第55話
「実に見事な舞台だった……会ってみたかったよ、君にはね。」
変異の鬼はかすかに微笑み、低く重い声が暗い部屋に響き渡った。「だが、まだ時が許さない。」
彼は手にしていた書を閉じ、窓辺へとゆっくり歩み寄った。そこからは荒れ果てた戦場が一望できる。熱いコーヒーを一口含みながら、彼は言葉を続ける。
「ただ、汚染変異体たちの目を通して見るよりも――この目で、直接君の力を確かめたいのだ。」
彼の真の能力が何であるかは誰も正確には知らないが、少なくとも戦場に散らばる変異体たちの視界を掌握したり、乗っ取ったりすることができるらしい。地図のすべてを握る者――それは単なる優位ではなく、この男の危険性を如実に示していた。
だが、それでも――なぜ彼は「恐れている」ように見えるのか。
この世界の力には、必ず規則と制約がある。単純な例を挙げれば、キングは破壊力に特化しているが、視野と環境制御に弱点がある。ゾアも同様で、近接戦闘と力に秀でるものの、全体支配力は乏しい。
一方で、変異の鬼は戦場を掌握する者だ。だが、制御に秀でる者が即ち攻撃に秀でるとは限らない。その問いに答えられる者は――誰もいない。まだ誰も十分に生き延びて、その答えを見届けてはいないのだから。
彼の座する位置、そして犠牲者たちの運命の噂だけで、その恐ろしさを物語っている。セシリアは彼と出会った瞬間に圧倒される感覚を覚えた。もし彼が自信満々に現れて、彼女を葬り去ろうとしたのなら、それは確実に実行可能な力を意味する。
【戦場】
咆哮、鋼の衝突音、重たい肉体が倒れる音があらゆる場所で反響している。生存者たちは傷だらけだ。彼らは中級クラスの汚染変異体と対峙しており、今の力で突破するのはほとんど不可能に近い。
一隅では、テオドールとジュリアンが並び立ち、巨大な怪物に立ち向かっていた。その全身は変形した皮膚で固まり、まるで天然の鎧のようだ。力と速度から察するに、決して下等種ではない。
ゾアの周りでは、引き裂かれた体躯にもかかわらず彼は獣のごとく前へと突進している。黒炎が焼け焦げの筋を地面に描き、敵が次々と倒れていく。
変異の鬼は高みからその様子を眺め、淡い愉悦を浮かべる。彼はささやくように笑い、古びたソファに身を沈めた。隣には別のNG――赤髪を後ろで束ねた、筋骨隆々の男がいる。彼の手には巨大な斧があり、刃は赤く光り、柄は黒く精巧な文様を刻まれていた。
赤髪の男は首をかしげ、冷たい口調で問うた。
「俺が下りて行って――そいつの首を持ち帰ろうか?」
変異の鬼は微笑を浮かべる。
「その狂気なら、やつはいずれ早死にするだろう。だが、もし君が行きたいというなら――我らも共に参ろう。」
赤髪のNGは眉を寄せる。
「俺一人で十分だろう?」
「そうだ。しかし念には念を入れる。共に行こう。」
「奴の女はどうする? 捕らえはしないのか?」
「計画の全貌が、少しずつ姿を現し始めていた。
この戦場――実はすべてが陽動にすぎなかったのだ。村の防衛部隊を欺き、全戦力を前線へ誘い出すための。」
すべてが戦いに没頭するその隙に、彼は村へ侵入し、一人の女性を攫う。
不可解だった。NGはこれまで決して民間人を襲うことはなかった。弱者を殺しても何の利益もない。ましてや、テオドールのような強者を挑発するのは愚策に等しい。
だからこそ、竜巻の村は戦時中も民間人の守備を置かなかった。
――だが、今回は違った。
その理由は、変異の鬼の真の能力にあった。
彼は「負の感情」と「苦痛」を吸収し、それを力へと変える。
絶望が深ければ深いほど、彼は強くなる。
そして今回の標的は――テオドールの妻。
それは、感情という最も脆い急所を突く一撃だった。
仲間たちはこの企みの意味を理解していなかった。だが彼にとっては明白だ。
彼女を奪えば、テオドールの心を折ることができる。絶望に沈めば、鬼の力はさらに膨れ上がる。
しかし――彼は知らなかった。
かつてテオドールが、妻が傷つけられたその一件だけで、たった一人で彼らの拠点を壊滅させたことを。
変異の鬼はゆっくりと立ち上がり、その瞳に冷酷な光を宿す。
「殺すのに……時間はかからんさ。」
【戦場】
NGたちがどんな陰謀を企てているのかは不明だったが、村長テオドールは一歩も退かずに戦い続けていた。
剣閃が閃光のように走り、鋭い斬撃が次々と巨獣の肉を裂く。
汗と血と砂塵が入り混じり、斬り結ぶたびに赤黒い飛沫が空気を裂く。
「ジュリアン……まだやれるか?」
掠れた声、それでも眼光は鋭く燃えている。
ジュリアンは武器を構え、必死に一撃を受け止めながら荒い息の合間に答えた。
「この汚染体……強すぎる。撤退して……次の策を立てるべきだ。」
一方その頃、ゾアは狂気じみた勢いで一帯の魔物を蹴散らしていた。
息は荒く、胸は爆発しそうに上下している。
彼の周囲には死骸、焼け焦げた肉塊、黒煙が立ち上る――まるで地獄が地上に顕現したかのようだった。
「数が多すぎる……まだ初日だってのに……」
ゾアは呟き、苛立ちと疲労の混ざった声で吐き捨てた。
言葉が終わるよりも早く、漆黒の斬撃が空間を裂いた。死神の鎌のように一直線に走るその一閃は、すぐ傍をかすめ、巻き起こる衝撃波が砂塵と瓦礫、そして近くで避難していた負傷者たちの悲鳴までも吹き飛ばす。大地は割れ、建物は真っ二つに裂け、無数の破片が弾け飛んだ。切断面を抜ける風の音が、誰の背筋にも悪寒を走らせる。
ゾアは反射的に振り向いた。ほんの数メートル先――そこに広がる光景は、まさに地獄そのものだった。
漆黒に染まった腕を持つ変異の悪鬼が立っていた。闇そのものを凝縮したような粘つく影がその右腕を包み、まるで古の魔王の四肢のように歪み蠢く。口元に浮かぶ笑みは長く、狂気と愉悦を隠そうともしない。さきほど放たれた一撃で戦場の一角を消し飛ばしたというのに、その目にはまだ飢えが宿っていた。
周囲の死体が震えた。血肉が絡み合い、痙攣し、やがてひとつの巨大な塊となって蠢き出す。腐臭と鉄錆の臭いが混ざり合い、濃密な血の匂いが空気を満たす。それは喉を焼き、胃の底を捻じ曲げるほど強烈だった。
ゾアは奥歯を噛みしめ、頭に熱が昇る。飛び出そうとした瞬間、真紅に灼けた斧が稲妻のように襲いかかった。
雷鳴のごとき衝突音。全身に走る麻痺の感覚。ゾアの身体は雷撃に打たれたように宙を舞い、無防備なままガラス窓を突き破った。
ガラスの砕ける音と、軋む骨の音が重なる。冷たい床に叩きつけられた彼の背後には、血の跡が長く伸びた。
上空から見下ろす変異の悪鬼は、楽しげに目を細めた。
「まだ死んでいないな。……俺が止めを刺してこよう。」
低く冷ややかな声が闇に響く。
屋上にいた紅髪の巨人が答えた。声には僅かに譲歩の色が混じる。
「いいだろう。俺はここで待つ。……お前の手で終わらせろ。」
建物の中。ゾアは血を吐きながら、どうにか体を起こす。体中を灼くような痛みが這い回り、骨の一つ一つが悲鳴を上げていた。
「なぜ……回復が……こんなにも遅い……」
途切れ途切れの息の間から、掠れた声が漏れる。
一歩、また一歩。窓際に近づくたび、皮膚を針千本で突かれるような痛みが全身を貫く。深い裂傷から血が滲み、埃と割れたガラスの破片に混じって床を濡らす。それでも、立ち上がることは諦めなかった。
その背後から――ねっとりとした声が滑り込む。
「これが第四位だと? ずいぶんと……惨めじゃないか。」
ゾアは振り返り、歯を食いしばる。
「この野郎……!」
次の瞬間、彼の体は軽々と掴み上げられ、まるで不要なゴミのように外へ放り投げられた。
落下した先には、さきほどの巨大な肉塊が待ち構えていた。無数の血走った瞳が、獲物を見るようにゾアを見据える。
その足元から、再び闇が滲み出す。粘液のように濃く、黒く、渦を巻きながら地面を侵食していく。そして――そこから奴が現れた。まるで最初からそこにいたかのように自然に。
低く、重い声が響く。それは判決を下す裁判官のように冷酷で、逃げ場のない死を告げるものだった。
「さて……お前には“それ”の一部になってもらう。」
その声には感情というものが欠片もなかった。だが、言葉の一つ一つが鉤爪のように脳を引っ掻き、わずかに残った希望をも削り取っていく。
背筋を冷たいものが駆け抜け、心臓が握り潰されるように縮み上がる。
震えが止まらない。恐怖だけではない――吐き気を催すほどの嫌悪が頭の奥を突き刺していた。血と腐肉の臭いが混じり合い、呼吸するだけで胃がねじれる。
それでもゾアは立ち上がろうとした。だが、膝がわずかに浮いた瞬間、軽い蹴りが飛んできた。力は込められていない。だが正確無比な一撃が、再び彼を血溜まりへ叩き落とす。
温かい血が顔に飛び散り、焼けつくような感覚が残る。
心臓の鼓動はもはやリズムを失い、連打する太鼓のように耳の奥で響いた。呼吸は途切れ途切れで、喉を誰かに掴まれたような圧迫感が胸を締め付ける。
ゾアは両手を地面につき、這うようにして少しずつ前へ進もうとする。しかし、血と粘液で滑る掌は何ひとつ掴めず、体が沈むたびに痛みが筋肉を裂く。視界は霞み、耳鳴りが頭蓋の内側で反響する。
変異の悪鬼は立ったまま、その姿を見下ろしていた。まるで血と絶望で彩られた舞台を楽しむ観客のように。
そして、暗闇の奥から低く笑い声を漏らす。喉の奥で鳴るその音は、光の届かぬ洞窟の底から響くようだった。
「さっきまでの威勢は……どこへ消えた?」
彼の問いかけは答えを待たなかった。彼は身をかがめ、漆黒の指節がぞっとするほど冷たい腕でゾアの肩を深く穿ち、まるで壊れた人形を持ち上げるかのように彼を軽々と吊り上げた。
ゾアは巨大な肉塊の口先にぶら下がったままだった。むせ返るような腐臭が鼻腔を満たし、一呼吸するだけで頭がくらくらとする。肉の塊は呼吸するかのように震え、その動きの中から無数の不揃いな歯が、粘液にまみれて血の層の下から覗き出す。
そして、噛み付いた。
湿った「ぶちっ」という音と共に、ゾアの肩の一部が引き裂かれた。血は噴水のように噴き上がり、彼の顔と胸を赤く濡らす。痛みは千本の針で同時に突き刺されるように鋭く、筋肉がねじ切られるように裂かれていった。
ゾアは断末魔の叫びを上げた。その叫びは空間を引き裂き、嗄れ声で震え、悲嘆と憎悪と絶望をすべて含んでいた。声は瓦礫に跳ね返り、戦場にこだまし、まるで深淵からの呼び声のように遠くまで響き渡った。
肉塊の奥深くに埋もれた眼球――以前の犠牲者たちの瞳――はただ涙を零していた。彼らは震え、無力に事の顛末を見届けるしかない。引き裂かれる音、肉を喰らう感触、そして骨まで達する痛みをずっと味わわされるのだ。死すらも許されないまま。
変異の鬼はその場に立ち尽くし、まるで自らの傑作を鑑賞する芸術家のように黙って見つめていた。口元がゆっくりと上がり、暗闇の中で彼の眼が二つの鬼火のように光る。
なぜなら――彼が作り出した者たちの意識は、未だそこに留まっているからだ。彼らは「生きている」まま、見ることを、聞くことを、感じることを強いられている。逃れることはできない。
血と涙が一つになって冷たい地面へと滴る。ゾアは痛みにのたうち、犠牲者たちは沈黙の嗚咽を漏らす。周囲の空間は絞られるように重く、地獄のような塊となって迫ってくる。
だが――幸運にも、肉の口が閉じる前に、真紅の閃光が煙と塵を裂いた。
冬の夜に落ちる稲妻のような斬撃が走り、真っ先に駆けつけてその鬼の腕を切断した。赤い電光が爆ぜ、火の血を弾き散らす。
血煙と塵の中から、男が現れた。
テオドールだ。
彼の顔は石のように冷たいが、その瞳は怒りで赤く燃えていた。息は白い湯気となって立ち上り、短剣を握る腕には鍛え上げられた筋が浮かぶ――数十年の戦場経験が刻む鋼のような肉体。彼の一歩一歩が地面を震わせ、戦場全体が息を呑むかのように静まった。
黒と赤の電光が彼の周囲で裂け、空気に渦を描き、辺りを血の色に染める。テオドールはゾアを引き上げ、かろうじて死の口から取り戻した。
変異の鬼は腕を失い後退した。だが瞬く間に、黒い肉片が蠢きながら再び新たな腕を繰り出した。鬼はテオドールを一瞥し、含み笑いを浮かべた。
「どうやら、お前は我が変容を切り裂き、この場へ来たようだな。印象的だ……だが、それが正しい選択かどうかは――」
テオドールは即座に返答しなかった。彼は一歩前へ出て、その長い影が異形の体を覆い尽くす。声はかすれていたが、刃と同じくらい殺意に満ちていた。
「……俺の仲間を、あんな肉塊に変えたのか。」
変異の鬼は口角を吊り上げ、嘲弄の色を含んだ瞳で返す。
「そうだ。何か文句でも?」
一瞬の沈黙が訪れた。だが、それは静寂の前の爆発に過ぎなかった。テオドールの怒りは抑えきれぬばねのように弾けた。
彼は短剣を振るい、空気を引き裂く激しい斬撃を放った。その一振りは天地を裂くような衝撃音を生み、衝撃波が戦場をかすめ、付近の者たちの足元すら揺るがせた。
だが――変異の鬼は既に消えていた。残されたのは黒い靄だけで、そこからは深淵のようなギャラクシー色の瞳がちらりと覗いていた。
刹那、その黒塊が刃となって飛び込み、テオドールの胸元を狙った。彼は体をひねって一瞬で距離を詰め、刃跡一筋だけをその上着に刻ませた。血が細く滴り落ちる。
その直後、低く唸るような咆哮が後方から轟いた。紅い髪の巨漢が現れ、巨大な斧を振り下ろさんとした。
「ガキッ」──と、テオドールの短剣が斧を受け止める。火花が散り、黒と赤の稲妻の狂奏が彼を取り巻く。衝撃は地面を裂き、砂煙が舞い、放たれた電光が轟音と共に辺りを震わせた。
変異の鬼は悠然と背を向け、あたかも気にも留めぬように言葉を残した。
「そちらの連中は任せる。私が先に動く。奴らに私の力を早々に知られるわけにはいかない。」
そう言うと、彼は闇の中へと姿を消した。戦場には、二人の巨漢だけが剣と斧を構えて立ち尽くしていた。
紅髪の男は斧を握る手を固くし、低く唸るような声で言った。
「こんな薄っぺらい力で――奴らを引き裂くのに、時間はかからん。」
だがテオドールは短剣をより強く握りしめ、赤く燃える瞳でその言葉を受け止めた。彼は、きっとその言葉を最後の後悔に変えてみせるだろう。




