第70話
「……どうやら今回は、完全に――
奴の計画に負けたみたいだな」
低く、重い声が響いた。
――アコウだった。
彼は観客席の一室に一人きりで座り、目の前のモニターから放たれる淡い青光が、虚ろな瞳に映り込んでいる。
画面には、崩壊したばかりの市川の領域が映し出されていた。
環境は粉塵のように分解され、静かに消えていく。
「……初めてだ」
アコウは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「……本当に、自分が負けたと感じたのは」
背もたれに身を預け、虚空を見つめる。
「これからは……自分の力で乗り越えるしかないぞ、市川」
「――ゾア、お前もだ」
真実は、すぐに明らかになった。
アコウが観客用ラウンジに出入りできた理由は、偶然などではない。
このゲームにおいて、観客はただ見る存在ではなかった。
――代償さえ支払えば、介入できる。
プレイヤーに「恩恵」を与えるには、観客自身が私財を投じて運営に支払う必要がある。
その見返りとして、彼らはルールの調整を提案し、展開を自分好みに歪めることができた。
等価交換さえ成立すれば――
どんな願いでも、叶う。
それに気づいたアコウは、
仲間の一人を観客として潜り込ませるという選択を取った。
そうすれば、条件を提示し、計算し尽くした形でゲームを操れる。
――完璧な計画だった。
だが――
ブラックウィングスの首領までもが、観客として現れた。
当初、奴は協力的に振る舞っていた。
しかし、その奥の眼差しにあったのは――打算だけ。
奴が求めたのは、
すべてが自分の描いた通りに進む、完璧な脚本。
それは、当初の取り決め――
「ゾアを自然に覚醒させる。たとえ死に至ろうとも」
とは、完全に相反していた。
アコウは、従うふりをするしかなかった。
密かに、
ブラックウィングスの首領が持つ資金と介入回数を削り取る。
観客には、要求できる回数に上限がある。
先に使い切らせれば、奴はゲームを操れなくなる。
――そのはずだった。
だが、アコウは相手を甘く見ていた。
自分の行動は――
すべて、読まれていた。
首領は、好機と見るや即座に裏切った。
ハンター陣営の要求をすべて呑み、情報を差し出す。
その結果――
海賊の少女が現れる。
彼女は、防衛側の情報をすべて受け取り、
さらに――要となる人物を一人、排除した。
アコウだ。
何が起きているのか理解できぬまま、
彼女は唯一可能な手段で動いた。
アコウが観客として託した人物は、必死に警告を送ろうとした。
だが、観客エリアに近づいたのは――アコウ本人ではなかった。
その男は、利用されただけだった。
ブラックウィングスの存在も知らず、
本当の意味で命を賭けてまで動く理由もなかった。
こうして――
アコウは、無力化された。
計画は崩壊する。
ブラックウィングスの首領は、
ゲーム外の情報を集め、最終的な勝者に賭け直すことで、
失った金をすべて回収した。
アコウは、多くの手を読んでいた。
だが相手は――
ただ座して観察し、最適な瞬間に刃を振るっただけ。
この一局、
アコウの完敗だった。
そして今、彼はただの観客――
これ以上、何一つ介入できない存在となった。
戦場へ戻る。
「赤眼のガキよ」
白龍が声を上げる。
その力は、いまだ頂点にあった。
「お前の負けだ」
市川は口元の血を拭い、冷たい視線を向ける。
「奥義を一つ封じただけで」
そう言って、口角を上げた。
「勝敗を語るには、早すぎるだろ」
「続けようぜ――
どっちが負けるか、な」
白龍が嗤った。
――破壊の拳が放たれる。
市川は覇王の権能を発動。
時間が、一瞬凍りつく。
下からのフックが、白龍の顎を打ち抜いた。
ドン――!
黒い雷が爆ぜ、装甲がひび割れる。
市川は間髪入れず、
左、右、連続する近接コンボを叩き込む。
押し込まれた白龍は、翼を展開し強引に距離を取った。
「――ッ!」
怒号。
奥義、起動。
「星なき夜か……」
市川が目を細める。
闇が、戦場を呑み込んだ。
立ち上がったばかりのセシリアの喉元に、
剣先が添えられる。
「静かに見てな」
女の囁き声。
「友達が死ぬところを」
「次は――あんたよ」
遠くで、ゾアが飛び出そうとするが、ツバサが立ち塞がる。
「弱いお前が」
ツバサは冷たく言い放つ。
「降りてきて、何になる?」
ゾアは拳を握りしめ、言い返せなかった。
白龍の内部環境。
果てしない白。
死霊のように漂う、淡い蒼の光点。
「綺麗だな」
市川が乾いた笑みを浮かべる。
「だが……俺の方が上だ」
「死に際まで強がるか?」
白龍が唸る。
「他人の死を、勝手に決めるな」
市川が突っ込んだ。
光の奔流。
裂ける空気。
切り裂かれる肉体。
反撃の一撃が空間を伴い、市川を吹き飛ばす。
「他人の環境で、随分と偉そうだな、赤眼」
血まみれの市川が立ち上がる。
「……なるほど」
「アックは、こんな絶望の中で戦っていたのか」
光が密集する。
空間吸引。
光の棘が、身体を貫く。
市川は串刺しにされ、動けぬまま血を流し続けた。
「もういい」
白龍の声が低くなる。
「残念だが……
これは公平な一対一じゃない」
空間が圧縮される。
ドン――!
市川は吹き飛ばされ、肉が裂け、口から血を吐いた。
「しぶといな」
白龍が首を振る。
「普通なら、とっくに死んでいる」
環境が閉じる。
セシリアは、目の前の光景に凍りついた。
歪んだ魔物が、安堵の息を吐く。
白龍は歩み寄り、
海賊の少女から剣を受け取った。
「さよならだ、赤眼」
「若死には……惜しいな」
横薙ぎの一閃。
大地が裂ける。
粉塵。
――市川の首が、地に落ちた。
観客席では、
市川に賭けた者たちが頭を抱え、罵声を上げる。
アコウは、黙って画面を見つめていた。
闇の中で、ブラックウィングスの首領が酒を口に含む。
「アコウを失ったか……」
小さく笑い、
「……ここからが本番だな」
「誰も、頭脳戦なんて見たくない」
「殴り合いだ。虐殺だ。血だ」
「それこそが――
金を賭ける価値のあるものだ」
策略は消えた。
読み合いも消えた。
このゲームは、もはや――
血に塗れた戦場でしかない。




