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第78話: 最悪の未来が、現在になる

割れた石床に、血の雫が一滴、また一滴と落ちていく。

乾いた カチ…カチ… という音だけが響いた。


市川は動かない。

白龍の拳を――正面から受け止めた。


激痛が全身を貫き、筋肉が痙攣する。

一瞬、表情が歪む――だが次の瞬間、彼の口元はなおも吊り上がった。


理解しがたいほど自信に満ちた笑み。


「……何がおかしい?」


白龍が問いかける。

この戦いの最中、市川は終始、異様な高揚を見せていた。

死の淵に追い込まれた者が浮かべるはずのない感情だ。


市川は長く息を吐き、痛みで掠れた声で答える。


「ただ……」


顔を上げる。

赤い瞳が、名付けようのない光を宿していた。


「初めてだ。

 自分が、本当に死ぬかもしれないって思えたのは」


白龍の動きが止まる。


ほんの一瞬、拳を引き、後方へ跳び退き、距離を取った。


――市川は、もう気づいている。


疑いようもなく。

白龍の真の能力に。


それは――

あらゆる“概念”を消去する力。


「……もう分かったか」


白龍が低く問う。探るような声音だった。


市川は口元の血を拭い、身体の悲鳴を無視して背筋を伸ばす。


「分からないわけがないだろ」


淡々とした口調。


「自分に属していたものが失われた時――

 一番先に、それを理解するのはこの身体だ」


白龍は、それ以上語らなかった。


彼にとって、市川が気づいていようがいまいが

結末は変わらない。


一度手を下すと決めた以上、

この戦場に残る結果は、ただ一つ。


――死ぬのは、市川。


戦闘開始からのすべてを踏まえ、白龍は理解している。


市川が環境を展開すれば、

その力は指数関数的に跳ね上がる。


環境こそが、市川最大の強み。

状況を完全に覆す切り札だ。


だが今――

主導権を握っているのは、白龍。


両者とも、軽々しく環境を展開できない。


市川が先に展開すれば――

空間歪曲によって、即座に飲み込まれる。


白龍が先に展開すれば――

その環境は、市川の環境に喰われる。


彼らのような存在にとって、

環境展開という究極技は、存在そのものの基盤だ。

誰も、自らの環境が崩壊することを許容しない。


だからこそ――

二人は待っている。


相手が、一瞬の過ちを犯すのを。


白龍の中には、すでに一つの計画があった。


通常、環境を完全に展開するには

最低でも一秒が必要だ。


その一秒。


市川の環境が完成する前に――

空間歪曲を叩き込み、内部から破壊する。


結果は明白。


市川の環境は崩壊し、

白龍の環境だけが残る。


完全勝利。

誤差は存在しない。


――だが。


その思考が完成した瞬間。


背筋を凍らせるような

底知れぬ違和感が、白龍の体内を走った。


殺気ではない。

エネルギーでもない。


それは――

計算そのものが狂っているという予感。


まるで何かが、

彼の構築したすべてを

踏み越えようとしているかのような――


その瞬間。


白龍は、足を止めた。


透明な肉体の内側、

銀河の流れが乱れる。

安定していた軌道がずれ、

星々が衝突するかのように揺らぐ。


――未来が、閃いた。


心拍一つ分。


崩壊した闘技場の中心に立つ市川。

その身体は、現在に属さない何かを解放している。


周囲の空間は削り取られ、

観客席も、石柱も、大地も――

一つの軌道の中で、すべて消し飛ぶ。


白龍は現在の形態を引き裂かれ、

銀河は砕け散り、

人の姿へと押し戻され、

瓦礫の中で瀕死の存在となる。


あまりにも鮮明な未来。


白龍の目が見開かれる。


――初めて。


焦燥が生まれた。


恐怖ではない。


「それだけは、起こしてはならない」という感覚。


身体が、前に傾く。


もはや圧倒者の余裕はない。

悠然とした強者の姿もない。


あるのは――

絶対的な緊急性だけ。


白龍は駆け出した。


一歩ごとに空間が引き裂かれ、

背後の大地は連鎖的に崩壊する。

古代ローマ闘技場の段席が

ドミノ倒しのように砕け散り、

粉塵が竜巻となって舞い上がる。


数百メートルの距離が――

瞬時に、消えた。


市川が顔を上げた、その時には――


白龍は、目の前にいた。


腕を引き絞る。


殴るためではない。


形を作るためだ。


透明な掌の中で、空間が歪み始める。

光ではない。

圧縮され、折り畳まれ、

自壊しようとする“虚無”。


体内の銀河が逆流し、

すべてが右腕へと集中する。


一つの渦球が生まれた。


色は定まらない。

深い蒼、紫、灼けるような白――

無理やり誕生させられた幼い銀河のように。


周囲の空間が引きずり込まれ、

宇宙が締め殺されるかのような

低く重い音を立てる。


白龍の表情は――


冷酷でも、怒りでもない。


焦りを帯びた、絶対的集中。


理解しているのだ。

この一撃しかない、と。


彼は、その球体を市川へ突き出した。


助走はない。

振りかぶりもない。


ただ――

現実に、置いた。


――


爆音は、すぐには来なかった。


世界が、静止する。


次の瞬間――


衝撃が、爆発した。


空間が球状に圧縮され、接触点から拡散する。

闘技場は崩れるのではなく、

存在構造ごと消去されていく。


遠くの観客席はブラックホールに吸い込まれるように沈み、

石柱は光の塵となり、

地面は数十メートル陥没した。


市川は、その衝撃に飲み込まれる。


身体が後方へ弾かれる。

押されたからではない。

前方の現実が、消えたのだ。


口から血が噴き出し、

皮膚が裂け、

筋肉が圧壊に抗って痙攣する。


白龍は、震源の中心に立っていた。


右腕が、わずかに震える。


体内の銀河は乱れ、

いくつかの光条は完全に消えている。

――確かな消耗の証。


彼は、結果をすぐには見なかった。


ただ、そこに立ち――

わずかに身を屈める。


まるで、

決して存在してはならない災厄を、食い止めたかのように。


やがて、塵が晴れる。


白龍は、顔を上げた。


その視線に、もはや圧倒はない。


あるのは――

深い警戒。


なぜなら。


先ほど見えた未来は――


ただ、先延ばしにされただけなのだから。

観客席全体が――

爆発するように沸き立ち、そして凍りついた。


白龍が放った一撃は、

ほとんど決着を意味する一撃だった。

反撃の余地を、一切残さない――

そんな“終わらせるための攻撃”。


音が、消えた。


数万の人間が、

同じ瞬間に息を止める。


歓声もない。

罵声もない。


あるのは――

重苦しい沈黙だけが、

古代ローマ闘技場を覆い尽くしていた。


市川の姿は見えない。


陥没した巨大なクレーターの中心には、

白龍だけが立っていた。

透明な身体は微動だにせず、

内部の銀河は、ゆっくりと回転を落としている。


砂混じりの風が吹き抜け、

砕けた石片と灰を巻き上げた。


沈黙は、数秒続いた。


そして――


「……白龍……勝った、のか?」


一人の観客が、震える声で呟く。

まるで、その問い自体が

終幕の宣言になってしまうことを恐れるかのように。


その瞬間、

観客席全体が現実へと引き戻された。


ざわめきが広がる。

呆然とした視線。

困惑が、波紋のように伝播していく。


罵声を上げる者もいた。

――金を無に捨てたと怒鳴り。


拳を握りしめ、

――賭けが当たったと安堵する者もいる。


だが――


観測モニターが、突然大きく揺れた。


濃い煙の奥から、

一つの影が浮かび上がる。


背が高く。


真っ直ぐに立ち。


そして――


見間違えようのない、赤い双眸。


白龍ですら、動きを止めた。


「……まだ、続けられるというのか」


初めて、

その声から完全な平静が失われていた。


市川が、煙の中から歩み出る。


全身は血に染まっている。

額から流れ落ちた濃い赤が、

鼻梁を伝い、顎先から滴り落ち、

砕けた石床に落ちた。


だが――


荒い息はない。

叫びもない。

怒りも、動揺もない。


ただ、そこに立っている。


背筋を伸ばし。


赤い瞳で、白龍を真正面から見据えて。


「どうして、続けられないと思う?」


市川は、はっきりとした声で答えた。


「ここで死なない限り……

 この身体は、立ち上がって戦い続けるだけだ」


白龍の背筋を、

氷のような予感が走る。


問い詰めようと口を開いた、その瞬間――


市川が、一本の指を天に向けて掲げた。


その仕草――


完全に一致していた。


白龍が、

ローマ数字《Ⅱ》によって視た

短期未来の光景と。


白龍の瞳孔が、鋭く収縮する。


「やめろ……!」


初めて、

本物の動揺を剥き出しにして叫んだ。


「好き勝手させるものか!!」


白龍は弾丸のように突進する。

身体が歪んだ光となり、

掌が絶対直線を描いて振り下ろされた。

あらゆる可能性を断ち切る意志を込めた一閃。


市川は、刹那で内側へと身を逸らす。


同時に――


上空から、

巨大な火球が制御され、

空中の中心へと突き落とされた。


反対方向から、市川は風の元素を圧縮し、

逆向きの圧力塊を投げ放つ。


二つのエネルギーが、

互いに引き寄せられていく。


白龍には、それが何の技なのか分からない。


だが――

一つだけ確信していた。


もし、あの未来が現実になれば……


敗北するのは、

自分だ。


「させるか!!」


白龍は進路を変え、

火球を止めようと突っ込む。


だが――

市川は、そこに待っていた。


正面から立ちはだかる。


能力は使わない。

距離も取らない。


残されたのは――


純粋な近接格闘のみ。

一瞬のうちに、

二つの影が激突した。


闘技場中央で、

超高速の近接交戦が炸裂する――


拳、肘、膝。

息の詰まるほど狭い間合いで、

肉体同士が激しくぶつかり合う。


戦いは、

一切のミスが許されない段階へと突入した。


二人の身体が密着する。


爆発音はない。

派手な発動もない。


あるのは――

互いの呼吸がぶつかり合う音だけ。


市川が先に踏み込む。

踵から肩へと力を貫通させた、

軸の通った正拳突き。


白龍は手の甲で受け、

手首を返して軌道を逸らし、

同時に肘を肋骨へ叩き込む。


バシッ!


市川が半歩滑り、

風を切る横フックで応じる。

白龍は身を沈め、

肩を滑らせて拳を躱し、

膝を腹部へ突き上げた。


二人は、退かない。


打つ――受ける――肘――払う――掴む――逃れる。


戦鼓のような打撃音が連なる。

衝突のたびに空気がわずかに歪み、

足元の石床に亀裂が走る。

背後の観客席は、

純粋な押し合いの衝撃だけで崩れ落ちていく。


市川がリズムを変える。

フェイント――腰を切り、

短い拳を顎へ。


白龍は直撃を受け、

頭が弾かれる――

だが即座に、

胸部へ真っ直ぐな一撃を返した。


ドンッ!


市川が押し込まれ、

踵が深い溝を刻む。

即座に踏み返し、

右肘――左肘――正拳。


白龍はすべてを読み、

円を描くように足を回し、

腕を絡め、

肩で投げる。


二人は石床を転がり、

距離ゼロで殴り合う。

額がぶつかり、

肩が衝突し、

骨が軋む音が響く――

それでも、誰も止まらない。


終盤――


白龍が、状態を切り替えた。


速くなったわけではない。

強くなったわけでもない。


ただ――

鋭くなった。


掌が開き、

その縁が見えない刃のように硬化する。


市川が身を捻った瞬間――


一閃。


市川の腕が切断され、

石床へと落ちた。

反応する間もなく――


第二閃。


脚が断たれ、

身体が崩れ落ちる。


粉塵が沈む。


市川は、叫ばない。


残った片腕で身体を支え、

荒い呼吸を吐き、

血が石を赤く染めていく。


だが、赤い瞳は閉じない。

冷え切った集中を保ったまま。


立ち上がれない――

だが、意志は動いている。


空中に、二つの球体が現れた。


一つは炎。

渦を巻く赤橙色、

熱で空気が震える。


一つは風。

透明で、深く捻じれ、

周囲の気流すべてを中心へ引き込む。


二つは、

ゆっくりと近づいていく。


白龍は理解した。


彼は踏み出す。

足元の石を粉砕し、

腕を振り上げ、

二つを引き離そうとする。


だが――


間に合わない。


炎と風が触れた瞬間――


世界が、弾け飛んだ。


巨大な火炎竜巻が形成され、

天へと貫く柱となる。

熱と圧力がすべてを引き裂き、

古代ローマ闘技場は層ごと蒸発し、

石柱は溶解し、

大地は天災に削られたかのように抉られる。


白龍は、爆心に飲み込まれた。


市川は、衝撃圏の縁に横たわる。

身体は壊滅状態――

だが、その瞳の光は、まだ消えていない。


そして――


新たな概念が、誕生する。


それは技ではない。

状態でもない。

環境でもない。


一つの法則。


この瞬間まで――

市川が意図的に隠してきたもの。


元素反応。


水が動く。

自然が応える。


詠唱は不要。

導引も不要。


市川の腕が切断されていたその場所から――

生命の脈動のように細い水流が溢れ出し、

骨に絡みつき、

瞬時に芽吹いた若い根が伸びる。


それらが絡み合い、固定し、

筋肉、血管、引き裂かれた神経の先端まで

再構築していく。


バキッ――!


それは再生の音ではない。


世界が、その回復を受け入れさせられる音だった。


腕が、戻る。

脚が、戻る。


市川の身体は完全に修復される――

まるで、

斬られたことなどなかったかのように。


だが――


それは、反応の半分に過ぎない。


水は癒すだけではない。

自然は育むだけではない。


それらは重なり合い、

増幅し合い、

単一元素という枠を超えた存在を生み出す。


空気が震える。


地面が裂け、

巨大な根脈が闘技場全体を覆い尽くす。

水は蒸発し、空へと昇り、

そして――

生命の刃となって降り注ぐ。


市川を癒しながら、

同時に、

影響範囲すべてを切り裂く。


それは、もはや戦闘ではない。


武装された生態系。


市川の真の能力――

ついに、その全貌が露わになる。


彼の元素融合は、

ただ強いのではない。


理不尽なのだ。


回復し、

攻撃し、

存在の法則そのものを押し付ける。


時間が延びるほど、敵が死に近づく能力。


白龍は瓦礫の中で、

よろめきながら立ち上がる。


透明な身体の内部から、

銀河が漏れ出し、

宇宙の血のように石床へ滴る。

光は揺らぎ、拍を失っているが――

彼は腕を伸ばし、

肩の関節を強引に戻した。


バキッ。


振り返る。


まだ、戦う姿勢だ。


だが――


この時、初めて。


白龍は、確信した。


自分にとって最悪の未来が――


すでに、

現在へと流れ込み始めていることを。


市川は、元素反応の中心に立つ。


足元を流れる水。

動きに合わせて絡みつく根。


防御姿勢は、不要。


ただ――

そこに立っているだけで。


彼は、完全に主導権を握っていた。


この元素反応という切り札は、

模倣できない。

盗めない。

経験で対策できない。


なぜなら――


その交点に存在できるのは、市川だけだからだ。


生命と破壊の間。

回復と殺傷の間。

人間と、法則の間。


赤い瞳が、さらに見開かれる。


薄い笑みが浮かぶ――


狂気でもなく、

凶暴でもない。


それは――

神の領域へ足を踏み入れた者の、絶対的な自信だった。

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