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第83話: 経験と異常

戦場は稀に見る静寂に包まれた。衝突音も、エネルギーの余震もない。ただ、元の姿へと復元されたコロッセオを、風と砂塵だけが静かに通り過ぎていく。あたかも、先ほどまでのあらゆる破壊が最初から存在しなかったかのように。ここは「形を変える悪魔」によって創り出された世界であり、すべては瞬時に再構築され得るのだ。 市川はそこに立っていた。かつて切り落とされた腕はもはや出血しておらず、傷口は閉じ、緩やかに再生を続けている。だがその代償として、全身はほぼ血に染まっていた。無数の斬撃跡が刻まれ、蓄積したダメージによって肉体は悲鳴を上げている。それにもかかわらず、あの赤く燃える瞳は真っ直ぐに前方を見据えていた。冷徹で、凶険で、いまだ屈服するつもりのない鬼そのものの眼差しだった。


白龍が先に沈黙を破った。 「……どうやら、私の方が劣勢に立たされているようだね?」


市川は短く、低く笑った。喉に溜まった血のせいで声は掠れている。 「……俺のこのザマを見て、自分が劣勢だって? 冗談はやめてくれ」


白龍はほんの一時だけ目を閉じ、そして極めて淡く微笑んだ。あまりに平然とした、見る者を苛立たせるほどの笑みだった。 「冗談ではないよ。君がこれまで見せてきたものを考えれば……今、有利なのは君の方だ。戦闘の最高潮トランス状態にある一匹の悪魔だ」


市川は微かに首を傾げた。額から血が滴り落ちる。その声は、恐ろしいほどの冷静さを保っていた。 「最高潮だろうがなんだろうが、この傷は飾りじゃない。あんたが思っている以上に、試合に響いてるんだよ」


白龍が目を見開く。その眼光は以前よりも遥かに鋭さを増していた。 「だからこそ、私の敗北率は減少した。そして、ここからは――負けるつもりもなければ、自分が負けていると見なすつもりもない」


言葉が終わるや否や、白龍が自ら真っ直ぐに突進した。合図も、探りもなかった。市川は一瞬だけ虚を突かれたが、即座に構えを取り、視線を走らせて相手のあらゆる動きを捉えようとした。彼は攻撃のリズムを読み切り、高次元エネルギーによる「完全反撃パーフェクト・カウンター」を起動させた。発動タイミングが打撃の衝突する瞬間に完璧に一致しなければならない、極めて困難な技術だ。一拍でもずれれば、反撃に失敗するだけでなく、そのダメージをまともに浴びることになる。今回、市川は自らの判断に確信を持っていた。


しかし、白龍の拳が届く直前、彼は一拍だけ静止し――構えを変えた。突きから、掴みへ。 反撃は発動しなかった。


白龍の手が市川の首を強く締め上げ、そのまま彼を吊り上げると地面へと叩きつけた。衝突の圧力で床が蜘蛛の巣状に砕け散る。市川は痛みに歯を食いしばりながら、即座に両足で相手の首を絡め取り、身を翻して反撃に転じた。凄まじい力で白龍を逆に地面へ叩き伏せる。その衝撃に、白龍は苦悶とともに血を吐いた。


市川は飛び起き、勝機と見て決定的な一撃を放とうとした。だが白龍はその意図を読んでいた。彼は横に転がって回避し、市川の拳は地面を激しく打った。その隙に白龍が踏み込み、市川の顎を強く蹴り上げた。市川の口から血が飛ぶ。


市川は即座に「覇者の権力」を開放し、その気息で相手を麻痺させようとした。だが白龍はすでに後方へ跳び、絶妙な間合いを保っていた。気息によって彼の体は一瞬だけ硬直したが、市川の手が届く範囲の外だった。市川が追いすがるが、半拍遅い。


白龍は即座に振り返り、迫る拳を阻止すると、正確な連続突きを叩き込み、最後は重厚な「爆破」で締めくくった。黒い電光が轟き、空間に伝播する。市川はよろめきながら数歩退いた。体勢を立て直す間もなくさらなる蹴りを浴び、さらに一歩後退させられる。


白龍は呼吸の間さえ与えなかった。意識が混濁している市川に肉薄し、濃密な打撃のリズムで彼を畳み掛け、本能的な反射のみで動くよう強要した。無数の打撃が繰り出される。市川は防戦一方となり、後退しながら攻撃の雨の中にわずかな隙を探すしかなかった。


激しい攻防が続いた後、二人は同時に動きを止め、互いに適度な距離を保った。どちらも焦って手は出さない。 市川は肩で息をしながら、驚きと興奮の入り混じった眼差しを向けた。 「……今までで、一番手強い格闘戦だ。あんた、腕を隠してたのか?」


白龍は口角の血を拭い、薄く笑った。 「最初は君が何を持っているのか、どの程度のレベルなのか分からなかったから、慎重に戦っていただけだ。だが今は違う――読み切ったよ。重要な一撃さえ避ければ十分だ。君は私より遥かに強いが、決定打を当てられなければ……何の意味もない」


市川は大声で笑い飛ばした。その笑い声がコロッセオに響く。 「認めざるを得ないな……あんたはこれまで出会った中で、最も侮れない相手だ。以前、時間の能力を使う奴と戦ったことがある――そいつも強かった。だが、あいつには俺を殺す気がなかったからな。これほどの緊張感はなかったよ」


現時点では、表面上の情勢は白龍に傾いているように見えた。少なくとも、経験という側面においては。彼は十分に長く生き、数多の戦場を渡り歩いてきた。それゆえに理解していたのだ。もし市川に能力の完全な回復を許せば、この戦いは自らの敗北で終わるということを。それは可能性ではなく、確信だった。だからこそ、白龍はこの乱戦をただの思いつきで戦っていたわけではない。彼は別のプラン、純粋な力が唯一の決定打とならない「回り道」を用意していたのだ。


白龍の高次元エネルギーの現在値は「レベル5」である。それは理論上、エネルギーの貯蔵量と精練度において市川を圧倒できることを意味していた。当初、彼はこれが絶対的な優位になると信じていた。だが、短い交戦を経た今、白龍は背筋が凍るような事実に気づかされた。市川の繰り出すダメージが、すでに「レベル5」の境界に達していたのだ。近しいのではない。一過性のものでもない。真実にその領域へと足を踏み入れているのだ。


それは理不尽であった。 常人が高次元エネルギーのレベル5に到達するには、少なくとも四年の絶え間ない研鑽が必要だ。類い稀なる天才でも三年。各レベルの間の隔たりは深い淵であり、単なる努力だけで超えられるものではない。白龍自身もレベル5に留まってあまりに長く、もはやどれほどの月日が流れたかさえ思い出せなかった。なぜなら、いまだかつてレベル6に達した者などいなかったからだ。先の道はすべて閉ざされているかのようだった。


それなのに今――人生で初めて――白龍は、アカデミーに入学して一年にも満たない若造が、たった一度のNGとの死闘を経て高次元エネルギーをレベル5へと覚醒させる様を目の当たりにしている。少しずつの積み重ねではない。準備された突破でもない。ただ生と死の境界線へと放り込まれ……それを越えてきたのだ。


それはもはや「天才」ではない。 「異常」だ。 市川はこの戦いの後、間違いなく全世界の注目の的となるだろう。単に強いからではない。彼の成長速度が、現存するあらゆる規格を破壊しているからだ。もし正しく育てられ、早世することがなければ、彼はあの「特別な者たち」――NGの食物連鎖の頂点に立ち、その存在だけで一国を統治すると言われる「十色座じっしょくざ」にさえ肩を並べるかもしれない。


だからこそ――。 闘技場の空気は、息が詰まるほどの緊張感に満たされた。


市川と白龍は同時に闘技場の中央へと飛び降りた。 二人が着地した瞬間、地面が爆発し、石礫が雨のように舞い上がる。市川は半拍だけ動きを止めたが、すぐに直立した。片腕を失い、肩からは血が滲んでいるが、その拳には赤黒い電光が迸り、解放を待つ生き物のように脈動していた。


対峙する白龍も呼吸を整え、重心を低く落とす。冷徹なまでに正確な構え――生涯を戦いに捧げ、一度として命を運任せにしたことのない武人の構えだった。


誰も待たない。 誰も語らない。


市川が先に仕掛けた。 真っ直ぐな拳――戦槌のような重さ。激突した瞬間に赤黒い電光が炸裂し、衝撃波が背後の石造りの座席を吹き飛ばした。白龍は前腕でそれを受け流す。黒い電光が爆発して威力を削ぎ落としたが、それでもその体は砂礫の床を長く滑らされた。


市川が肉薄し、フックを放ち、胸を真っ直ぐに蹴り上げる。単純で、直接的で、残虐な武術。その一撃一撃が、人間の肉体を粉砕するに足る重量を備えていた。


白龍は紙一重で身を転じて回避し、腰を回して市川の脇腹に肘を打ち込む。短く、険しい、爆破を必要としない一撃。市川はそれをまともに浴び、軸を乱されたが、反射的に赤黒い電光を燃え上がらせて足元の石畳を吹き飛ばした。


二人は闘技場の中央で激突した。 突き――受け――投げ――回避。 骨と骨がぶつかり合う。 足運びのたびに砂礫が舞い上がる。


市川の方が、明らかに「強い」。 的確に当たった拳は空気を引き裂き、雷光の爆発が石柱をなぎ倒し、観客席の欄干を破壊する。渾身の一撃を喰らえば、白龍とてその場で沈むだろう。


だが、白龍はその瞬間を許さなかった。 彼は戦いの「リズム」を支配していた。 市川が力を込めれば、半歩下がる。 市川が腰を回せば、軸足を打つ。 電光の爆破が轟く時、彼はすでにそこにいない。


膝への蹴り。 電光を纏う手首への肘打ち。 片腕ゆえに均衡を崩した瞬間を突いた、わずかな押し。 強さは必要ない。 ただ、正確な「時」が必要だった。


市川は徐々に消耗戦へと引きずり込まれていった。呼吸は重くなり、肩が落ちる。電光はいまだに迸っているが、爆破の間隔が長くなっていく。拳が掠め、観客席の石が爆発したが、白龍はその懐へと潜り込み、腰を翻して市川を石段の上へと投げ飛ばした。


観客席が崩落する。 市川は飛び起き、赤黒い電光を激しく燃え上がらせた。反撃の拳が風を切り、白龍の背後の石像を粉砕する。だがその刹那、白龍が密着し、肩を固め、重心を押し込み、肉体へ向けて膝蹴りを連打した。華美さのない、ただ仕留めるためだけの武術。


市川が相手を突き放し、二人は距離を置いた。闘技場の中央は今や、巨大な戦いの穴と化していた。 砂礫は血にまみれている。 アーチの石柱は折れ曲がっている。 ローマのコロッセオが、古代の虐殺の時代を今に蘇らせたかのようだった。


市川はそこに立っていた。凶暴で、圧倒的で、唯一の拳の中にいまだ赤黒い電光を灯し続けている。 対峙する白龍は、力で勝っているのではない。岩のように揺るぎない構え、生き残り、そして殺す術を知る者の眼差しで立っていた。


この場所において――。 市川は最強の「格闘家」だ。 だが、白龍はこの「戦場」を最も理解している者だった。


そしてそれこそが――。 市川の一撃一撃がコロッセオ全体を破壊する力を持っていようとも、 戦局を徐々に白龍の方へと傾かせていた。


「どうやら……もうあまり時間は残っていないようだね」


白龍が言い終えるや否や、弾丸のように突進した。躊躇も、探りもない。真っ直ぐな拳が放たれる――正確に、冷徹に、高次元エネルギーの爆破を伴って。


市川は紙一重で身をかわし、反射的に上体を捻って相手の脇腹に拳を叩き込んだ。軸を崩すに十分な、短く重い一撃。


だが、まさにその瞬間、白龍の「完全反撃パーフェクト・カウンター」が起動した。 打撃の力が逆に跳ね返され、市川の攻撃範囲内で爆破が逆流した。赤黒い電光が轟き、衝撃波が石畳を引き裂く。周囲のアーチ状の柱は、巨大な槌で打たれたかのようにひび割れた。


市川は衝撃に揺らぎ、体が後方へと弾き飛ばされた。 白龍はその隙を逃さない。 彼は真っ直ぐに突き進み、止めの一撃に力を込めた。衝突の瞬間に爆破させるべく、準備は整っていた。


そして――。 届かなかった。


白龍の目が大きく見開かれる。 彼の拳と市川の体の間に、不可視の障壁が存在していた。光もなく、振動もない。ただ、打撃が決して越えることのできない「絶対的な距離」だけがあった。


無意識のうちに――。 市川は再び「学習コピー」していた。


「無限の空間インフィニティ・スペース」。


白龍がその事実に驚愕し、思考が停止した刹那。市川は腰を回し、渾身の蹴りを放った。 風を切り裂く蹴りが白龍の胴体を捉え、彼を遥か後方へと吹き飛ばした。彼はひび割れた石畳の上に激しく叩きつけられた。


白龍は這うようにして立ち上がり、その瞳には驚愕と憤怒が入り混じっていた。 「……一体、何が起きている……!」 「それは……私のスキルではないのか……!」


市川はそこに立ち、荒い息をつきながら、未だ完治せぬ腕から血を滴らせていた。だが、その打たれ強い顔には、不敵なまでの自信に満ちた笑みが浮かんでいた。 「……たぶん、そうなんだろうな」 「どうやったのかは自分でも分からないが……使い方を覚えたんだ」


白龍が歯を食いしばる。 「覚えた……だと?」 「何をふざけたことを……! それは私だけの固有能力だぞ!」 「他人が使えるはずなどない……!」


彼は市川を凝視し――そして、背筋が凍りつくような事実に気づいた。 市川自身も、なぜそんなことができたのか分かっていないのだ。 研究したわけではない。 原理を理解したわけでもない。 ただ……「見たから、できた」。 あまりに狂気じみている。


白龍は深く息を吸い込み、強制的に冷静さを取り戻した。そして――彼は大声で笑い出した。崩落した闘技場に、乾いた笑い声が響き渡る。 「……君は本当に奇妙な男だ、市川」 「私をここまで感嘆させた、数少ない一人だよ」


だが、その笑い声の裏には――。 底知れぬ恐怖が潜んでいた。 白龍は、自分が「定義不可能な存在」と対峙していることを悟った。


市川という存在: ・能力を失ってもなお、自らの領域内で踏みとどまる。 ・腕を失い、壊滅的な打撃を受けても、死なない。 ・窮地に追い込まれるたびに、さらなる「何か」を覚醒させる。 ・そして今、相手の固有能力までもコピーした。


一つの要素を封じれば―― また別の要素が現れる。 限界に達したと思えば―― その限界が塗り替えられる。


このまま戦いを長引かせれば、市川が次に何を覚醒させるか、白龍には予測がつかなかった。そしてそれこそが、何よりも恐ろしいことだった。


初めて――。 自らの命が、真実脅かされている。 即座にスキルを回復させ、決定打を叩き込まなければ――。 ここで死ぬのは、自分かもしれない。


白龍は一度目を閉じ、長く重い息を吐いた。 そして、目を開ける。 その瞳に、もはや迷いはなかった。


「……本当に狂っているよ、市川」 「どうやら……我が一族において禁忌とされてきた、古の技術を使わざるを得ないようだね」

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