第58話
目の前に広がる光景は、まるで砕け散った鏡の欠片がきらめきながら宙を舞う世界だった。
そこに映し出されているのは、恐怖と混乱に歪んだ汚染獣とジョナスの顔。
空間という概念そのものが崩壊し、まるで巨大な鏡が亀裂だらけになって、今にも粉々に砕け散ろうとしているかのようだった。
セシリアの能力――それは**「空間を破壊する」力**。
あのアックですら認めざるを得なかった。
*「彼女が制御を失えば、この世界は崩壊する」*と。
彼女の拳は、ただの物理的な衝突ではない。
その一撃一撃が空間に共鳴する震動を生み出し、まるで天空そのものが叩き割られるかのような衝撃を放つ。
その破壊の波は一点にとどまらず、周囲一帯を粉砕するほどの拡散力を持っていた。
宙に浮かぶ無数の鏡の破片は、その周囲の空気が完全に裂け切った証。
彼女の拳は強い……いや、それはもはや人類史上のあらゆる破壊を超越していた。
比較のために一人の名が挙がる。
爆発を操り、ひとつの街を一瞬で吹き飛ばすほどの力を持つ男――ザイファ。
だがセシリアは、その次の段階にある存在。
もしザイファが火力によって全てを焼き払うなら、セシリアは同じことを空間そのものを歪めて行う。
しかも彼女の破壊は終わらない。
余波――空間の残響が、その後も周囲を蝕み続ける。
つまり、最初の一撃を受けた者は即死。
さらに亀裂空間の中で放たれる次の一撃は、威力が二倍、三倍へと増幅していくのだ。
言い換えれば――
ザイファが一つの街区を爆散させるなら、セシリアはたった一撃で都市そのものを粉砕し、引き裂く。
その余震は海を荒らし、大地を揺らし、山を崩すほど。
セシリアの何より恐ろしい点は、いかなる防御も絶対ではないこと。
他者を閉じ込めるための**「専用空間」のような能力――通常なら侵入も破壊も不可能な領域でさえ、
彼女の前では一瞬で粉々に砕け散る**。
例外はただ一つ、**世界環境そのものを支配する最上級能力**のみ。
だからこそ、今ジョナスの目に映る彼女は――
もはやか弱い少女ではない。
現実に具現した悪夢そのものだった。
瓦礫の中で身を縮め、血を流しながらも、ジョナスは必死に手を傷口へ押し当てる。
彼は連続して**「並行完全再生」**を発動し、命をつなぎ止めようとしていた。
だが、額を伝う汗は止まらず、呼吸は荒く、声は震えた。
「この力……。あの女が拳を一つ放つだけで――
この壁ごと崩れ落ちる……。迷宮を解析する必要なんて、どこにもない……!」
彼は理解していた。
この壁は変異の悪魔の能力によって再生可能だと。
だがセシリアが空間破壊の拳を連続して叩き込むなら、たとえ再生しても再び粉砕される。
彼女が飽きずに拳を振るい続ける限り、この迷宮は波に呑まれる砂の城に過ぎない。
ではなぜ、ゾアやセシリアはその「簡単な方法」を選ばないのか?
理由は一つ。
彼らには迷宮の広さが分からないのだ。
彼らは探索し、記憶し、ここを**「自分たちのフィールド」**に変えなければならない。
無闇に破壊すれば、地形の把握という最大の利点を失う。
一方、ジョナスたちも――変異の悪魔を除けば――迷宮の構造を完全には理解していない。
この戦いは、単なる道探しではない。
それはこの空間の“呼吸”に馴染むための戦いなのだ。
サッカーで言うならば、ホームとアウェイの差にも似ている。
だが、今やそんな理屈はすべて無意味だった。
――なぜなら、「セシリア」という名の悪夢がそこに立っていたからだ。
周囲を包む鏡の欠片が光を放ち、空間が悲鳴を上げる。
彼女はただ一歩を踏み出すだけで、世界そのものを粉砕しかねない存在だった。
目の前に広がるのは、崩壊の海に沈む戦場だった。砕け落ちた壁の断片、ねじ曲がった鉄骨、砂塵が渦を巻き、風が唸る。空気は張り詰め、いまにも爆ぜそうだった。その中心に立つのは、血にまみれながらも凛とした眼差しで巨大な汚染変異体――生ける柱のようにそびえ、赤く怒りを宿した瞳を光らせる化け物に対峙するセシリアだった。
それは咆哮し、両手で巨大な槍を握り上げると、槍先を高く掲げた。槍先の周りで風が渦を巻き、小さな竜巻が生まれる。やがて槍を叩きつける瞬間、地面は裂け、岩塊が飛散し、衝撃は雷鳴のように響いた。
だがセシリアは怯まなかった。彼女は俊敏に流れるように身を滑らせ、巨躯の足の間を素早くすり抜けると、剣が閃く。――背後から、彼女は下から上へと縦に一閃した。切っ先は純粋無垢に空間を裂き、虚空に光る亀裂を残す。空気が弾け、化け物の体から血潮が噴き出し、その血が彼女の不屈の影を照らし返した。
化け物は狂乱の咆哮を上げ、槍を振るって無数の空気をねじ曲げる。セシリアは弾かれるように跳び退き、間一髪で難を逃れた。だがその怪物は異常な力で瞬時に彼女の体を掴み、締めつけて地面に叩きつけた。地面は大きく爆ぜ、穴が穿たれ、土と岩が四方に吹き飛んだ。
セシリアは乾いた咳を一つし、唇の端に血をにじませながら痛みに顔を歪めた。立ち上がろうとした瞬間、背後にジョナスが幽鬼のように現れた。彼の剣は不吉な輝きを帯び、致命の気配をまとっている。
だが危機の瞬間、セシリアは瞬時に身を翻し、大きな円を剣で描いた。周囲一帯が虫眼鏡で砕かれたように粉々になる――空間の鏡片、土砂、砂塵が交ざり合い、終末のように爆裂した。ジョナスはその直撃を受け、目を見開き、何が起きたのか理解する間もなく一部の肉体が崩れ落ちた。血が噴き出す。
汚染変異体は腕を上げて防ごうとするが、その巨大な腕は粉砕され、鮮血が雨のように舞った。ジョナスは後方に倒れ、肉塊を欠いた姿で無残に横たわる。地面は血で染まった。
――ジョナスは死んだ。六名いるこの地域のNGのうちの一人が、ひとりの小さな少女の刃に倒れたのだ。どんな奇跡も彼を救えはしなかった。
遠方から、その場面を変異の目を通して見つめていたのは、あの「クイーン変異」――黒変異の主だった。目を細め、恐怖に沈んだ重い声を漏らす。
「ありえない……我らの者が、一人――死んだのか?」
セシリアは荒い息をつき、血に染まった剣を振り上げ、刃先のように鋭い視線で片腕を失った変異体を見据えた。声は凛として、力に満ちていた。
「その一撃で……お前は、ここで誰が本当に強いか見ただろうか?」
変異体は吼え、怒りが頂点に達する。黒変異の主は嘲るように笑い、その声音には憤怒が混じる。
「その程度の力で奢るつもりか? 我が手でお前を粉砕してやる!」
直ちに彼は巨体を操らせて突進させた。残された一方の手で槍を握り、空を切り裂くかのような一突きを放つ。槍先の回転は空気を渦巻かせ、重い衝撃波が地を押し潰す。
セシリアは踏み込み、ブースト(爆発)を起動して全力を剣に込めた。二つの力がぶつかると、白い光が空気を引き裂いた。爆発音は雷鳴の如く轟き、衝撃波は四方へ広がり、砂塵が空を覆った。空間の破片が炸裂し、宙に浮かびガラスの破片のように煌めく。
その圧力は化け物を遠方へ吹き飛ばし、建物へ激突させる。倒壊がドミノのように連鎖し、巨大な瓦礫が襲いかかってそれを埋めた。
セシリアは躊躇せず飛び込み、剣は激烈な光の線を描いた。広大な領域が真っ二つに切り裂かれ、瓦礫は爆ぜ散った。化け物は悲鳴を上げ、肉体は粉々に砕け、黒い血潮が地を濡らした。
もがきながら起き上がろうとするそれを、セシリアは静かに見据えた。冷たい瞳に力を満たし、全身を一点に集中させる。彼女は足を上げ、踏みつけるようにその巨体の頭部へ足を押し付けた。踏み込む地面が裂ける。
化け物は呻き、必死に足を掴もうとし、残る手で彼女を掴まんとする。セシリアは唇をわずかに歪め、剣を振るい、その手を断ち切った。鮮血が滝のように噴き出す。そして躊躇なく、剣をその脳天に突き刺した。
――爆発。空間を断つ破壊とブーストが共鳴し、頭部は内側から砕け散るように吹き飛んだ。断末魔の咆哮が喉に詰まり、その声はそこで消えた。残されたのは、魂なき巨大な死体だけだった。
風が戦場を吹き抜け、セシリアの髪を翻した。砂塵は洗い流されるように吹き去り、瓦礫と死体の山の上に一人の少女が立っていた――誇り高く、強く、不滅の炎のように輝いて。周囲の景色は彼女の存在の前で色褪せて見えた。
セシリアの声音が峡谷に響き渡る、威厳に満ちた声で。
「お前が出て来なければ……我はお前の手下どもと、この醜い迷宮を根絶してやる、変異よ。」
相手は沈黙した。黒変異の主はゆっくりと歩み、慣れ親しんだ村へと向かって進んでいく。彼は村を守る大樹を見上げ、古びた家々を眺めてから、企みを含んだ低い囁きを漏らした。
「手早く終わらせて……戻ろう。さもなければ、あの女が怒りに任せて仲間を皆殺しにしてしまう……」
――言葉の端には確かな恐れが滲んでいた。
迷宮の現在の光景——。
金属の衝突音が空気を切り裂き、鼓膜を貫く。テオドールの一撃一撃は、ただの攻撃ではなく、凝縮された憤怒そのものだった。振るわれるたびに迷宮の石壁は砕け散り、瓦礫が飛び、赤黒い稲妻が地を這い、まるで天地そのものが裂けるかのような轟音が響いた。
サイモン・ケラー――赤髪のNG、傲慢な眼をした男は、今や追い詰められた獣にすぎなかった。足元で爆光が弾け、その反動で身体を弾き飛ばす。まるで花火のように閃光を残しながら空間を跳ねるその速度は、人の目では追いきれない。だが、それでもなお、背後から迫る鋭利な刃の追撃を振り切ることはできなかった。
一閃。空気が裂け、赤黒い電流が唸りを上げる。その衝撃波に近くの汚染変異体たちは瞬時に切り裂かれ、肉片と血飛沫が飛散する。鮮血が迷宮の床を真紅に染めた。
サイモンは息を荒げ、額に汗が滲む。赤髪が湿り、視界を覆う。
「ちくしょう……!」
歯を食いしばり、彼は震える声で自らを奮い立たせた。
「やはり……あの男とやり合うには、少なくとも三人は必要だ……!」
だがその直後、低く、地を這うような声が響いた。足音が重く、確実に近づいてくる。
「三人、だと……? いや、十人いようと同じことだ。――ゴミに変わりはない。」
煙と瓦礫の中から、巨躯が現れる。テオドール。
筋肉は鋼のように隆起し、肌には戦いの歴史を刻む無数の傷跡。
赤黒い瞳は燃えるような殺気を帯び、その存在だけで空気を凍りつかせた。
一歩、また一歩と彼が踏み出すたび、サイモンの呼吸が詰まり、死神が背後から迫るような圧迫感に飲み込まれていく。
――タツマキの村を背負う者。
その重責を担える人間など、もはや存在しないと誰もが思っていた。
いかに鍛錬を重ねても、力と胆力、そして仲間を導く資質を兼ね備える者など滅多にいない。
それでも、歴史は奇跡を紡いだ。
同じ時代に生まれた二人の天才。
共に成長し、共に戦場を駆け、汗と血を分かち合った――。
テオドールとオリヴィエ。
その二つの名は、やがてタツマキの双柱と呼ばれるようになった。
オリヴィエは炎のように輝く先導者。
一方のテオドールは、背後で全てを支える鋼の壁。
彼は争わない。嫉妬もしない。
オリヴィエが頂点に立つなら、それでいい――。
自らは一歩退き、友の背を押し、全ての痛みを引き受ける覚悟を持っていた。
なぜなら、もし“我”が割り込めば、友情も、村も、すべてが崩れると知っていたからだ。
二人はチームを結成した。
オリヴィエが隊長、テオドールが副長。
その名のもと、タツマキの村はかつてない栄光の時代を迎えた。
彼らの刃が振るわれるたび、汚染変異体が倒れ、村人の希望が燃え上がる。
血で染まる大地の上に、人々の信念は刻まれた。
――「我らは生き抜ける。あの二人がいる限り。」
かつての遠征では、五体のNGを追い詰めるほどの力を見せた。
その時、人々は確信した。
“人類の勝利は目前だ”と。
だが――。
第六のNGが現れた。
そして、その瞬間から。
彼らの運命は、誰も予想できなかった歪な道を歩み始めたのだった。
狂気の過去
テオドールの頭の中で、かつての戦場の音は終わりのない死の交響曲のように鳴り続けていた。剣が肉を貫く音、金属がぶつかり合う濁った響き、骨が折れる音――それらに断続的な仲間の悲鳴が混ざり合い、全てが彼の心にまとわりつく不吉な和音となって残った。
容赦ない夜雨の中、彼の視界に浮かび上がったのはオリヴィエ――友であり兄弟のように共に育ち、食を分かち、傷を共にした男の姿だった。肩は震え、運命によって引き裂かれた影のように縮こまっている。瞳は血走り、涙で満たされているが、その歪んだ顔には歪んだ笑みが浮かんでいる。その笑みは喜びのものではなく、まるで別れの挨拶のような、戻ることのできない奈落へ突き落とされる者の微笑だった。
オリヴィエの手には――人の腕がまだ血に濡れた形で握られていた。血は一滴ずつ落ち、雨と混ざって深紅の筋を作る。彼の足元には、かつて同じ膳を囲み笑い合った仲間たちの屍が無残な肉塊となって横たわり、虚ろな瞳が絶望を見つめているだけだった。
その少し先には、テオドールが愛した女――まだ彼の妻ではなかった――が血の海の中で仰向けに倒れていた。震える手で土を掻き、わずかな一歩一歩を必死に這いずり進もうとする。瞳は恐怖に満ち、かすかな希望を探している。しかし彼女の前にあるのは、かつて英雄と称えられたオリヴィエが狂気の殺人者へと変貌した姿だけだった。
その瞬間――テオドールの内側の全てが粉々に砕け落ちた。
兄弟を失った痛み、親友の裏切り、愛する者の絶望の眼差し――それらが渦巻き、底のない激怒となって溢れ出した。
その夜、テオドールはもはや人ではなかった。彼は悪夢と化したのだ。
単身でNGの拠点へ斬り込み、無表情に、血のように赤い瞳を光らせ、夜空を切り裂くような猛々しい一閃を振るった。敵の叫びは一瞬で止み、彼らの身体は紙くずのように裂け散った。城壁も、柱も、地面さえ彼の狂気の前には耐えられなかった。血は噴き上がり、夜雨と混ざり合い、戦場一面を赤く染め上げた。
生き残った者たちは語った――その夜、彼らが見たのは「一人の男」ではなく、血の塊のような巨大な鬼であり、赤い眼と魂を抉る剣を備えた存在だった、と。
あの夜以来、「テオドール」の名は敵の記憶に深い傷として刻まれた――決して消えない痕跡として。
現在へ戻る
黒と赤の電流がテオドールの身体の周りでパチパチとほとばしり、彼を雷塔のように覆っている。彼の瞳は激烈な殺意で燃え立ち、その視線は相手の魂を引き裂かんばかりだ。
サイモンは、たとえ戦力値が151,000であろうとも、今は震え上がり近づくことすらできない。彼は普段は捕食者であることに慣れているが、今日は狂暴化した猛獣の前に餌と化したのだ。
テオドールは両手の大剣を強く握り、低く枯れた声で迷宮に向けて告げた:
「もうたくさんだ。言葉は要らない。ここを根絶やしにしてやる――我が村に二度と近づけぬ者が一人もなくなるまで。」
空間が震え、彼の気息はまるで嵐の到来を告げる風のようだった。そしてそれは、破滅の序曲の合図に他ならなかった。




