第56話
視界は霞み、全身を引き裂くような激痛が波のように押し寄せ、ゾアはもはや現実と幻の区別さえつかなくなっていた。
残されたのは荒い呼吸と、胸の奥で爆ぜるように響く心臓の鼓動だけ。
息を吸うたび、胸郭が鋭い刃で切り裂かれるような痛みに襲われ、意識が何度も遠のいていく。
金属がぶつかり合う甲高い音が、空間全体にこだました。
――ガキン、ガキン、ガキンッ。
その一音ごとに、千もの刃が脳髄を貫くかのような衝撃が走り、ゾアの頭はさらに混乱していく。
朦朧とする意識を必死に引き戻し、ゾアは疲れ切った瞳を上げ、轟音のする方角を見据えた。
そこでは、村長セオドアがただ一人、赤髪のNGと、変異した醜悪な化け物の群れを相手に奮戦していた。
彼の手に握られた短刀は、振るうたびに閃光を放ち、一閃ごとに雷鳴が轟く。
その背中は鉄壁のごとく広く、揺るぎない。だがその内に潜むのは、嵐のような怒りであった。
ゾアは歯を食いしばり、胸の奥が締めつけられるのを感じながら、心の中で呟いた。
「どうして……どうして自分は、こんなにも弱いんだ……?」
胸の奥で絶望が沸き上がる。
高次エネルギーを込めた直撃の斬撃を受ければ、一撃で倒れるのは当然のこと。理屈では理解していた。
だが、理性では抑えられない。心の奥底から込み上げる失望の痛みが、理屈を越えて突き刺さる。
ゾアはこれまで何度も死地を潜り抜けてきた。
しかし、それは敵がまだこの領域――高次エネルギーの「境地」に達していなかったからに過ぎない。
今の自分など、暴風の中の塵ひとつにも等しい。
奥歯を噛み締め、ゾアは再び立ち上がった。
重い身体を引きずるように一歩を踏み出すたび、地面には赤い線が引かれていく。
その一歩ごとに、世界そのものが彼を押し潰そうとしているかのような重圧がのしかかる。
それでも彼は前へ進んだ。
ここに留まれば、村長の足を引っ張るだけだと、痛いほど理解していたからだ。
呼吸は荒く、視界は霞み、足取りも覚束ない。
果たして自分は出口まで辿り着けるのか、それともこのまま永遠に倒れ伏すのか――ゾアにはもう分からなかった。
そのとき――大地が震えた。
轟音とともに、地面が裂け、戦場全体が地震のように揺れ始める。
空間そのものがねじ曲がり、迷宮が変容を始めた。
建物がひとりでに動き出し、互いに結合していく。
巨大な壁が次々と立ち上がり、ゾアが記憶していた脱出経路を完全に覆い尽くした。
赤髪のNGが、口元に不気味な笑みを浮かべ、低い声で呟いた。
「お前がいなければ――俺たちは、どうやって出口を知る?」
その言葉と同時に、迷宮は完全に閉ざされた。
戦場は巨大な檻と化し、すべての逃げ道が断たれる。
ゾアの瞳が見開かれ、恐怖に染まる。
その光景を前に、彼は絶叫した。
「まさか……そんなことまで、できるのか!?」
しかし、身体はすでに限界だった。
痛み、失血、そして絶望が一斉に押し寄せ、ゾアの意識をのみ込んでいく。
彼は崩れ落ち、冷たい地面に倒れ込んだ。
最後の数回、荒く息を吐き――そして、意識は闇に沈んだ。
迷宮の別の場所で、セシリアもまた、自らの試練に直面していた。
目の前には、全身を血に染めたジョナスが立っていた。だが、その瞳にはなおも危険な光が宿っている。
彼はかすかに笑みを浮かべ、掠れた声で言った。
「随分と……強くなったじゃないか、セシリア。」
そう呟くと同時に、彼は膝をつき、口から鮮血を吐き出した。
それでもなお、倒れることなく立ち上がろうとする。
セシリアもまた全身傷だらけだったが、その瞳には一片の迷いもなく、ただ前を見据えていた。
ジョナスは 〈絶対回復〉 を発動した。
体内の血管が脈動し、裂けた肉がゆっくりと癒えていく。
だが、高位エネルギーによる干渉のせいで、その再生速度は極めて遅かった。
それでも、彼は若き少女の前で膝を折ることだけは拒んだ。
――そして、二人は再び激突した。
セシリアが先に動いた。
その瞳が燃え上がり、全身が一筋の矢のように収束する。
拳が空気を砕き、空間そのものを切り裂く。
圧縮された衝撃波が奔流となって背後の建物を崩し、壁に亀裂が走り、鏡が無数に砕け散った。
ジョナスは避けきれず、その一撃をまともに受けた。
鮮血が弾け、破片の雨とともに空中を舞う。
それはまるで、死を告げる紅の雨だった。
だが、次の瞬間、ジョナスの手から闇のように黒いナイフが放たれた。
刃は正確にセシリアの肩へ突き刺さり、同時に彼の姿が掻き消える。
瞬間移動。
目の前に再び現れたジョナスは、刺したナイフを引き抜くと、その勢いのまま致命の一撃を叩き込んだ。
セシリアの体から真紅の血が噴き出す。
痛みに叫び、後退するが、息を整える暇もない。
次の瞬間、背後から再びナイフが突き立った。
――心臓のすぐ横。
さらに二撃、三撃。肉を裂く音が空間を満たす。
セシリアの口から血が溢れ、瞳が大きく見開かれた。
その苦痛は、もはや人間の領域を超えていた。
だが、彼女は歯を食いしばり、渾身の力で身体を回転させる。
その拳が、爆裂とともに空気を砕いた。
轟音。
建物が一瞬で粉砕され、空間そのものが軋む。
ジョナスの身体は壁に叩きつけられ、血飛沫を上げながら崩れ落ちた。
荒い息を吐き、彼は膝をつく。
セシリアもまた膝をついた。
身体が震え、息が続かない。
だが彼女は諦めなかった。
〈完全回復〉。
淡い光が彼女の全身を包み込む。
しかし、回復はあまりにも遅かった。
傷が深すぎる。
それでも――その光は一つの真実を示していた。
セシリアはすでに 〈高位回復〉 を覚醒させていたのだ。
しかも、それを 〈爆発解放〉 と組み合わせて。
その速度は、人間の限界を遥かに超えている。
頂点に立つと称される キング でさえ、ようやく高位回復の入口に立ったばかりだというのに。
この領域へ至るには、死と隣り合わせの戦いを幾度も越えねばならない。
誰もが耐えきれぬような苦痛の果てにしか、その扉は開かれない。
――おそらく、セシリアはすでにあの試験の時、
誰にも知られることのない地獄を、一人でくぐり抜けていたのだ。
戦場に戻って
セシリアは応急用の包帯を掴み、血に濡れた傷口へと手早く巻きつけた。
手は震えていたが、その瞳には燃えるような決意が宿っている。
彼女は剣の柄を強く握り、深く息を吸い込むと、再び迷宮の奥へと駆け出した。
標的はただ一人――ジョナス。
遠く離れた通路の向こうでは、ジョナスがよろめきながら歩いていた。
裂けた肉から血が滴り落ち、足取りは今にも崩れそうだ。
掠れた声が、重い息の合間から漏れた。
「まさか……この俺が、こんなみっともなく逃げ回る日が来るとはな。
――いや、逃げることこそが俺の力の本質だったというのに。」
迷宮の外で、その様子を見下ろしていた“変異の悪魔”がゆっくりと目を閉じた。
低く響く声が空気を震わせる。
「……また俺が手を出さなきゃならんのか。
ジョナス、この戦いが終わったら――真面目に話をしよう。」
その言葉が空気に溶けた瞬間、
天から巨大な影が降り立った。
轟音。
地面が砕け、風が唸り、粉塵が渦を巻く。
セシリアは思わず後退りし、顔を上げた。
そこに立っていたのは、太陽をも覆い隠すほどの黒い巨体。
腐敗した瘴気をまとい、怒り狂ったように咆哮を上げる“汚染された変異体”。
その咆哮は胸を貫き、心臓を震わせ、意識を一瞬かき乱した。
次の瞬間――
巨大な槍が一直線に突き出された。
風圧だけで身体が浮き、セシリアは血を吐きながら石壁へ叩きつけられる。
荒い息を吐きながらも、彼女はゆっくりと立ち上がった。
唇の端から血が流れ落ちる。だが、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
首を軽く鳴らし、瞳に再び炎を灯す。
「ったく……どこから湧いてきたのよ、こんなバケモノ。」
言い終えるやいなや、彼女は再び飛び出した。
槍と剣が激突し、轟音が天を裂いた。
空間が軋み、黒と紅の稲妻が走る。
大地は割れ、瓦礫が舞い上がる。
それでも二人――否、一人と一体は踏みとどまり、互いの瞳を睨みつける。
そこにあるのは、憎悪と殺意だけだった。
刹那、セシリアが身を翻す。
下から上へ、鋭い一閃。
空気が裂け、光の破片のような亀裂が周囲に飛び散る。
その鏡面のような破片に映るのは、冷ややかで決意に満ちた彼女の顔。
怪物が咆哮を上げ、巨体をよじらせながら後退する。
セシリアは一歩も引かない。
追撃。
逃げ場を与えぬ連撃が、怪物を圧倒した。
やがて、怪物は大地に叩き落とされ、瓦礫の中へ沈んだ。
セシリアは荒く息を吐きながらも、炎のような眼差しを失わない。
――その瞬間、黒い羽が空に舞った。
「また……あの羽……」
呟いた直後、彼女の背後に冷たい気配が現れる。
ジョナスだ。
刃が閃く。
だが、セシリアの反応は鋭かった。
身体をひねり、振り向きざまにその手首を掴む。
強く捻り上げると、ナイフが床に落ちた。
そのまま彼女は脚を振り抜く――
轟音とともに、ジョナスの身体が吹き飛び、地面を削りながら転がる。
「ようやく出てきたのね?」
その声は傲慢で、同時に疲労と痛みを隠しきれない。
ジョナスは唇を歪め、口元の血を拭うと、冷たく言い放った。
「調子に乗るなよ……後悔させてやる。」
瞬間、背後に立つ巨大な影――さきほどの変異体が再び槍を振り下ろした。
セシリアは振り返りざま、全身の力を剣に込めて迎え撃つ。
衝突。
世界が揺れる。
爆風が吹き荒れ、土煙が空を覆う。
混沌の中で、セシリアはジョナスの襟を掴んだ。
そして、そのまま渾身の力で――怪物の方へと投げつけた。
二つの肉体がぶつかり、建物が崩壊する。
瓦礫が崩れ落ち、音もなく二人を飲み込んだ。
高みからそれを見下ろす“変異の悪魔”は、無言で風を浴びていた。
漆黒の外套が揺れ、彼の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「なるほど……脅威なのはあの四位の男ではなく――
この少女の方か。」
回想
――時はさかのぼる。カード試験がまだ続いていた頃。
セシリアは荒れ果てた街を歩いていた。
その光景はまるで、腐敗しつつある巨大な死骸のようで、
鉛色の空の下、息苦しいほどの陰鬱さが漂っていた。
全身を覆う傷が、歩くたびに鈍く痛みを訴える。
乾ききった血が肌にこびりつき、舞い上がる埃と混ざり合い、
それはまるで、彼女のか細い命を縛りつける鎖のようだった。
――力は、目覚めた。
だが、それは一体、何のために?
カラスや《レ・フルール・モルテル》のような連中――
策に長け、常に群れで行動する彼らの前では、
セシリアなどただの孤独な個体に過ぎない。
嵐の中を漂う砂粒。
寄りかかる肩も、背を預ける仲間もいない。
唇が震え、喉の奥からかすれた声が漏れる。
「もしかして……もう、この試験を生き残れないかもしれない……」
その呟きは、誰かへの嘆きではなかった。
ただ、自らに向けた、静かな敗北の告白だった。
彼女の脳裏をよぎるのは――アックの姿。
もう二度と会うことはないだろう人。
そして仲間たちの面影。
かつて信じ合った彼らは、今や裏切り者となり、あるいは追われる罪人となった。
気づけば、セシリアの手には血がこびりつき、
胸の奥には、ぽっかりと空いた穴だけが残っていた。
信じる心はとうに砕け散り、灰となって風に消えていく。
力尽きた足が崩れ落ち、彼女は冷たい地面に膝をつく。
灰色の空を仰ぎ見る。
その瞳に映るのは、渦を巻く黒雲――
まるで、彼女という小さな存在を飲み込もうとする深淵。
涙が滲み、頬を伝い、地面に落ちて土と混ざる。
だがその瞳には、わずかに――ほんのわずかに、
消えかけた誇りの光が宿っていた。
まるで、灰の中でなお燃え続ける頑なな残り火のように。
彼女は覚悟していた。
残酷な現実を。
――たった一人では、どこにも辿り着けない。
きっと、これが終わりなのだ。
そして――。
死の静寂が支配するその街に、
風が瓦礫の隙間を抜ける音だけが響く中、
ひとつの声が突如として闇を裂いた。
低く、冷たく、それでいて圧倒的な力を帯びた声。
「少し話をしようか……セシリア。」
その声は、見えない手のようにセシリアの胸を掴み、
彼女をゆっくりと――絶望の淵から引き戻していった。




