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第53話

「意外だな。あの女をすぐに殺そうとは思わなかったのか? あの時手を下していれば、もう勝っていたかもしれないのに。」


ギィ――と、朽ちた木の扉がかすかに悲鳴を上げて開いた。

中に広がるのは、長い年月を経た古びた部屋。湿った空気と黴の匂いが鼻を突き、割れた窓の隙間からわずかな光が差し込んでいる。

破れたソファの上に腰を下ろすジョナスと白髪の男。二人の手には湯気を立てるコーヒーカップが握られていた。


白い湯気の向こうで、白髪の男は一口飲み、静かに言葉を落とす。


「他の連中がどれほどの力を持っているか、まだ分からない。未完成のまま死ぬつもりはない。」


部屋の空気は重く、冷たい。まるで地の底の洞窟のようだ。

周囲には、銀河のような光を宿した目を持つ影がいくつも佇み、それぞれがこの異様な空間をまるで日常のように過ごしている。

足音、かすかな笑い声、どこからともなく響く奇妙な音。

それらが絡み合い、歪んだ、そして不気味な絵を描き出していた。――まるでここが、人の世に紛れた地獄そのもののように。


***


駅の改札前。

セオドアはセシリアの身体を支えながら外へ出た。

彼女の顔色は青ざめ、瞳は深淵を覗いたかのように濁っている。

外で待っていたゾアがすぐさま駆け寄り、不安を隠せぬ声で問いかけた。


「中で、何があったんだ?」


セオドアはその視線を受け止め、喉の奥で言葉を詰まらせながら答えた。

まるで悪夢の中から這い出してきた者のような声で――。


「どうやら……彼女は“奴”に遭遇したらしい。第六のNGに。」


その言葉に、ジュリアン・ロシュフォール、ゾア、そしてアユミの三人は凍りついた。

驚愕の色が一斉に浮かび、誰もが息を呑む。

ジュリアンは信じがたい思いで、確認するように口を開いた。


「本当なのか? あの――俺たちの村の人間を何十人も殺したっていう、あの化け物が?」


セオドアは静かに頷いた。

ジュリアンはその様子を見て、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。恐怖を隠すように。

そしてセオドアは、低く重い声で続けた。


「とにかく、まずは村に戻ろう。その後で話そう――なぜ“第六のNG”が、この任務をS級に引き上げたのかを。」


***


世界の反対側。

かつてローマ帝国の白い都を思わせる廃墟の中央に、一人の大柄な男が立っていた。

黒のワイドパンツ、足首まで覆うブーツ。

腰には三本の日本刀が吊るされ、その金具には淡い光を反射する精緻な装飾が施されている。


その顔は闇に覆われ、見る者に一片の表情も与えない。

ただ、静寂の中で低く響く声だけが、広大な空間に反響した。


「――あの椅子のために。

 そして、“あの方”の期待のために。」


***


竜巻の里――タツマキの村は、まるで一枚の古い絵画がそのまま動き出したかのように広がっていた。

村の中心には、幾世代もの時を見届けてきた巨大な古樹がそびえ立ち、その枝葉の下で、人々は崩れた建物を巧みに改修し、住まいとして再利用している。

小さな家々が樹を囲むように点在し、自然と共に息づく温もりのある共同体を形づくっていた。


子どもたちは笑い声を上げながら、樹の根元を駆け回る。

大人たちは笑顔で働き、日々の一瞬一瞬を分かち合っている。

黄金も宝石もないが、それでも幸福の光は、確かに彼らの瞳に宿っていた。


木漏れ日が葉の隙間からこぼれ、髪や肩に柔らかく降り注ぐ。

風が吹けば、凧が高く舞い上がり、果実の皮で作られた手製のボールが地面を転がる。

洗いざらしの衣服が風に揺れ、自然と人間が一体となるような光景だった。


戦場から戻ったゾアとアユミを、村人たちは歓声と拍手で迎えた。

まるで遠征から戻った英雄を称えるかのように。

笑い声と足音が重なり合い、セオドアとジュリアンは微笑んで手を振った。

セオドアがゾアの肩を軽く叩きながら言う。


「――ようこそ、竜巻の里へ。」


ゾアはそのまま、賑わいの渦に飲み込まれた。

人々が次々に声をかけ、笑顔で手を差し出す。

炭火の上で肉が焼ける香ばしい匂い、皿と箸の触れ合う音、子どもたちのはしゃぐ声――

それらが混ざり合い、小さな広場全体にぬくもりを満たしていく。


森の果実を採る狩人の話、火を守る者の伝承、そして村の門を見張る者の覚悟。

ゾアが耳にする一つひとつの物語が、まるで生きた絵のようにこの土地の全貌を描き出していく。

素朴で力強い幸福の気配に包まれ、ゾアは時が経つのも忘れていた。


そのとき、セオドアが十五歳ほどの少年を連れて現れた。

華奢だがしなやかな体つき、澄んだ瞳にわずかな緊張を宿す少年は、見知らぬ人々の前で少しぎこちなく頭を下げた。

それでも礼儀正しい声で挨拶を繰り返す姿に、周囲から笑みと歓声が上がる。

彼はセオドアの息子であり、まもなく“浄化の儀”――人生の大きな節目を迎える年齢だった。

いくつかの言葉を交わすと、少年はすぐに同年代の輪に加わり、屈託のない笑顔を見せた。


賑やかな空気の中、ひとつの古びた家の扉が軋みを上げて開いた。

そこから現れたのはゼフィール・ヴァルモン。

黒ずんだ肌が焔の光に照らされ、細身の身体には不思議な強靭さが宿る。

その瞳には、何か大いなるものを待ち望むような熱が宿っていた。

十七歳、能力ランクD、戦闘指数一万七千――決して突出した力ではない。

だが、彼の目に宿る輝きは、それ以上の高みを求める確かな意志を示していた。

ゼフィールは一歩一歩、ためらいなく人々の輪の中へと歩み寄る。


宴は質素ながらも、心の底から温かかった。

素朴な木の机には、森の青菜、香ばしい焼き魚、そしてもちもちとした根菜の菓子が並ぶ。

それらが笑顔と共に次々と手渡され、誰もが心からそのひとときを楽しんでいた。

物質的な豊かさはなくとも、彼らの間には確かな絆があった。


当初はまだ警戒心を残していたセシリアも、次第に緊張を解き、笑い声に溶け込んでいく。

焔の揺らめきが彼女の頬を照らし、柔らかな微笑みが浮かんだ。

アユミはすっかり宴の中心となり、子どもたちと追いかけっこをしながら笑い転げていた。

風に舞う髪、夜空に響く澄んだ笑い声――それは、この村に満ちる命そのものの音だった。


焔が照らす顔の一つひとつに、幸せが映る。

その光景を見つめながら、ゾアはふと思う。

――戦争も、危険も、任務で見た悪夢も、村の外に置き去りにできるのではないか。


この瞬間だけは確かに、ここには人のぬくもりと、言葉を超えた繋がりがあった。

夜が降りる頃、人々は大樹の根元に腰を下ろしていた。焚き火の炎がぱちぱちと音を立て、揺らめく光が彼らの真剣な顔を照らし出す。

セオドアが静かに口を開いた。


「……みんなも分かっているだろう。明日から、俺たちはあいつらと真正面から対峙することになる。」


ゾアがすぐさま問い返す。


「地下で見た“それ”とは何なんだ? あれのせいで俺たちを呼んだのか?」


セシリアが小さく身を震わせた。白髪の男の記憶が、まるで亡霊のように彼女の脳裏をよぎる。

セオドアは低く、重い声で語り始めた。


――これまで、この地域で最も強力なNGは、たった五体だけだった。

どんなに他のNGが近づこうと、彼らは決して仲間に加えることはなかった。

彼らにとって、その“五つの存在”こそが完璧であり、六体目が現れることは彼ら自身の秩序を壊す“禁忌”だった。


日々、セオドアたちはその五体――この地を支配する五つの強敵と戦い続けてきた。

だが、ある日を境に、それは突如として終わりを迎えた。

襲撃は途絶え、街の奥深くから聞こえていた咆哮も消えた。

その静寂は異様だった。だがセオドアは、油断と高揚の中で“勝利”を確信してしまったのだ。


――好機が訪れた。そう信じた。

彼は村の総戦力を率い、地下鉄区域への総攻撃を命じた。


最初は、すべてがあまりにも順調だった。

剣の閃き、銃弾の炸裂、魔法の光線が次々と変異体を貫き、倒れた死骸が床一面に転がる。

血の匂いが火薬の煙と混ざり、熱気と共に満ちていく。

勝利の雄叫びが暗いトンネルに反響し、兵士たちの士気は頂点に達した。

彼らはさらに深く、さらに勢いを増して進軍し――そしてついに見つけた。


そこに横たわっていたのは、あの五体のNG。

全身傷だらけで、すでに動く気配もない。


兵たちは歓声を上げ、外の部隊に突入の合図を送った。

勝利への確信が、若き戦士たちの心から恐怖を奪っていく。

もはや誰もためらわなかった。

彼らは全力で突き進み、この地を支配してきたNGの時代を終わらせようとした。


――だが、その時。


あの音が響いた。


耳を裂くような咆哮がトンネル中に木霊し、勝利の幻想を粉々に打ち砕いた。

次の瞬間には、血が流れ出し、溜まった水と混ざり合って床を赤く染めた。

人々の叫びが途絶え、倒れた死体が闇に散乱する。


セオドアは生存者を救おうと駆け出したが、その肩をジュリアンの手が強く掴んだ。

若者の顔は青ざめ、瞳は大きく見開かれ、何か――死よりも恐ろしいものを見たかのように震えていた。


そして、闇の奥からそれは現れた。


歩み寄ってきた“それ”は、もはや人間ではなかった。

肩には三つの首が生えていた。

それは先ほどまで共に戦っていた仲間たちの顔――歪み、苦痛に歪んだ表情のまま、血を流し続けている。


喉の奥から搾り出すように、彼らは最後の言葉を残した。


――「……NG……第六……」

言葉が終わると同時に、背後から巨大な変異体が襲いかかった。

その口は深淵のように広がり、先ほどの異形の死体を丸ごと飲み込む。

乾いた嚥下音が響き、血と肉が潰れる生臭さが、狭いトンネル内に充満した。


その光景に、セオドアの胃がねじれる。

彼はその場で吐き出さぬよう、歯を食いしばった。

恐怖と絶望の中、彼らに残された選択肢はただ一つ――撤退のみ。


しかし、地上に戻った時には、出陣した兵の半数がすでにいなかった。

生き残った者たちの瞳からは光が消え、魂が抜け落ちたように虚ろな眼差しを浮かべていた。


――それ以来、誰一人として、再び地下鉄区域に足を踏み入れる者はいなかった。


話を聞き終えたゾアは、なぜこの任務がS級に格上げされたのかを悟った。

彼の瞳には決意の炎が宿る。

あのNGを倒し、この地の人々を守るために。


その頃、セシリアは焚き火を離れ、穏やかな表情の女性の隣に腰を下ろした。


「あなた、壁の向こうから私たちを助けに来てくれたのね?」


「はい。ここを解放した後は、この地域は《スカイストライカー》の管理下に入ります。

みなさんの食料供給も安定するはずです。」


女性は柔らかく微笑んだ。


「それは嬉しいわ。私は村長の妻なの。」


「そうなんですね……お名前を伺っても?」


「私たちには名前なんてないの。皆、合言葉で呼び合っているだけよ。」


その言葉に、セシリアの胸が痛んだ。

だが、女性は慌てて優しく付け加える。


「悲しい思いをさせるつもりじゃないのよ……」


「大丈夫です。」


二人は静かに語り合い、セシリアはこの世界のことを少しずつ知っていった。

教育こそ乏しいが、彼らは生き抜くための技を熟知している――それが、外の人々だった。


一方その頃、ゾアは村長と共に作戦の打ち合わせを行っていた。

アユミはすでに眠りにつき、ゼファーも計画の策定に加わっている。


――あのNGが現れてから、すでに三ヶ月が経過していた。

村人たちはその存在を、ただ「変異の悪魔」と呼んだ。

その名を口にするだけで、胸が締めつけられるような恐怖に襲われる。


あの日以来、村は常に不安の霧に包まれていた。

巡回隊の熟練者たちが次々と帰らぬ人となり、悪魔の爪に倒れていった。


だが、何よりも恐ろしかったのは――死んだ者たちが“終わらない”ことだった。

彼らの肉体は、何か得体の知れない力によって引き裂かれ、再構築され、

醜悪な肉塊へと変貌する。

もはや人ではなく、ただ一つの本能だけが残る。


――生者を、殺す。


誰にも救うことはできなかった。

誰にも、彼らを人間に戻すことはできなかった。

残された者にできることは、剣による“解放”のみ。


その絶望の中でも、人々は立ち続けるしかなかった。


ゾアとアユミが最初に遭遇したNGは、あの“変異の悪魔”そのものではなかった。

それは同格の存在――奴の手下だった。

領域を侵略し、食料を奪い、戦利品を主へ捧げることを目的とした獣。

その「食料」は、ただ生存のためではない。

悪魔はそれを“吸収”し、己の肉体を強化し、

常識では想像もできない力を得ていった。


それこそが、奴の恐るべき能力の源だと誰もが疑っていた。


死を待つだけの運命を拒み、ゾアと村長は油の尽きかけたランプの下で、

夜通し戦略を練り上げた。

明け方に行われる決戦――その一手一手を慎重に計算し、

一つの誤りも許されぬ戦いを描き出した。


同じ頃、セシリアはセオドアの妻と共に過ごしていた。

自分の過去を静かに語るその声には、震えと悲しみが混ざっている。

女性は黙って聞き入り、その瞳に同情と痛みを滲ませた。


アユミは長い一日の疲れに身を委ね、厚手の毛布にくるまって眠っている。

ゼファーは机の隅で、ゾアと共に戦略の確認を続けていた。

若き戦士の瞳には、己の存在を証明しようとする強い光が宿る。


夜はゆっくりと過ぎていった。

外では風が屋根の隙間を抜け、まるでこの地の嘆きを運ぶように唸る。


誰も、自分がいつ眠りに落ちたのかを知らなかった。

ただ、まぶたを開けた時――

扉の隙間から差し込む朝の光が、静かに新たな“決戦の日”を告げていた。

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