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第60話

巨大な迷宮が、突如として眼前に現れた。

岩壁は天を突くほど高くそびえ立ち、灰色の壁面には時間そのものが刻んだような無数の亀裂が走っている。まるで世界そのものが息を詰めているかのように、空気が重く、張り詰めていた。

岩の隙間を抜けて吹き抜ける風が、背筋を凍らせるような冷気を運んでくる。


ゾアは目を見開き、言葉を失った。

乾いた声が喉の奥から漏れる。


「……なんだ、これ……?」


その少し前――まだタツマキの村に静けさが残っていた頃。


夕暮れの空気には、目に見えぬ緊張が張り詰めていた。

戦える者たちはすべて広場に集まり、大きな焚き火を囲んで座っている。次なる探索作戦のための会議が行われていた。

ぱちぱちと燃える火の音と、屋根を撫でる風の音だけが、沈黙を埋めている。


長い夜の休息を経て、彼らの多くはようやく体力を取り戻しつつあった。

傷はまだ完全には癒えていない。それでも、誰一人として倒れ込む者はいない。

彼らは知っているのだ。戦いはまだ終わっていない――そして、倒れることは許されないのだと。


ゾアは拳を強く握りしめ、青い瞳に決意の光を宿した。

心の奥で静かに誓う。


「今度こそ……絶対にみんなを失望させない。」


誰も彼を責めはしないだろう。彼はすでに上位の戦士であり、誰もが一目置く存在だ。

それでも、ゾア自身は――もし再び倒れるようなことがあれば、自分を許せない。

誇りと自尊心が、彼を立たせていた。仲間の信頼に値する者であることを、証明するために。


村長は前回の混乱から立ち直りつつあった。

老いたその眼には、これまでにない厳しさが宿っている。

彼は理解していた。あの敵――あの「変異の鬼」は、恐怖を知らぬ存在だ。

タツマキの本拠地にまで単身で乗り込んでくるほどの狂気。次にどんな手を打ってくるか、誰にも分からない。


戦士たちは持てる力のすべてを注ぎ、討伐の策を練り続けた。

図面を描き、戦術を分析し、互いの意見をぶつけ合う。

その声は何時間も途切れることなく続き、外から見れば狂気じみた執念にさえ見えた。

ただ一つの目的――「あの鬼を、必ず倒す」。


日は落ち、赤い夕陽が村を染める。

それでも彼らは席を立たなかった。議論は続き、決意は燃え続けていた。


その頃――遥か遠くの場所。

深紅のベルベットと燦然と輝くシャンデリアに包まれた豪奢な部屋。


変異の鬼は、柔らかなソファに背を預け、気怠げに腕を組んでいた。

鋭い眼差しが部屋に並ぶ高価な調度品を一瞥する。

静寂――それはあまりにも不気味で、贅沢な静けさだった。


やがて唇の端がゆるやかに歪み、傲慢な笑みを浮かべる。

低く響く声が空気を震わせた。


「……どうやら、観客はもう揃ったようだな?」


向かいに座る肥え太った貴族が、汗に光る額を撫でながら、巨大な鶏の脚を掴み取る。

脂が飛び散るほど豪快に齧りつき、満足げに呻いた。


「おう、そうだとも。」


鬼は眉をわずかに上げ、口角を釣り上げて嗤う。


「では――いつでも始めていいということだな?」


その瞬間、重々しいノックの音が響いた。

「コン、コン……」

その低い音が、豪奢な空間に不気味な波紋を広げる。


肥満の貴族が「入れ」と声をかけると、白髪の執事が姿を現した。

背を少し丸めながらも、老いてなお隙のない所作で扉を押し開ける。

彼が押していたのは、赤い布で覆われた大きな檻だった。

シャンデリアの光が布地に反射し、妖しい輝きを放つ。


「……これは何だ?」

鬼の声には、露骨な疑念が滲んでいた。


貴族は下卑た笑いを爆発させる。


「お前には関係ないさ。これは――俺の愚弟からのちょっとした贈り物だ。」


「弟……だと?」

鬼はわずかに目を見開く。


この男は、家の中では出来損ないと呼ばれていた。

夜な夜な賭博と酒、女に溺れ、財産を浪費するだけの無能。

一方で弟は――有能で、野心に満ち、父の命じた任務を次々と成し遂げた。

瞬く間に一族の信頼を勝ち取り、次期当主の座は確実とまで言われた。

さらに美しい妻を娶り、山奥に豪邸を構え、名声は広く知れ渡っていた。


その瞬間、執事が赤布を勢いよく剥ぎ取った。


檻の中に現れたのは――見るも無惨な、ひとつの人間の首。

目や口の端からはまだ血が滴り落ちている。

美しかった貴族の女の面影は、どこにもなかった。


空気が凍りつく。


肥満の貴族は狂ったように笑い声を上げた。

その笑いは部屋中に反響し、歓喜と憎悪が入り混じった叫びとなって響く。

彼は跳ね回りながら、血に濡れた首に向かって罵詈雑言を浴びせた。


鬼はしばらく沈黙していたが、やがて冷ややかに首を振る。

その声は氷よりも冷たく、静かに響いた。


「――ならば、『人狩りの遊戯』を始めよう。」


肥満の貴族は笑いを止めることなく、息を荒げながら叫んだ。


「いいだろう! 始めろ!」


直後、巨大なスクリーンがずらりと並ぶ観客席が映し出された。

無数の人々の顔が浮かび上がり、その瞳には興奮と好奇、そして血への渇望が宿っていた。

ざわめきが次第に歓声へと変わり、狂気の熱が広がっていく。


鬼は唇を歪め、不吉な笑みを浮かべた。


その瞬間――地面が裂け、選ばれた者たちの足元から黒い手が無数に伸び上がった。

まるで地獄そのものが口を開いたかのように。


手は獲物を掴み、容赦なく引きずり込む。

悲鳴が響き渡り、一人、また一人と虚空へ消えていく。


その光景を見下ろしながら、鬼は喉の奥でくぐもった笑い声を漏らした。


「さあ――虐殺の時間だ。」

迷宮の幕開け


最初に映し出された光景——。

ゾアは不意に目を見開き、意識を取り戻した。気づけば、彼はどこか異様な場所に立っていた。

周囲を取り囲むのは、冷たい石壁。そびえ立つその壁は天を覆い隠し、まるで空すら閉ざされた牢獄のようだった。


手の甲に浮かぶ奇妙な紋章——〈守護者〉の印が、淡い光を放つ。

ゾアは拳を固く握りしめ、唇をかすかに引き結んだ。そして、憤怒を押し殺すような声で呟く。


「……またお前か。変異の悪魔。」


同じ頃、迷宮の別の一角では、セシリアが微風に髪をなびかせながら立っていた。

彼女はゆっくりと身を翻し、周囲を見渡す。その瞳は鋭く、唇には冷笑が浮かぶ。


「……ずいぶんと趣向を凝らしたものね。」


その手の甲にもまた、同じ〈守護者〉の印が刻まれている。

そこから放たれる青白い光は、氷のように冷たく揺らめいていた。


一方そのころ——。

巨大な観覧席に陣取る観客たちは、すでに狂気の渦中にあった。

怒号にも似た歓声が空間を震わせ、血に飢えた者たちが互いに賭け金を叫ぶ。

彼らにとって〈守護者〉も〈獲物〉も同じ——ただの数字であり、消費される命でしかない。


試練の開幕はすでに決まっていた。

〈守護者〉たちは“狩人”が現れる前に、この巨大な迷宮を突破しなければならない。

もし失敗すれば——人質として囚われた者たちが、迷宮の奥にある小さな町で処刑される。

逃げ切る時間は限られ、町を離れぬ者は即死。

この残酷な〈規則〉は、公平さなどではなく、混沌と興奮を演出するための“演目”に過ぎなかった。

観客を熱狂させるための、血塗られた脚本。


巨大スクリーンに、彼らの初期データが映し出される。


ゾア・ヴィレリオン:120ポイント


セシリア・モンクレール:240ポイント


テオドール・マルシャン:200ポイント


ジュリアン・ロシュフォール:115ポイント


ゼフィル・ヴァルモン:82ポイント


何が起こっているのか理解する間もなく、空中に一枚の紙片が浮かび上がった。

淡く妖しい光を帯びたそれは、ゆっくりと彼らの前へと舞い降りる。

そこに記されたのは、この“死の遊戯”の全てのルールだった。


読み進めるにつれ、守護者たちの瞳が怒りで燃え上がる。

不条理、侮辱、そして命を弄ぶこの仕組みに、誰もが拳を震わせた。

退路はない。覚悟を決め、即興で戦うしかない。

この瞬間——“生存”と“死”の境界線が、迷宮の中に刻まれた。


その頃、さらに離れた地点では——。

漆黒の長髪を後ろで束ねた青年、**白川翼しらかわ・つばさ**が静かに姿を現した。

褐色に焼けた肌と鍛え抜かれた筋肉が、薄明の光に照り返す。

腰には三本の刀——月光を宿したような刃が鈍く輝いていた。

彼の手の甲にもまた、〈守護者〉の印が淡く光る。

そして、そのスコアは——0ポイント。


翼は小さく口角を上げ、迷宮の奥へと歩を進めた。

闇の中に潜む気配が、数十、いや百を超えて蠢く。

その全てが、獲物を狙う獣のように息を潜めている。

青年はその気配を感じ取りながら、低く、しかし確かな声で呟いた。


「——さあ、始めようか。」

狩人の晩餐 ― 混沌の幕開け


再び、あの豪奢な部屋へ——。


肥え太った貴族は、琥珀色の高級ワインを掲げ、取り巻きたちに向かって高らかに乾杯の声を上げた。

奴は誇らしげに戦利品——弟の首——を掲げ、勝者のように傲慢に笑う。

嘲りと侮蔑に満ちた笑い声が、絹の壁を震わせ、煌びやかなシャンデリアの下にこだました。

赤いワインが卓上にこぼれ、脂にまみれた料理が絨毯の上に散乱する。


部屋の片隅では、老執事が沈黙したまま立ち尽くしていた。

白髪に覆われた瞳は滲み、深い悲しみと絶望がそこに宿っている。

胸の奥に鋭い痛みが走り、だが彼には何もできない。

心の中でただ、途切れ途切れに呟く——それは自嘲にも似た祈りだった。


「坊ちゃま……まさか、この豚に……出し抜かれるとは……。」


戦場へ還る


迷う暇など、なかった。

ゾアは矢のように地を蹴り、冷たい風を切り裂いて迷宮の奥へと突き進む。

高くそびえる石壁が音を反射し、彼の足音が幾重にも反響する。

まるで迷宮そのものが、彼の動きを見つめているかのようだった。


緊張に張り詰めた顔。

燃えるような決意を宿した瞳。

今回だけは——絶対に負けられない。

これはただの戦いではない。

己の価値を証明する戦いであり、仲間たちが託した信頼への応答。

そのために、彼は立ち止まることを許されない。


灰色の空が広がり、凍てつく風が頬を刺す。

温もりの一欠片すらないこの空間で、ゾアの胸中には一つの疑念が渦巻いていた。

「ここは……一体どこなんだ? 本当に別の世界に……転送されたのか?」


彼の衣服には、先の戦闘で生じた焦げ跡と裂け目が残っていた。

だが、まだ破れ落ちることはない。

それは単なる布ではなく、使用者のエネルギーと同調した“防具”——意志を持つ鎧であった。

鋼よりも強く、精神の揺らぎすら受け止める。


——そして、試練が始まる。


暗がりの角から、突如として吹き荒れる風。

土埃を巻き上げ、音もなく“それ”は姿を現した。


黒き巨躯。

夜そのものが形を取ったような影の塊。

隆起する筋肉、異様に発達した腕。

手には、冷たく光る巨大な剣。

顔の中央にはただ一つ——血のように赤く染まった、巨大な眼球。


その視線がゾアの心臓を貫いた。

息が詰まる。空気が震える。

凄まじい圧迫感が空間を支配した。


その時——遠く離れたどこかから、あの“変異の悪魔”の笑い声が響いた。

乾いた、嘲るような声。


「特別な贈り物だよ、ゾア。

 私の軍勢の中でも最強の一人——直々に相手をしてやろう。」


その声が途切れた瞬間、地鳴りのような衝撃。

怪物が剣を振り下ろした。

火花と共に空気が裂け、斬撃の余波だけで大地が爆ぜる。


ゾアの身体が吹き飛ばされ、背中から石壁に叩きつけられた。

骨が軋み、肺が焼けるように痛む。

だが、彼は唇を噛み、倒れまいと立ち上がった。

壁が崩れ、砂塵が渦を巻く。


怪物は慌てず、ゆっくりと歩み寄る。

一歩ごとに地が鳴り、石壁が震える。

ゾアは腹部を押さえ、呪文のように技名を吐き出した。


「——《完全回復パーフェクト・リストア》!」


淡い光が身体を包む。

しかし——。


治癒が、遅い。

明らかに異常だ。


ゾアの目が見開かれる。


「……回復が追いつかない……?

 まさか、こいつ……!」


理解した。

この怪物は、ただの召喚獣ではない。

高位エネルギー体。

その存在そのものが、自然回復を阻害する“干渉波”を放っている。


ほんの一瞬の思考——その刹那、怪物の姿が掻き消えた。

視界のどこにもいない。


——そして、次の瞬間。


轟音。

殺気が風を裂き、斬撃が目前に迫る。

ゾアは反射的に剣を構えた。

激突。


金属が悲鳴を上げる。

爆音が迷宮を揺らし、衝撃波が走る。

粉塵が吹き荒れ、壁の苔が剥がれ落ちる。


地面に走る無数の亀裂。

だが、ゾアは倒れない。

歯を食いしばり、腕に力を込め、怪物を押し返す。

その瞳には、炎のような光が宿っていた。


同時刻。

迷宮の別の区画——。


セシリアが静かに歩いていた。

彼女の周囲を映すモニターの映像に、観客席が凍りつく。


そこにあったのは、無数の死骸。

切り裂かれた肉片、焦げた骨。

かつて怪物だったものの残骸が、あたり一面に転がっている。


セシリアの一太刀は、空間そのものを断ち切っていた。

踏み出すたびに血が滴り、破壊の余韻だけが残る。

その姿はまるで——戦神。


観覧室の奥で、変異の悪魔が歯ぎしりした。

低く、忌々しげに呟く。


「……守護者に、あんな化け物を混ぜたとはな。

 どうやら、私は致命的な誤算をしたらしい。」


他のチームの動向はまだ不明。

だが今——この瞬間、

セシリア・モンクレールが、最強であり最速だった。

ゾアは――今まさに、鋼鉄の嵐と相対していた。

怪物の繰り出す斬撃が空気を裂き、衝撃波が迷宮全体を震わせる。

刃と刃がぶつかり合う音は、まるで雷鳴のように反響した。


ゾアは跳び、身をひねり、連続する斬撃を紙一重でかわしながら隙を探る。

だがそのすべての試みは、ことごとく怪物によって打ち砕かれていく。


その怪物は、高位のエネルギーを有するだけでなく、速度も技術も常軌を逸していた。

ゾアの瞳には極限の集中が宿る。汗がこめかみを伝い落ちるが、その手は一切震えない。


歯を食いしばり、低く、しかし迷宮に響くほどの声でつぶやく。


「俺は……もう、脇役で終わるつもりはない。この力は――皆が託してくれた希望そのものだ。裏切るわけにはいかねぇ。」


その瞬間、黒炎が爆ぜた。

爆発的な光と熱が空間を呑み込み、まるで地獄の嵐のように迷宮を焼き尽くす。

闇の光がすべてを飲み込み、観戦していた者たちは思わず立ち上がり、目を見開いた。


外部の観覧室ではざわめきが走る。


「黒炎……!? あれはまさか、“七つの罪に堕ちた者”の一つじゃないのか?」

「ば、馬鹿な……あいつはとっくに死んだはずだ!」

「違う……奴は本人じゃない。きっと、その力を受け継いだだけだ……!」


群衆の興味と視線が、一斉にゾアへと注がれる。

死の嵐の中で戦う、若き戦士へと。


黒炎が燃え盛る。ゾアの振るう剣は一閃ごとに黒い弧を描き、その軌跡は妖しくも美しい。

剣と剣が激突するたび、轟音と爆風が迷宮を包み、空間そのものが歪む。

黒炎の熱気がすべてを溶かし、石畳すらひび割れていく。


だが――いかに凄まじい力を得ようと、ゾアには痛感していたことがある。

まだ、自分はこの力を完全には使いこなせていない。


脳裏に蘇るのは、あのキングとの戦い。

特別な能力など持たぬ彼が、己の肉体と技術、そして揺るがぬ信念だけでゾアを打ち倒した。


胸の奥に苦みが広がる。

それはキングへの嫉妬ではない。

自分自身への悔しさだ。

己の力を無駄にしてきたという、どうしようもない痛み。


だが――その苦味の向こうに、彼らの姿が浮かんだ。

キング。イチカワ。アク。

かつて頂に立った者たちの背中が、脳裏をかすめる。


ゾアは剣を握り直した。唇の端がわずかに吊り上がり、炎の中で自信に満ちた笑みを浮かべる。

その瞳は、研ぎ澄まされた鋼のように輝いていた。


黒炎が再び燃え上がり、今まで以上の熱と勢いを放つ。

炎の渦の中心に立つゾアは、巨大な怪物と向かい合い――

その眼差しを通して、遠く離れた場所にいる変異の魔が悟った。


ゾアは、もはや本気だ。

これはもはや逃走ではない。

――戦士としての道を切り拓く、運命の瞬間なのだ。

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