第61話
燃え盛る黒炎の下で――
ゾアの周囲の空間は、ほとんど闇に呑まれようとしていた。
漆黒の巨躯。灼熱のように赤く輝く単眼。
その怪物はまるで地獄から這い出た悪魔のごとく、コウモリの翼を大きく広げては空気を切り裂き、突風と共に突進してくる。
翼が振るわれるたび、迷宮全体が揺れ、岩片と砂塵が吹き荒れた。
その巨腕がゾアの頭を鷲掴みにし、勢いのまま高く持ち上げ――
次の瞬間、地面へと叩きつけた。
轟音とともに衝撃波が炸裂する。
大地が砕け、石片が四方八方へと飛び散り、炎の奔流さえも押し退けるほどの爆風が巻き起こる。
残されたのは、灰と血にまみれ、背を地に横たえたゾアの姿。
全身から血を滲ませながらも、必死に体を支えようと腕に力を込める。
遠く離れた場所から、変異の魔のしゃがれた笑い声が響いた。
その声には、酒杯を打ち鳴らすような余裕と、支配者のような冷ややかな響きが混ざっている。
「その目つき……気に入ったよ。少し本気を出そうと思ったが――どうやら、やり過ぎたかもな。」
ゾアは荒い息を吐きながらも、戦意を失わなかった。
血が流れ、体が軋み、呼吸すら重くとも――その瞳は一切濁らない。
そして次の瞬間、黒炎が再び爆ぜた。
体内からあふれ出たそれは、爆発のように周囲を焼き払い、怪物を吹き飛ばす。
汗と血と煙が混じり合い、空気そのものが焦げつく。
それでもゾアは立ち上がった。
荒い息を吐きながらも、手に握る剣を一度も手放さない――その刃こそ、彼の「決して折れぬ意志」の象徴だった。
踏み出す一歩ごとに、大地が震えた。
全身の力を剣へと込め、ゾアは渾身の斬撃を振り抜く。
空間が裂け、黒炎の弧が描かれる。
地獄の門が開かれたかのようなその一撃は、怪物の剣を迎え撃ち、衝突の衝撃波が迷宮全体を揺さぶった。
観客席では、恐怖と興奮が入り混じった悲鳴が上がる。
「な、なんだあの黒炎は……!」
「まさか……“堕ちた七罪”の再来か!?」
「いや……あいつは別人だ。だが――力の系譜は確かに同じだ!」
ある者は畏怖に震え、ある者は期待に賭けた。
この若き戦士の潜在力が、いずれ災厄そのものへと変わるのか――それとも、希望となるのか。
その一方で、変異の魔は静かにグラスを傾けていた。
わずかに感心したように目を細めながらも、心底では冷めきっている。
彼にとって、ゾアはまだ“取るに足らぬ存在”だった。
だが、その慢心を打ち砕くように――ゾアの斬撃が閃く。
彼の最強の配下の一体が、岩壁へと叩きつけられた。
石壁が崩れ、黒炎の痕がその胸元を焦がす。
怪物が呻き声を上げて崩れ落ちるのを見て、変異の魔の表情が一瞬だけ固まった。
その刹那を逃さず、ゾアは突進する。
血に濡れた身体を引きずりながら、剣を高々と掲げ――止めを刺そうとした。
しかし次の瞬間、変異の魔が指を鳴らす。
黒いエネルギーが怪物の体内に注ぎ込まれ、再び動き出す。
剣と剣がぶつかり、巨大な黒炎が弾けた。
その爆発は、遠くから見ればまるでガス爆発のようだった。
だが、その炎は漆黒――光を奪い、空間そのものを蝕む、死の色。
その中にあっても、ゾアは鋼の柱のように立っていた。
視界を焼く熱の中でも、その瞳だけは揺るがない。
一方の怪物は、断末魔のような咆哮を上げながら、黒炎に焼かれ、徐々に力を失っていく。
ゾアは息を吸い込み、低く、しかし誇り高く言い放った。
「――まだ、諦めないのか?」
その声は、戦士としての誇りを刻みつけるように、炎の中に響いた。
異形の魔が冷ややかに笑い、配下の兵へさらにエネルギーを注ぎ込んだ。
その瞬間、ゾアは肌で感じ取った——流れ込む黒い力が、急激に膨張していくのを。
しかし、ためらう暇などない。彼は即座に前へと飛び出した。
――強化が完了する前に、仕留めるしかない。
地面を蹴った瞬間、足元から「ガシィッ」と鈍い音が響く。
黒い腕が地中から伸び上がり、ゾアの脚を絡め取っていた。
視線を落とす間もなく、正面から巨大な拳が迫る。
重い衝撃音とともに、それはハンマーのような威力でゾアの身体を叩き上げた。
宙を舞う彼に追撃が襲いかかる。翼を広げた魔獣が一気に距離を詰め、
――その脚で蹴り飛ばした。
ゾアは咄嗟に剣を横に構え、受け流そうとしたが、
圧倒的な膂力の前では防御など無に等しい。
鈍い音とともに彼の身体は地面に叩きつけられ、
口から鮮血が噴き出す。
地面が裂け、衝撃で粉塵が吹き上がる――まさに地獄絵図だった。
だが、ゾアは膝をついたまま立ち上がる。
「……舐めるな。」
その呟きとともに、全身から黒炎が噴き上がった。
地を揺るがす爆風が周囲を焼き払い、魔獣の身体を後退させる。
焦げた肉の臭いが漂う中、ゾアは剣を構え直し、
次の一撃に全霊を注ぐ。
魔獣もまた、痛みに呻きながら雄叫びを上げた。
燃えさかる身体で突進し、剣を振り下ろす。
ゾアは身を翻してかわしたが、敵の反応は速い。
掴まれた足を軸に、またも地面へと叩きつけられる。
再び黒炎を爆発させ、敵の手を弾き飛ばすと、
ゾアは瞬時に姿勢を立て直し、地を蹴った。
二つの影が交錯する。
――そして、世界が砕けた。
二本の剣がぶつかり合い、激しい爆光が洞窟全体を呑み込む。
轟音が止むと同時に、崩れ落ちた瓦礫の中で
ゾアが、立っていた。
息は荒い。身体中が傷だらけ。
それでも――瞳の輝きは、決して消えていない。
対する魔獣の身体は、真っ二つに裂けていた。
黒炎がその裂け目を舐め、肉を焦がし、
断末魔の叫びがこだまする。
ゾアはゆっくりと歩み寄り、
疲労に震える足を一歩一歩、確かめるように前へ進む。
そして、沈みゆく魔獣を見下ろして告げた。
「この勝負……俺の勝ちだ。
次に相手にするのは……お前だ、異形の魔。」
剣を下ろし、静かに背を向ける。
その背後で崩れた壁が自己修復を始め、
闇の迷宮は、まるで何事もなかったかのように
静寂を取り戻していく。
ゾアが光の方へ歩み出ると、
やがて目の前に広がったのは――
緑と光に満ちた大地だった。
鬱蒼とした樹々の間に小さな町が点在し、
陽光が柔らかく降り注ぐ。
さっきまでの死の迷宮とは正反対の光景。
ゾアは、息を整えながら呟いた。
「……いったい、ここはどこなんだ?」
ゾアの声が、低く、どこか読めない響きを帯びて空気を震わせた。
彼はゆっくりと歩みを進め、仲間たちが集まる場所へと向かう。
その足音は静かだが確かな重みを持ち、迷宮を脱した直後の緊張をいっそう際立たせていた。
「ようやく来たわね。これで――護衛組は全員揃った。」
セシリアの落ち着いた声が響く。
ゾアは周囲を見渡した。
そこには見慣れぬ顔ぶれが並び、誰もが慎重な目で互いを観察している。
不安と警戒が入り混じる空気の中、ゾアは口を開いた。
「……上半身裸の君。名前は?」
問いかけに対し、その青年は一歩前へ出て答えた。
落ち着いた声、そして長年の戦いを思わせる静かな自信を漂わせながら。
「ツバサと呼んでくれ。」
短く、確固たる口調だった。
ゾアはその返答に頷き、わずかに目を細める。
「いいだろう。目的は同じだ。
この“ゲーム”を抜け出すために――協力しよう。」
「……ああ。」
二人の短い言葉のやり取りが、まるで契約のように空気を引き締めた。
その直後、セシリアが大きな地図をテーブルに広げる。
淡い光の中に浮かぶ精緻な線が、皆の視線を一斉に引きつけた。
「まず、これ。
これは“人質”が残した地図よ。
ここを基に、私たちは役割を分担する必要がある。」
ゾアは眉をひそめる。
「人質に会ったのか?」
セシリアは首を振り、視線を地図から離さずに答えた。
「いいえ。
私がここへ来た時には、すでに出口の前に置かれていたの。
“人質グループの戦術”というメモと一緒に。」
ゾアの瞳に一瞬、鋭い光が宿った。
――人質側は、迷宮内で彼らが動いている最中にすでに次の行動を始めていた。
だが問題はそこにある。
誰が“護衛”で、誰が“狩人”なのか、まだ誰にも分からないのだ。
狩人が護衛を装い、近づいて暗殺する――
その可能性が頭をよぎった瞬間、ゾアの全神経が研ぎ澄まされる。
その仕組みに気づいたことで、なぜ地図が集合場所ではなく、
各自がクリアした迷宮の出口に置かれていたのかを理解した。
それは、“本物の護衛”しか受け取れないように設計された仕掛けだったのだ。
人質側は、迷宮を突破できる実力者のみを信用した。
巧妙で、緻密な戦略だった。
だが、ゾアが思考を巡らせている間に、セシリアが冷静に続けた。
「狩人たちはまだ動かないでしょう。
無闇に攻撃はしないはず。
まずは地形や人数、そして戦力差を観察する時間が必要だから。」
ゾアは無言で頷いた。
その冷静な判断に、彼もまたこの状況の複雑さを痛感していた。
セシリアはさらに説明を続ける。
地図には複数の町が描かれており、赤く印のついた場所が“人質”たちの潜伏拠点だという。
護衛側もそれに合わせて分隊し、各地を守る必要がある。
それぞれの班が敵の強さを測り、
A班が弱敵を発見すれば記録、B班が強敵に遭遇すれば情報を共有し、
二度と同じ敵と無駄に戦わない。
――体力の消耗を防ぎ、虐殺を避けるための最適解。
ツバサが思わず感嘆の声を漏らした。
「パニックにならず、ここまで綿密な計画を立てるとは……
人質グループには、かなり優秀な指揮官がいるんだな。」
その言葉にゾアもわずかに笑みを浮かべ、
心の中にアコウの姿を思い出す。
「確かに。
俺にもそんな友がいたよ。
……どうやら、運よく導かれているらしい。」
だが、表情をすぐに引き締め、警戒を滲ませる。
「ただ――油断は禁物だ。
状況は常に変わる。
人質が裏切る可能性もある。
もし奴らが“狩人”の勝率が高いと判断したら……次に狙われるのは、俺たちだ。」
重い沈黙が落ちる。
誰もが、その言葉の重みを理解していた。
信頼と戦略、そのどちらが欠けても、この“ゲーム”では生き残れないのだ。
セシリアが再び口を開き、人質の可能性についてさらに詳しく分析した。
「この地図を手に入れるためには、彼らが自分自身の能力を使って調査し、描き上げたに違いありません。店内には地図のようなアイテムは存在しません。それに、そもそもあの店に近づくこと自体が容易ではありません。ご存じの通り、観察者──つまり参加者を見ている観客層にアクセスするには、莫大な〈価値ポイント〉が必要なのです。」
その言葉を聞いたゾアは、目を細めた。
すべての行動、すべての戦略が、緻密に計算され尽くしている。心理戦、そして〈護衛班〉への圧力までも含めて──。このゲームにおける彼らの一手一手が、知性と洞察、そして生存力を測るための試練そのものだ。
ツバサはゆっくりと眉をひそめ、自らの頭の中で仮説を立て始めた。
もし、これほどまでに綿密な戦略を立てた者がいるとすれば──その人物は極めて高い価値ポイントを所有しているはずだ。
ならば、その者は自らのポイントを一部犠牲にしてでも、観客や店に接触することを選んだ可能性がある。そしてその後、**特別なアイテム──〈条件の紙〉**を使って、この重要な地図を手に入れた。極めて秘密裏に、そして安全に。
ゾアはその仮説を聞き、うなずいた。確かに筋は通っている。
だが、その瞳の奥には一抹の疑念が閃いた。
──その計画には、まだリスクが残っている。
もしその者が無造作にポイントを消費しているのだとすれば、すでにこのゲームを何度も経験していることになる。
逆に、これが初参加であれば、誰もが貴重な価値ポイントを軽々しく使うような真似はしないだろう。あまりにも危険で、常識的ではない。
ゾアの脳裏にルールがよみがえる。
──〈店〉への接触自体は無料。だが、その場所を特定するための情報が必要。
一方、観客に接触して情報を得ようとすれば、膨大な価値ポイントを消費する。
しかも、その数値は明示されておらず、「割合で減算される可能性が高い」としか書かれていない。
つまり、どれだけ多くのポイントを持っていようと、一定の割合で削られる以上、損失は甚大になる。
大量のポイントを抱えた者ほど、その消耗を恐れ、無駄遣いは絶対に避ける。
ゾアは静かに心の中でつぶやいた。
──もし自分がその人物だったなら。計画を練り、分析を口にするよりも、あえて沈黙を選ぶだろう。
群れの流れに身を委ね、決して目立たず、リスクを取らない。
なぜなら、自分が膨大なポイントを持ち、最初から頂点に立っていることを理解しているからだ。
そんな者にとって、必要なのは力でも策略でもない。
「言葉」で生き残ること──それだけでいい。
ゾアは気づいた。言葉こそが、精巧に研ぎ澄まされた権力の道具だと。
人質という立場は、二つの陣営の狭間に立つ存在。
彼らは状況に応じて説得し、誘導し、ときに相手の判断を左右する。
言うべき時に、言うべき場所で──それだけで流れを変えることができる。
風向きが変われば、その風に従えばいい。
そうすれば人質は、どんな危険の中でも直接的な戦いを避け、生き残ることができるのだ。
ツバサはゾアの分析を聞き終え、静かにうなずいた。その瞳には深い理解の光が宿る。
こうして三人は一致した見解にたどり着く。
──人質とは、特別な力を持つわけではない。だが、地図や環境を把握する能力を持ち、状況を監視し、誘導することができる人物なのだ。
決定が下されると同時に、彼らは即座に行動に移った。
チームは幾つかの方向へと分かれ、息を殺しながら慎重に進む。
一歩ごとに、周囲への警戒を怠らず。
緊張と静寂の中、彼らの影が闇へと溶けていった。
人質が残した地図が、彼らの前に広がった。
それは驚くほど精密で緻密な作品だった。十の町が周囲に点在し、その中心には、まるで古代ローマの闘技場を思わせる巨大な建造物がそびえ立っている。そこから放たれる威圧感と挑戦の気配が、見る者の胸を高鳴らせた。
地図の縁には複雑な迷宮が張り巡らされ、行動範囲を制限し、明確な境界線を作り出している。
ゾアは細部まで目を凝らし、その地図がある一定の制約下に置かれた領域を示していることに気づいた。
──それは外の世界全体ではない。何者かによって厳重に管理された区域だった。
だが、彼の目を最も引いたのは別の点だった。
地図には「店」の位置が一切記されていない。
これは明らかに、地図を描いた者が防衛側に過度な情報を与えないための措置だった。
プレイヤーたちが情報を利用して戦略を崩壊させることを防ぐための、巧妙な牽制──。
すなわちそれは、人質が防衛側の信頼を試しているというサインでもある。
防衛班は、自らの力を証明し、戦術に従わなければならない。
そうしなければ追加の情報は得られない。
裏切りは許されず、成功も失敗も、今やすべてが地図を握る者の手の中にあった。
もしこの場にアユミ、あるいは村長の妻がいたなら、状況はまるで違っていただろう。
彼女たちはすでに防衛側の正体を把握している。ゆえに、わざわざ実力を証明する試練など必要ないはずだ。
──では一体、地図を描いた者は何を語り、どうやって防衛班を自分の計画に従わせたのか?
その謎がゾアを立ち止まらせた。
考えれば考えるほど、答えは霧の中に溶けていく。
確かなのは、出口に立つ者だけが状況を見極め、能力を判断し、防衛班の適性を決定できるということ。
地図に描かれたすべての線、すべての印が、最大限の効率・最小限のリスク・完全な主導権を意図して設計されているのだ。
ゾアの胸中に一つの結論が浮かび上がった。
──アユミと村長の妻は、人質側のメンバーにいる。
もし彼女たちが地図の描き手に完全に掌握されているなら、防衛班を試す必要などない。
仲間への信頼が絶対であるなら、試練は不要なはずだ。
だが現実はそうではなかった。
村長の妻は夫を裏切らないし、仲間同士も決して裏切らない。
それなら、なぜ地図の描き手はあえて試練を設けたのか?
その疑問が、ゾアの中に深い不信を呼び起こした。
──もしかすると、地図を描いた者はすでに誰も予想できないほど先を読んでいるのではないか。
アユミと村長の妻を強制ではなく、完全な信頼を保ったまま説得し、協力させる方法を見出していたのかもしれない。
ゾアは、地図の一線一線から伝わる張り詰めた気配を感じ取った。
この先に待ち受けるのは、ただの行動指針ではない。
それは──戦略、知恵、そして信頼を試すための、見えない試験そのものだった。




