白いことになりそうだ。もし、私の懸念が的中しているのなら」
言葉が終わるや否や、世界はあたかも一度も止まらなかったかのように再び動き出した。市川の拳が突き進む――だが、それは虚空を打つのみだった。視界の隅で黄金の閃光が弾け、白龍の姿は消失していた。
市川は驚愕に目を見開き、瞳孔が収縮した。何が起きたのか理解する間もなく、背後から冷徹な圧力が襲いかかる。いつの間にかそこに現れた白龍は、片手を掲げ、純粋な光エネルギーから精錬された刃のごとき、激しく明滅する光の束を凝縮させていた。
市川が首を巡らせた瞬間、光の豪雨が降り注いだ。
天地を揺るがす轟音が響き渡る。地面は引き裂かれ、砂礫が宙へと舞い上がり、視界を完全に遮蔽した。衝撃波が伝播し、闘技場全体が震える。観客たちは息を呑んだ。目の前にあるのは非現実的な、しかしあまりに恐ろしく実在感のある光景だった。
砂塵の渦の中から、市川が再び姿を現した。切り刻まれたはずの腕には傷跡一つ残っていない――「木」と「水」の元素が交錯し、信じがたい短時間で肉体を再構築したのだ。彼の前方に築かれた氷の壁からは猛烈な煙が上がり、光の凄まじい残熱によって表面が溶け出している。
白龍はその光景を見つめ、口角を吊り上げて興味深げに、かつ深い憂慮を湛えた笑みを浮かべた。
「やはりな……私の思った通りだ」
そしてまさにその瞬間、真実が明かされ始める――白龍からではなく、闇の深淵からすべてを見つめるブラックウィングスの首領の知見によって。
白龍が今しがた振るったのは、単なる技術や戦闘能力ではない。それは、高次元エネルギーがいまだ神話の姿を留めていた時代から存在する「禁儀」であった。失われたスキルを強制的に蘇らせ、短時間だけ自らの理を歪めて限界を超えた力に触れる手法。死の淵を幾度も彷徨い、あるいは「人間」の閾値を超えた者だけが、死闘の中で行使し得る――あるいは行使せざるを得ないもの。
過去、その儀式にはただ一つの名が冠されていた。
「死式」。
この儀式は、使用者の肉体を通常の時間の限界を遥かに超えて強制駆動させる。体内のエネルギー回路の流速は過負荷状態にまで高められ、生体システム全体が凄まじい圧力に晒される。それはもはや通常の戦闘状態ではなく、一種の「制御された自壊」である。その代償として、使用者は「環境」を展開する能力を完全に失う。封印されるのではない。肉体が、それ以上の複雑な制御を受け入れる余地を失ってしまうのだ。
引き換えに、この儀式はスキルのクールタイムを無視した再発動を可能にする。あらゆるインターバルの制限が取り払われるのだ。しかしそれゆえに、「究極能力」はもはや使用不可能なものとなる。ロックされるのではない。この状態でそれを発動すれば、駆動圧が肉体の許容限界を超え、唯一の結末――完全な崩壊を招くからだ。言い換えれば、「死式」とは肉体を死の速度で酷使しながら、基本スキルのみで戦い抜くことを強いるものだ。「究極能力」は元より肉体を通常以上に酷使するものであり、この状態下での行使はほぼ不可能と言える。
このメカニズムの根底にあるのが「エネルギー回路」だ。能力を持つ者の体内には、スキルの発動・分配・解法を司る「導管」としてのシステムが存在する。この回路の数が多ければ多いほど、力の集束と解放の速度は上がり、スキルの回転率も飛躍的に向上する。エネルギー容量が「どれだけの力を持てるか」を示すなら、回路はそのエネルギーが通らねばならない「道」である。
通常の人間は十二本ほどの回路しか持たない。しかし、特別な者は違う。市川はその稀有な例外であり、四十八本ものエネルギー回路を有していた。だからこそ、彼の戦い方は一見すると無謀で乱雑、クールタイムを一切考慮しない連続行使が可能だったのである。固定された制限を持つスキルを除き、市川が「手空き」の状態になることはまずない。
そしてそれこそが、白龍が「死式」は双方にとって恐ろしいと言った理由であった。
市川にとっての脅威は、白龍が常に「先」にスキルを放ってくる点にある。待ち時間も、リズムを予測する隙もない。一つの過ちが即座に致命傷へと直結する。だが、白龍自身にとっても、脅威は先ほど予測したばかりの「可能性」から来ていた。今、市川が即座に死式を模倣し、元素操作を間髪入れずに実行する様を目の当たりにして、確信は疑いようのない事実へと変わった。
市川は、紛れもなく「学習」の能力を持っている。
その認識が、戦いの次元を一変させた。経験と力のぶつかり合いではなく、互いが自らの限界へと突き進む死のギャンブルへと変貌したのだ。
その時、観客の一人が驚愕を隠せず声を漏らした。 「それじゃあ……どちらかが爆発するまで戦い続けるっていうのか? 言った通り、肉体を限界以上に酷使している。それはまるで、強制的に回され続ける機械と同じじゃないか。動けば動くほど、熱を持っていく……」
ブラックウィングスの首領は頷き、その比喩を認めた。しかし、彼は決定的な相違点を付け加えた。機械は動くだけで熱を発するが、この場合は「能力を使用する瞬間」にのみ、肉体は真の損傷を負う。つまり、ここからの戦いは権能の披露宴ではなく、純粋な格闘技術、戦闘技能、そして高次元エネルギーの最適化運用を競う「泥仕合」になるのだ。
白龍にとって、損傷はまだ致命的ではないかもしれない。ローマ数字の時計から「宇宙状態」を失った瞬間、彼はエネルギー消費をゼロにする権能を失った。だが少なくとも、彼は自らの限界を知っている。限界を超えてスキルを使う必要があれば、肉体が崩壊する直前のエネルギー残量を正確に計算するだろう。
真の問題は市川にある。 もし彼が自らの肉体が過負荷状態にあることを自覚せず、このまま戦闘速度を上げ続ければ、敗北は必然となる。かつては絶対的な優位であった「圧倒的な回路数」が、今や致命的な弱点へと変わりつつある。市川が強すぎるからではない。自分自身が今や「時限爆弾」と化していることに気づくほど、彼はまだ己を知らないのだ。
戦場に視線を戻す。 立ち込める煙と埃の中で、二つの影が対峙していた。
市川は依然としてその姿を保っている――背筋を伸ばし、眼差しは揺るがず、恐怖という概念を微塵も感じさせないほど自信に満ちた気色だ。対照的に、白龍の顔に感情は浮かんでいないが、その深淵ではかつてない動揺と向き合っていた。
彼は、焦っていた。 疲労でも負傷でもない。市川が、予測を遥かに超えるものを次々とさらけ出してくるからだ。現れる新たな、理不尽なまでの能力。白龍は確信していた――市川は、あの独特な色を持つ瞳に宿る能力を、いまだ隠し持っている。最初から一度も使われていない「何か」を。
それは、世界の理に干渉するほどの力なのか。 あるいは、単なる補助的な技能なのか。 白龍には分からない。そしてその不確実性が、彼を不安にさせた。自分はまだ戦える。しかし、もし市川が隠しているものが想像を絶するものであれば、人生で初めての「敗北」が、現実味を帯びてくる。
その思考を断ち切るように、市川の声が煙の中から響いた。自信に満ち溢れた声だ。
「まさか、こんな理解を超えたものまで使えるようになるとはな。他人のやることを学習できる力がなけりゃ……あんたの止めの一撃で、とっくに果てていたところだ」
白龍は微かに笑った。嘲笑ではない、抗いがたい事実への承認だ。
「私の計算はすべて、確実な勝利へと導くはずだった。だが、どういうわけか……君は理不尽なまでに信じがたいものを次々と見せてくれる。普通の強者ならとっくに地に伏しているはずだが、君は違うな」
彼は市川を射抜くような鋭い視線を向けた。
「君は私が出会った中で、最も強く――そして最も、しぶとい男だ」
その言葉の後、二人は沈黙した。 挑発も、余計な動きもない。 ただ、空間を圧するような短い静寂――それは死闘が真に再開される明確な兆しだった。
一呼吸の猶予もなく、二人は同時に後方へ跳んだ。
白龍の背後には、流星の尾を引くような長い光跡が瞬き、空気は幾重もの砂塵を巻き込んで渦巻いた。市川の背後では、赤黒い稲妻が地面を引きずり、空間を掻きむしる爪のように耳障りな音を立てる。
次の瞬間――。 両者は正面から激突した。
迷いも探りもなく、二つの拳が同時に放たれる。
ドォォォォン――!
拳と拳がぶつかり合い、猛烈な衝撃が爆発した。黒い雷光と赤黒い雷光が天を衝き、衝撃波が砂塵を吹き飛ばし、周囲の空気を引き裂く。足元の地面は蜘蛛の巣状に割れ、岩塊が宙へと弾け飛んで粉々に砕け散った。
誰も退かない。 誰も圧されない。 力は――完全に均衡していた。
刹那、市川の肉体が砂塵へと霧散した。 白龍は即座に悟る――分身との位置交換だ。 彼は瞬時に身を翻し、背後の死角から来るであろう一撃に備えた。だが、そこには何もない。
地面の下から、市川が白龍の真後ろに這い出してきた。 時間が一拍、静止したかのように感じられた。
市川が口を開き、巨大な火球を吹き出した。炎が逆巻き、前方のエリアを完全に蹂躙し、地面を焼き尽くす。石と砂はどす黒く焼け焦げ、炎の残滓が闘技場の床にへばりついていた。
だが――。 白龍はすでにそこにいなかった。 彼は市川の背後に現れた。腕には軽い火傷を負い、皮膚からは未だ煙が上がっている――間一髪の回避であったことを物語っていた。彼の目は冷たく沈み、放たれた拳は真っ直ぐで無駄がなく、華美さを削ぎ落として市川の胴体を正確に狙った。
市川は間一髪で腕を盾にし、それを防いだ。
ドォォォォン――!
黒い雷鳴が轟き、極限まで凝縮された爆破が炸裂する。防御したとはいえ、衝撃は肉体を突き抜けた。市川は遠くへ弾き飛ばされ、踵で砂の床を数十メートルも削りながらも、屈することなく踏みとどまった。
体勢を立て直す暇もなく――。 白龍が弾丸のごとく肉薄し、追撃の拳を放つ。 市川も即座に応戦する。
闘技場の中央で、超高速の格闘戦が勃発した。突き、払い、かわし、反撃――。一連の動作が息つく暇もなく連なり、一切の隙を許さない。観客席の熱狂は最高潮に達し、地鳴りのような歓声が鳴り止まない。
その時、異質な気配が漂い始めた。
「十色座」の一人が、この地に足を踏み入れようとしていた。ブラックウィングスの首領は即座に観測位置を離れ、不必要な災厄を避けるべく自ら出迎えへと向かった。
戦場へと戻る。 市川の一撃一撃は重苦しいまでのダメージを孕み、闘技場の基盤を揺るがすほどだ。それは白龍に明らかな圧力を与え始めていた。
白龍は手を挙げ、「吸引力」を起動した。無形の球体を作り出し、市川を円弧を描く軌道で横へと引きずり、一瞬だけ均衡を崩させた。直後、吸引を反転させ――逆方向へ引き戻すと同時に、地面から光の棘を突き上げさせ、市川の肉体を狙い撃つ。
市川は寸前で分身と位置を入れ替え、貫かれたのは残像に過ぎなかった。次の瞬間、彼は背後から飛び出し、全力を込めた拳を白龍へと叩きつける。
だが、白龍はそれを読んでいた。 エネルギーの反発膜が瞬時に彼の肉体を覆う。市川の拳は防護層を砕いたが、その反動は大きく、彼は深部へ踏み込むことができずに弾き飛ばされた。
再び距離が開く。 そして戦いは――いまだ冷める兆しを見せない。
白龍は好機を逃さず、「光速移動」を起動。市川の着地点に先回りした。彼の拳の周囲の空間が凝縮され、光が不可視の刃のように渦巻く。彼は力を込め、止めの一撃を放とうとした――だがその瞬間、ある思考が脳裏をよぎった。
(奴は……分身との位置交換を、すでに回復させているのか?)
極めて微かな、一拍の迷い。 拳の到達が予定よりも遅れた。
市川は即座に「完全反撃」を起動させた。
ドォォォォン――!
赤黒い電光が激しく爆発し、衝撃波が広がり、打撃の威力をすべて逆流させた。白龍は吹き飛ばされ、足取りを乱しながら数歩後退したが、かろうじて踏みとどまった。
リズムを取り戻す隙を、市川は与えない。 弾かれたように突進し、一気に肉薄する。連続した打撃が畳みかけられ、その一つ一つが粉砕するほどの重みを伴う。白龍は腕を盾にして防ぐのが精一杯で、激突のたびに闘技場には軍太鼓のような音が響き渡った。
最後の一撃――。 市川は残された高次元エネルギーのすべてを凝縮し、渾身の拳を放った。
ドォォォォン――!
赤黒い電光が天を焦がし、白龍は背後の壁へと一直線に吹き飛ばされた。石造りの壁が崩落し、石礫が砕け、埃が舞い上がる。白龍は血を吐き、その体は瓦礫の山に埋もれた。
市川はそこに立ち、肩を激しく上下させ、瞳を燃え上がらせていた。 彼は――「覚醒」していた。
瓦礫の山から、数十の光点が明滅しながら飛び出し、弾丸の雨となって空気を切り裂いた。それらは市川へと殺到し、反応する暇さえ与えないほどの速度で迫る。
通常なら、彼は氷の壁を築いて防いだはずだ。 だが、今回は――。 市川はそうしなかった。
光線は正面から着弾し、彼の体の上で次々と爆発した。連続した衝撃音が鳴り止まない。市川は片膝をつき、皮膚は軽く焼け、新たな傷口から白い煙が上がった。
そうだ。 市川は気づいていたのだ。
己の肉体が――過負荷に陥っていることに。
ブラックウィングスの首領のような洞察眼によるものではない。純粋な、本能的な感覚だ。市川は己の肉体のあらゆる動き、あらゆる限界を正確に把握していた。これ以上無理を重ねれば、支払う代償は取り返しのつかないものになると分かっていた。
白龍が瓦礫の中から立ち上がった。口角に血を滲ませ、体は傷だらけだが、いまだ屈してはいない。彼は市川を凝視し、不快さに瞳を濁らせた。
(……奴はまだ、あの色の目から来る能力を使っていない。)
まだそこまで追い詰められていないのか。 あるいは……使うことができないのか。 その問いが脳内を駆け巡り、彼を苛立たせ、不安にさせた。
ゲームの外側では――。
一人の老人が立っていた。白髪を蓄え、屈強な体躯にブラックウィングスの黒い制服を纏い、厳格な面持ちで巨大な剣を肩に担いでいる。彼が一太刀振るえば、地面は引き裂かれ、蛇行する長い亀裂が刻まれた。
周囲には、和装を纏ったNGたちが点在している。ある者は気を失い、ある者は膝をつき、傷だらけの体で抗う術を失っていた。
並行して――。 アックは巨大な影と交戦していた。
見えるのは影だけだったが、窒息しそうなほどの圧力を感じるには十分だった。その影は常人の三倍ほどの背丈があり、その体躯は生ける要塞のように頑強だった。手にはその非人間的な体格に相応しい巨大なカタナを握っている。
疑いようもない。 彼こそが「赤色座」――十色座の一角を担う王であり、NGの王国を統治する者だ。
彼が、来た。 そして目的は――。
「市川」。
低く、驚愕と不安の入り混じった声が響いた。
「なぜ、ブラックウィングスがここにいるのだ? 奴はたった一人で、十色座の十人全員を相手にするつもりか?」




