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第59話

「これだけか――つまらないものだな…」


黒変異クイーン・コラプションはかすれた笑い声を漏らした。彼は血に染まった死体の海のただ中に立っている。子ども、女、老人――血は水たまりを成し、鉄臭く濃厚な腐敗の匂いが満ち、空気は息をすることさえ困難なほど重く淀んでいる。何人かの遺体はまだ這っており、長い血の筋を引きながら、やがて爪で引き裂かれていく。


その眼前で、テオドールの妻が必死に体を起こしていた。唇の端から血が一滴、また一滴と落ちる。冷たい石の上で、小さな息子が動かぬまま横たわっている。細い手はなおも固く小さなナイフを握りしめ、死に際しても決して手放すまいとするかのようだ。


黒変異は唇を歪めて嗤った。


「まだだ…お前はすぐには殺さない。こいつは『自由領主』どもへの贈り物だ。金満の畜生どもにゃ、新しい娯楽が必要だろう。」


その言葉を聞き、「人類」という二文字に、彼女の瞳は震えた。自由領の外側には、自らを領主と名乗る者たちがいる。彼らは奴隷の血肉で豪奢な街区を築き、情報を売買し、残虐な「イベント」を催しては命を見世物にして楽しむ。そこでは法も道徳も存在しない。あるのは金だけだ。そして今、彼女とその家族は、まさに彼らのための“商品”にされてしまったのである。

迷宮の中


ジュリアンはゾアを背負い、魂を失ったように走っていた。片手で槍を握りしめ、もう片方の手で友の体を支える。

変異体たちは血の匂いに狂った獣の群れのように、四方から押し寄せてくる。


「くそっ……いい加減に道を塞ぐのをやめろってんだ!」

ジュリアンが怒号とともに槍を突き出す。狂気じみた連撃が変異体たちを押し返すが、脚はすでに震え、呼吸は荒く、目は血走っていた。戦いながら、瀕死の仲間を背負って走る――その負荷が、肉体も精神も削り取っていく。


背後では、シモンがすでに村長との戦いを放棄し、撤退に転じていた。

テオドールが振り返り、険しい顔で生き残りたちを導く。

一方、セシリアは巨大な変異体を斬り倒したあと、ジュリアンが空へ放った白煙を目印に駆け出した。


それはもはや「撤退」ではなかった。

まるで地獄への行軍。


せっかく描いた地図は、黒変異の忌まわしい能力によって次々と歪められ、進路は混乱の極みに陥っていく。走り、戦い、また走る。

暗闇が迷宮を呑み込み始め、彼らは悟った――太陽が完全に沈めば、夜がこの場所を本当の地獄に変えると。


すでに数百体の変異体を倒した。

だがその代償は、血と汗と、限界を越えた呻き声。

地図の線は消され、また描かれ、やがて意味を失っていく。

誰もが体力を使い果たし、もはや走っているのは意志だけだった。

そして──迷宮の最後の光が姿を現した。


ジュリアンは外へ出た瞬間、その場に崩れ落ちた。背を丸め、断続的に途切れる息は、まるで死の淵から這い上がった者のようだった。

村長もまたふらつきながら立っていた。汗と土埃が混じり合い、老いた顔はひび割れた岩のように見える。

セシリアは一歩離れた場所で全身を震わせていた。汗が流れ落ち、髪は血と泥にまみれ頬へと張りついている。


一方、ゼファーの一行は奇跡的に全員無事に戻ってきた。だがその代償はあまりにも大きい。

セシリアの隊は、ジョナスの手によって全滅したのだ。

村長の隊も、かつては大所帯だったが、今や生き残ったのはわずか数名。

ゾアは重傷を負い、息も絶え絶えに横たわっていた。


こうして、一日の遠征は惨憺たる敗北で幕を閉じた。

丹精込めて描いた地図は灰と化し、労苦も命もすべてが消え去る。

そして残ったのは、あの忌まわしき変異の悪魔の哄笑だけだった。


血のように赤い夕陽の下、生き残った者たちは互いを支え合いながら歩いた。

息は荒く、足取りは重い。

それでもその瞳の奥には、かすかな光が残っていた。

――また家族のもとに帰り、食卓を囲み、今日の恐怖を笑い話にできる日を夢見て。


だが、彼らを迎えたのは歓喜の抱擁ではなかった。


村の広場へと足を踏み入れた瞬間、全員が息を呑んだ。

歌声も、笑い声も、料理の匂いも――何一つ、残っていない。

代わりにあったのは、息を詰まらせるような静寂。

まるで、村全体が恐怖の一瞬のまま凍りついたかのようだった。


木造の家々は崩れ落ち、藁葺き屋根からは黒煙が立ち上る。

壊れた家具、散乱する鍋釜が泥にまみれて転がっている。

そして何よりも彼らの心を締めつけたのは――

まだ乾ききらぬ惨劇の痕跡。

壁に飛び散った血が、まるで語りかけるように生々しく伸びていた。


アユミはゾアの手を強く握りしめ、怯えた瞳を見開いた。

セシリアは一歩後ずさりし、口元を押さえて悲鳴を堪えた。

歴戦のテオドールでさえ、その表情を硬直させる。

空気は一瞬で重くなり、かすかな希望すら呑み込もうとする闇が辺りを包んだ。


テオドールの瞳が大きく見開かれる。

その瞳に映ったのは、冷たい石畳の上に無数に横たわる死体の群れだった。

身体の欠損、広がる血の海、そして肺を焼くほどの死臭。

彼は数秒間動けずに立ち尽くし――やがて、喉を裂くような叫びを上げた。


「やめろおおおおおっ!!」


彼は駆け出し、倒れたままの人々を抱きしめ、震える手で揺さぶった。

だが、応える声はない。

嗚咽がこだまし、夜の静寂を切り裂く。

その悲鳴は、まるで世界そのものを裂くようだった。


生き残った戦士たちも次々と膝をつき、涙を流す。

ジュリアンは頭を抱え、地面に額を擦りつけながら、狂ったように叫び続けた。

セシリアは立ち尽くしていたが、血の匂いと死の光景に耐えられず、胃の奥から込み上げるものを吐き出した。

泣き声、うめき、絶叫――それらすべてが混ざり合い、この世のものとは思えぬ哀歌を奏でていた。


そのとき、ゾアがうっすらと目を開けた。

ぼやけた視界の中で、耳に届くのは地獄のような叫喚。

痛みに耐えながら身を起こすと、そこに広がっていたのは、まさに地獄そのものだった。

家々は闇に沈み、風が木の隙間を鳴らす。

灯りも、声も、もはやどこにもない。

竜巻の村――タツマキは、完全に死んでいた。


ゾアは首を振り、震える息を吐いた。

足がもつれ、まるで大地そのものが彼を拒んでいるかのようだった。

掠れた声が、後悔とともに漏れる。


「俺のせいだ……俺の慢心が、こんな結果を……。」


ゼファーは拳を握りしめ、静かに言った。


「自分を責めるな、ゾア。確かに我々は敗北した。だが――罪は我々にあるのではない。

この惨状を生んだ真の悪は、あの“化け物”だ。」


その言葉が終わると同時に、闇の中からかすかな声が響いた。


「たすけ……て……まだ、生きて……る……」


全員が息を呑む。

ゼファーが手で静止の合図を出した。

耳を澄ますと、再び微かなうめきが聞こえる。

掠れ、途切れながらも、確かに命の気配があった。


ジュリアンが我を忘れたように叫ぶ。


「生存者だ! 早く、手を貸せ!!」


全員が我に返り、慌ただしく走り出した。

割れた木片をどけ、崩れた瓦礫を掘り起こす。

夜の闇の中、誰かが泣き、誰かが祈りながら必死に手を動かす。

いくつかの瀕死の体が掘り出され、応急処置が施される。

すすり泣きと祈りの声が、沈黙の村に響いた。


だがその最中も――テオドールの咆哮だけは止むことがなかった。

彼はまるで傷ついた獣のように震え、目は血走り、息は荒く、全身が怒りに脈打っていた。


そして――

生き残ったひとりが、震える声で真実を語った。


あの惨劇の黒幕は、“変異の悪魔”だった。

そして、テオドールの妻と息子は……まだ生きている。

悪魔に“連れ去られた”のだと。


その瞬間、テオドールは顔を上げた。

涙はもはや枯れ果て、瞳の奥で燃えていたのは純粋な炎。

こめかみと首筋に血管が浮き上がり、握りしめた拳が震える。

荒い息が、怒りと共に大気を震わせた。


村は滅び、人々は死に絶えた。

だが――元凶は、まだこの世に生きている。


その瞬間から、

テオドールはもはや人間ではなかった。

彼は、“爆ぜる寸前の憤怒”そのものだった。

その頃――煌びやかな燭光と優雅な弦の調べが満ちる豪奢な部屋では、一つの饗宴が開かれていた。


変異の悪魔は主賓席に腰掛け、血のように濃い赤ワインを指で回しながら、楽しげに微笑んでいた。

その正面には「自由領主」と呼ばれる男たちが並ぶ。

肥え太った身体を金糸のマントで包み、嘲るような笑みを浮かべる顔。

まるで世界のすべてを己の掌中に収めたかのような傲慢な表情だった。


「――諸君、私の提案はどう思う?」

悪魔の声は穏やかだった。

まるで残酷な殺戮計画ではなく、食後のデザートを勧めるかのような軽さで。


卓の端に座る領主が、濁った声で応じた。


「――最高だとも! 下層の連中から金を搾り取れるなら、どんな手でも構わん。」


その瞬間、部屋中が下卑た笑い声に包まれた。

その笑いは、良心を持つ者なら誰もが心臓を掴まれるような、不気味な狂気に満ちていた。


その会話の中で、ひとつの恐るべき真実が明かされた。

――「人狩り(マンハント)」。


古代ローマの闘技場で行われていた悪夢が、今再び甦ろうとしていたのだ。

それは単なる見世物ではない。

血と肉で行われる巨大な賭博。

人間の命が点数として取引される、狂気の祭典だった。


古代のローマ闘技場では、剣闘士同士の死闘や、猛獣との戦いの他に、さらに残酷な娯楽が存在した。

――「人狩り」。


それは、貴族階級のためだけに許された残虐な遊戯。

奴隷や戦争捕虜が「生きた獲物」として放たれ、罠と障害に満ちた巨大な迷宮を逃げ惑う。

そして、角笛が鳴り響くと同時に、門が開かれ、哀れな獲物たちは鉄の扉の奥から解き放たれる。

深い穴、尖った杭、転がる巨岩。あらゆる死が待ち受ける道を、恐怖に駆られた彼らはただ走るしかなかった。


背後では、狩人たちが戦馬を駆り、弓矢と槍を手に追い立てる。

さらに、特別に調教された獣たちが混ざり、咆哮とともに空気を切り裂く。


わずかに設けられた「安全地帯」は、被害者に偽りの希望を与えるためだけの舞台装置。

安堵した瞬間、その希望は踏みにじられる。

体力も精神も限界まで削られ、恐怖と生存本能だけが彼らを動かす。

観客席の上では、数千の目がその一挙手一投足を見つめる。

矢が放たれ、人が倒れ、血が舞うたびに、貴族たちは笑い声を上げる。

人の命が、彼らにとっては最高の娯楽だった。


「マンハント」――それは権力と残虐の象徴。

そこでは人の命は価値を失い、

生き延びる者は、狡猾さか、あるいは奇跡のような幸運を持つ者だけだった。


今の時代、ローマという名を知る者はもういない。

「人狩り」という狂気の遊戯を正確に理解する者もいない。

だが、歴史の残滓は薄暗い伝承としてわずかに語り継がれていた。

そして――その断片的な記憶から、現代の領主たちは新たな金脈を嗅ぎ取った。

血と肉を、金と快楽に変える“遊び”。


現在、変異の悪魔のもとには五人の配下がいた。

そして、その五人全員が今回の「ゲーム」に参加することになる。

彼らの役割――それは、狩人ハンター


なぜ“狩人”なのか?


それは、この「ゲーム」の新しいルールが、悪魔の独断によって改変されたからだ――。

ゲームの内容は依然として「人質狩り」だが、今回は観客の興奮を長引かせるために新たなルールが加えられていた。

ゲームは三つの役職に分かれる――ハンター(狩人)、人質、そして**ガーディアン(護衛者)**だ。


ハンターは、人質および護衛者を全滅させるのが目的である。


ガーディアンは、人質を守ることを任務とする。


人質は、追跡から逃れ、生き延びることを目指さなければならない。


特別ルールは以下の通りだ。


すべてのハンターが死亡した場合、ガーディアンと人質が勝利する。


すべての人質が殺された場合、ハンターが完全勝利し、護衛者は全員処刑される。


すべての護衛者が死亡した場合、人質とハンターが共に勝利する。


人質は護衛者を裏切ることが許されている。


ハンターが活動できるのは夜八時から朝七時まで。

それ以外の時間帯は安全時間とされる。


毎朝八時になると、護衛者と人質による三十分間の会議が開かれる。

目的は裏切り者の特定だ。

もし疑わしい者がいても証拠が不十分な場合、彼らは鉄の檻に拘束する権利を持つ。

檻に閉じ込められた者は、ハンターや護衛者から一切の攻撃を受けないが、他の人質との会話は可能である。


試練の最中、数多の汚染された変異獣が放たれ、護衛と人質の区別なく襲いかかる。

その存在が、ゲームをさらに混沌と狂気へと導いていった。


また、護衛者と人質は「価値ポイント」と呼ばれる特殊な数値で賭けを行うことができる。

この数値は、プレイヤー一人ひとりの“命の値段”を示していた。


ハンターが高い価値ポイントを持つ者を殺せば、巨額の報酬を得ることができる。

そのため、ハンターたちは血に飢え、狂気に駆られて狩りを続けるのだ。


逆に、人質たちはそのポイントを用いて観客から物資を購入することができた。

取引所には以下のアイテムが並ぶ:


15分間、あらゆる攻撃を無効化する免疫檻


人質の檻を開けるための鍵


特殊条件を記した契約書


しかし観客エリアへ辿り着くためには、途方もない代償を支払わなければならない。

ゆえにその「取引所」は存在していても、実際には手の届かぬ幻想に過ぎなかった。


ゲームが終わると、以下の判定が下される:


最も価値ポイントの多い者は生存し、「ランク1」として称えられる。


最もポイントの少ない者は失格とされ、即座に死刑が執行される。


ハンターの場合、下位三名が同じくその場で処刑される。


――ルールを聞き終えた貴族たちは、口々に歓声を上げた。

拍手喝采が広間を揺るがし、狂気の笑いが響き渡る。

血と悲鳴の宴に酔いしれた彼らは、我先にと参加登録を始めた。


やがて噂は瞬く間に広まり、情報屋どもによって誇張され、膨れ上がった。

たった一晩のうちに、観客登録者数は想定をはるかに超えた。


そして、もっとも衝撃的だったのは――

村長の妻と息子までもが、人質として強制参加させられていたことである。


一方、護衛者の名簿はすでに確定していた。


志願者:アンドレアス・ホレンスタイン、ドミニク・バウアー、白川しらかわ つばさ


強制参加者:ゾア・ヴィレリオン、セシリア・モンクレール、テオドール・マルシャン、ジュリアン・ロシュフォール、ゼファー・ヴァルモン


変異の悪魔はゆっくりと赤いワインを手に取り、

豪奢な邸宅の広いバルコニーへと歩み出た。


冷たい月光がその異形の顔を照らし出し、歪んだ笑みを妖しく輝かせる。


「どうやら、今回の催しは愉快なものになりそうだな……」


そう呟いた声は、静寂の夜へと溶け、

やがて闇の中に――不吉な笑いだけを残した。

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