第54話
夜明けの光が窓の隙間から差し込み、床の上に柔らかな黄金の筋を描いた。
その時、村の男たちは静かに立ち上がり、今日という戦いの日の重みを背負って歩き出す。
最初に目に映るのは、まだ若い青年たちの姿だった。
朝靄の中で彼らの瞳は燃えるように輝き、手には粗末ながらも磨き上げられた武器を握っている。
それらは昨夜から丹念に研がれ、整えられたものだった。
青年たちは背筋を伸ばし、深く息を吸い込み、運命が立ちはだかせるどんなNGとも戦う覚悟を決めていた。
かつて彼らの敵は「NGの頭領」だけだった——それでも十分に手強かった。
だが今や、「変異の悪魔」が現れた。
奴は単なる強大な個体ではなく、汚染変異体を意のままに操る能力を持っている。
その存在によって、戦場へと踏み込むことは何倍も過酷なものになった。
今回の作戦は、何度も練られた末に決まったものだった。
一行は都市内部のある区域へ突入する。そこは迷路のように入り組んだ路地が張り巡らされた場所。
彼らは小隊ごとに分かれ、細い道を辿って最奥へと進む。
目的はただ一つ——NGたちの根拠地へと通じる「最終の道」を見つけ出すことだ。
だが、誰もが一度はこう疑問に思った。
——なぜ、かつてセシリアが行ったように、駅の正門から総攻撃を仕掛けないのか?
答えは明白だった。
あの場所には、一切の光が届かない。
完全なる闇——それは人間にとって致命的な不利となる。
NGもまた、闇の中では視界を持たない。
だが、「変異の悪魔」は違った。
奴は汚染変異体を操る。
そして、あの化け物たちは視覚ではなく「音」で獲物を狩る。
濃密な闇の中、たった一度の息づかい、一歩の靴音さえも、奴らを呼び寄せるのだ。
さらに悪いことに、汚染変異体との戦いを終えた頃には、人間たちはすでに体力を使い果たしている。
その状態で、頭領級のNGと対峙するなど不可能に等しい。
視界を奪われ、疲労に蝕まれた彼らは——ただの「獲物」に過ぎなくなる。
もちろん、イチカワやヒトミのような強者にとっては、汚染変異体など一撃で葬る存在かもしれない。
だが現実は、もっと冷酷だ。
汚染変異体には無数の種類が存在する。
ゾアはかつて、入試試験の中で「安全区域」にいながらも、異常なほど強靭な個体と相対した。
——それですら、まだ温い方だったのだ。
今彼らが向かうのは「自由区」——すなわち、いかなる防御結界の外側でもある。
そこに、いくつの怪物が潜んでいるのか。
誰一人、知る者はいない。
加えて、学院の上位生のように一撃必殺を放てる者はほんの一握りだ。
村人たちの多くは、幾度の戦場を経験していようと、容易には汚染変異体を倒せない。
「汚染を一掃して、万全の状態でNGの巣へ突撃する」——
そんな理想は、現実では到底叶わぬ夢物語にすぎなかった。
現実へと場面が戻る。
今、彼らは都市の広大な通りを駆け抜けていた。
両脇には高層の建物が並び、まるで巨大な迷宮の壁のように連なっている。
もともとこの街はこんな形ではなかった。だが、人類の侵攻を阻むために、NGたちは都市構造そのものを改造し、この一帯を巨大な迷宮へと変えてしまったのだ。
奴らは今、その高層の屋上から、人間たちが変異体と死闘を繰り広げる様を見下ろしている。
舗道は亀裂に覆われ、風は深い路地を駆け抜けながら笛のような音を響かせる。
その音に背を押されるように、人々の足音が一斉に加速した。
——それは、今日という「征伐の日」の幕開けを告げる疾走だった。
ゾアは仲間とは別の道を任されていた。
単独行動——だが、それも当然の判断だ。
今や彼は、この場にいる誰よりも強いと認識されている。
前夜、ゾアは仲間たちと「それぞれの力量」について語り合っていた。
彼は知っている。テオドールは爆発的な攻撃力と完全な回復能力を兼ね備えている。
理屈の上では、ゾアが最強とは言い難い。
だが——現実は違った。
今のゾアには、「鳳凰の瞳」が宿っている。
その目がもたらす力と、彼の操る「黒炎」とが融合すれば、
彼は単独で戦うことにおいて、テオドールをも凌駕する。
その瞳孔は黒曜石に刻まれた亀裂のように深く、
その縁を青黒い光が流れている。
わずかな呼吸の乱れ、筋肉の緊張、風の震え——
敵のすべての動きが、ゾアの視界の中で拡大されていく。
そして、最初の敵が現れた。
建物の内部から、野犬の群れのような変異体が一斉に飛び出し、
ガラスを突き破ってゾアへと襲いかかってくる。
耳を裂く咆哮、粉砕されるガラスの音。
ゾアは反射的に目を見開いた。
空気が湿り、鉄錆と腐肉の匂いが混ざり合う。
砕けたガラスが雨のように降り注ぎ、
獣の爪が石畳を引っかく甲高い音が、背筋を凍らせた。
その光景を、高所から静かに見下ろす者がいた。
——「変異の悪魔」である。
手にはまだ湯気を立てるコーヒーのカップ。
屋上の縁に腰を下ろし、
湯気に揺れるその瞳に映るのは、新聞で見た“あの男”の背中。
唇の端に、煙のように薄い笑みを浮かべる。
足元で繰り広げられる“生きた娯楽”に、彼は愉悦の眼差しを向けていた。
だが、ゾアは一瞬の隙も見せない。
敵が接近するより早く、
彼は握り締めた剣を大きく振り抜いた。
その軌跡は弧を描き、
黒炎の爆発的な熱が空気を切り裂く。
一瞬にして夜のような闇と、燃え盛る火が交わり、
壮麗な光景が広がった。
空中に描かれたのは——黒き月。
黒炎を纏い、すべてを呑み込む漆黒の円。
それが群がる化け物たちを一瞬で焼き尽くした。
屋上の悪魔は、湯気の向こうで目を細め、
思わず声を漏らした。
「……なんて力だ。美しいじゃないか。」
黒炎の弧が空気を裂いた。
熱流が波のように立ち上り、群れを成した変異体の影が、青黒く煮え立つ溶岩のような光の中で灰と化していく。
斬撃の軌跡は壁面に焼け焦げた痕を刻み、吸い込まれる風が炎の口へと流れ込み、嵐の遠吠えのような轟音を生み出した。
次の瞬間——。
巨大な槍が彼へと放たれた。
それは大楼を貫き、一瞬で壁面に巨大な穴を穿つ。
衝撃音は爆発のように響き渡り、遥か離れた仲間の陣にも伝わるほどだった。
壁が崩れ、瓦礫が雨のように降り注ぐ。
ゾアの身体は直撃を受け、背後の建物に叩きつけられた。
砕け散った鏡片と瓦礫が彼を呑み込み、一瞬で姿を隠す。
衝撃波が大通りを駆け抜け、吊り下げられた看板がぶつかり合って不吉な音を立て、電線が震え、街そのものがその力に怯えているようだった。
そして——。
怪物が歩み寄ってくる。
その歩調は軽やかでありながら、地面に杭を打ち込むかのような重みを帯びていた。
白く、しかし時間の侵食でところどころに黒ずみを帯びた肌。
騎士の鎧のように硬質な体。
怒りに燃える紅い瞳。
怪物は瓦礫の山を凝視し、ゾアの気配を探る。
槍の穂先が石を擦り、火花を散らす音が、長く尾を引いて闇に溶けた。
沈黙の後——瓦礫が爆ぜる。
怪物が驚愕する間もなく、ゾアの身体が宙を舞った。
回転しながら彼は一直線に頭上から斬り下ろす。
「——ッ!」
怪物は反射的に槍を構え、防御する。
金属がぶつかり合う甲高い音が響き、
凄まじい力の衝突で怪物の巨体が後方へ弾き飛ばされる。
ゾアは間髪入れずに追撃へと転じ、
横一線の炎の斬撃を叩き込んだ。
黒い刃がその胴を裂き、血飛沫が夜気を染める。
怪物は苦悶の咆哮を上げ、後退した。
その声は鼓膜を突き刺すように鋭く、
ゾアは思わず耳を塞いだ——。
ガラスを刃で削るような絶叫が、脳を揺らし、平衡感覚を奪っていく。
その瞬間、怪物の姿が消えた。
目にも止まらぬ速度で背後へと回り込み、
ゾアが反応するより早く、横薙ぎの一撃を放つ。
衝撃で彼の身体は宙へと弾き上げられた。
風圧が顔を叩き、視界が揺らぐ。
上空——そこに、すでに怪物が待っていた。
槍が閃き、突き下ろされる。
直撃。
ゾアの身体は石畳に叩きつけられ、轟音が街に響く。
砂煙が立ちこめ、視界が霞む。
「……っ!」
彼は歯を食いしばり、割れた地面の上で身体を起こした。
血が頬を伝い、滴となって草の上に落ちる。
痛みを押し殺しながら、彼は前方の怪物を見据えた。
全身に傷を負いながらも、唇をわずかに歪めて言葉を吐く。
「……やれやれ、本当に化け物だな。
テオドール、お前はいつもこんな奴らと戦っていたのか?」
——実際、村の者たちはこのような怪物に遭遇することはない。
ゾアがこの存在に出くわしたのは、
上空から見下ろす“変異の悪魔”による仕組まれた試練だった。
一見、意思を持たぬ獣のように見えても、
それは確かに操られている。
屋上の悪魔は、口元をわずかに歪め、
湯気の向こうで薄く笑った。
「私の“強化個体”のひとつにすぎないのに、
もうそんなに苦戦しているとはね。
この調子なら、わざわざ私が出るまでもないか。」
その声は、街路に降る灰のように静かで、
そして、冷酷だった。
言葉を終えると同時に、
怪物が再び疾駆する。
地を砕くほどの踏み込み。
振り下ろされた槍が空気を裂き、
ゾアは剣を構えて受け止めた。
轟音——衝撃。
瞬間、足元の地面がひび割れ、
膝が軋むほどの圧が全身に伝わる。
歯を食いしばり、口端から血を滲ませながら、
ゾアはその重圧に抗う。
剣の背を走る火花。
腕の筋肉が緊張し、血管が浮かび上がる。
「——ッ!!」
一気に力を込め、怪物を弾き飛ばす。
続けざまに、縦一文字の黒炎を振り下ろした。
刃が肉を裂き、火が走る。
炎は黒蛇のように傷口を這い、
焼け焦げた肉の匂いと鉄錆の香りが空気を満たした。
怪物は咆哮を上げ、
その苦痛を示すように夜を震わせた。
小さな変異体たちが、周囲から一斉にゾアへ襲いかかってきた。
その気配を察した瞬間、ゾアは目を走らせ、素早く周囲を確認する。
次の瞬間には、連続する突進を軽やかに跳び、身を翻してかわしていた。
迎え撃つは、鋭利な斬撃。
空を裂いた黒い軌跡が、小型の怪物たちの身体を正確に二つへと断ち割っていく。
ゾアは跳躍し、回転し、連続する攻撃を避けながら、大型の建物へと身を滑り込ませた。
狭い空間を利用すれば、多勢に無勢を避けられる――そう読んだのだ。
滑り込みと同時に、床に白煙の線が走る。
咆哮を上げながら怪物たちが突っ込んでくるが、ゾアは周囲の物を見極め、鉄の机の向こう側へ身を翻す。
そして、両足で机を蹴り飛ばした。
勢いを殺された怪物が一瞬動きを止めた隙に、ゾアの連撃が閃く。
刃が風を裂き、黒い残光を引いて走る。
暗い廊下を駆け抜けるその姿は、まるで“闇の稲妻”。
壁に反響する斬撃音は、戦鼓のように響き渡った。
荒い息を吐きながら立ち止まった、その瞬間だった。
背後の建物のガラスが一斉に砕け散り、無数の破片が光を反射して宙に舞う。
時間が一瞬、止まったかのような錯覚。
振り返ったゾアの視界に映ったのは、あの槍を持つ巨大な変異体の影だった。
凄まじい突き。
ゾアの身体は宙で何度も回転し、壁を突き抜け、石床に叩きつけられて転がった。
回転のたびに、血の弧が空へと描かれ、骨のぶつかる乾いた音が響く。
だが――幸運だった。
もし完全回復の能力が覚醒していなければ、この瞬間、命はなかっただろう。
皮膚の下を熱い生命力が流れ、裂けた傷口を焼くように縫い合わせていく。
痛みは鋭く、それでいて確かに生を感じさせた。
ゾアは身体を起こし、上方を睨む。
建物の中で怪物が彼を見下ろし、怒りの光を瞳に宿していた。
ゾアは剣を強く握りしめる。
その表情には、迷いも恐れもない。――必ず、この怪物を討つ。
鳳のような双眸が紅く閃き、瞳の奥に煤のような炎紋がゆらめく。
敵の動線、呼吸、踏み込み――すべての情報が、脳内で“殲滅の地図”として結びつく。
一気に跳躍。
同時に怪物も飛び降り、二つの影が空中で交錯した。
瞬間、空間が弾け飛ぶ。
雷鳴のごとき爆音が街区を切り裂き、衝撃波が砂塵を押しのけた。
ガラス、瓦礫、看板の破片が円を描いて飛び散り、黒い剣閃と白い槍光が交わる一点が、眩い閃光と共に爆ぜる。
気流の奔流が生まれ、鉄の手すりが歪み、建物が震えた。
屋上でその光景を見下ろす《変異の鬼》。
手すりにカップを置き、目を細め、愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
――舞台は、ついにクライマックスへ。
黒い炎が日蝕のように渦を巻き、ゾアは死と生の境界を駆け抜ける。
黒星のような輝き――暴力的でありながら、美しい瞬間だった。
一方その頃。
混沌とした咆哮の中、セシリアは一体の変異体を斬り伏せていた。
だが、遠くで轟いた爆発音に、思わず顔を上げる。
巻き上がる砂煙、揺らめく炎、金属がぶつかり合う音。
――あれは……ゾア?
その思考が終わるより早く、背筋を氷の刃が走った。
背後に、ひとつの気配。
息が耳元を掠め、低く沈んだ声が闇の底から響く。
「どこを見ている……お嬢さん?」
反射が閃光のように爆ぜる。
戦場の本能が一瞬で全身を支配し、セシリアの身体が刃のように回転する。
剣が風を裂き、彼女の能力が発動した。
――風が砕けた。
空気が無数のガラス片となってきらめきながら地面へ降り注ぎ、
地表は二つの深い亀裂に裂かれていく。
黒い鴉の羽が舞い落ちる。
その中で、奴の姿がはっきりと浮かび上がった。
挑発的な距離を保ちながら、悠然と立つ影。
「相変わらず短気だな……だが、そうでなければ面白くない。
前回は決着がつかなかっただろう?」
セシリアは剣を握り直し、氷のような瞳で睨みつける。
「そんなに早く現れて命を捨てたいなんて……いい度胸ね、NG。」
その瞬間、記憶という名の刃が、セシリアの心を容赦なく切り裂いた。
――アックの声が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
「さよならだ……かつて、愛した人。」
胸が締めつけられる。まるで心臓そのものを誰かの手で握り潰されたかのように。
その言葉は、ただの別れではなかった。
それは、希望という名の糸を断ち切る“終止符”だった。
セシリアは理解していた。
アックは数え切れぬ苦痛と喪失を繰り返した過去を生き、
その鎖を断ち切るために――新たな時間軸を創り出したのだと。
それは自己の救いのためではない。
この世界そのものを、やり直すために。
だが、セシリアにとって“この世界”など、アックのいない世界に価値などなかった。
彼女は痛いほど分かっていた。
幻にすがり、彼の帰還を夢見続けても、何も変わらないことを。
この現実は、優しさとは無縁の地獄だ。
誰も彼女のために歩み寄ってはくれない――
ここは戦火と飢えが支配する終末の時代。
生きる権利すら、“力”によってのみ与えられる。
だからこそ、彼女は決めた。
アックと肩を並べるために。
誰よりも、強くなると。
もう曖昧な友情も、弱さゆえの依存も要らない。
ただひとつ、揺るがぬ真実が胸にある。
――自分が愛し、これからも愛し続ける人は、アックただひとり。
たとえ世界が滅びようとも、必ず彼を見つけ出す。
耳を裂くような轟音が現実を引き裂いた。
セシリアの剣が横一文字に閃き、眼前の空間そのものを裂く。
光が歪み、地面が激しく震え、虚空の鏡片が渦を巻いて宙に舞った。
煙と塵が左右へと押しのけられ、風の悲鳴が耳を打つ。
その衝撃は周囲の建物にまで及び、巨大なコンクリートの塊が崩れ落ち、
瓦礫の雨が世界を覆った。
男は一瞬、息を呑み、汗がこめかみを伝う。
「なっ……急に、どうしてこんな力を……?」
黒い稲妻が、蛇のようにうねりながら刃を走った。
セシリアが一歩、前へと踏み出す。
その踵が大地を叩くたび、粉塵と瓦礫が弾け、
赤黒い閃光が激しく瞬いた。
そう――彼女の中の“力”が、爆ぜたのだ。
ついに、彼女は高位のエネルギーへと覚醒した。
いまの一撃は、ただの速度や技術ではない。
それに込められていたのは、《爆破》――
戦場の均衡をも覆す、破壊の力そのものだった。




