第51話
闇に沈む地下空間を、足音がひとつ、またひとつと響かせていく。
その音は黒い闇の中に吸い込まれ、光など初めから存在しなかったかのように、すべてを呑み込んでいった。
残されたのは、ざらり、と何かが蠢く音。――汚染に歪められた異形の生物たちが、闇の奥で潜み、息を潜めている。
セシリアは、無謀な勇気に任せてここへ足を踏み入れたわけではなかった。
彼女は準備していた。
腰のホルダーから小型のライトを取り出し、最大出力で点灯させる。
白い冷光が弾け、暗闇を裂き、漂う塵のひと粒ひと粒に反射する。
片手にバックパックを担ぎ、もう片方の手でライトを掲げ、闇を押し退けるように照らした。
光が広がるにつれ、彼女の前に広がる光景が露わになる――荒廃、そして狂気。
冷え切った床のひび割れからは、深緑の雑草がしぶとく顔を出し、湿った空気の中で微かに揺れていた。
周囲に並ぶのは、かつて賑わっていたであろう商店の残骸。
いまや壁は崩れ、棚は歪み、年月と自然が残酷なまでに形を食い尽くしている。
窓という窓は蔦と苔に覆われ、光を映すこともなく、まるでこの場所の記憶を厚い布で覆い隠すようだった。
コツ、コツ、と響くセシリアの足音が、静寂を震わせては壁に反響し、再び静けさの中へと溶けていく。
そして――
光の中に現れたセシリアの姿は、かつての彼女とはまるで別人だった。
雪のような白髪は消え、代わりに腰まで届く青藍を帯びた煤黒の長髪が流れている。
それは闇そのものを織り上げたような艶を放ち、動くたびに、差し込む光を受けてネオンの青い線が閃いた。
前髪が柔らかく頬を包み、剣のように鋭い瞳を引き立てながらも、どこか静謐な陰を宿す。
髪を留める青緑の金属アクセサリーが、戦士の気高さを象徴するように光った。
その身を包む装束は、未来的な戦闘服とスポーティな機能美が融合したものだった。
上半身には非対称の黒いチューブトップ、縁取りにはネオンブルーの線が走り、身体にぴたりと密着して機動性を高めている。
左肩には軽装の防具、細い革紐で固定され、右腕は自由に解き放たれ、瞬時の斬撃に備えていた。
背には金色の帯状の布が数本、風のように揺れ、闇の中で戦う者の象徴のように煌めく。
下半身には黒のワイドジョガーパンツ。
裾には青く発光する紋様が流れ、彼女の一歩ごとに意思の軌跡を描いていく。
腰のベルトとホルスターが鞘を支え、全身を“戦う”という目的のもとに統一していた。
足元は軽装の戦闘ブーツ。滑り止め加工が施され、黒とネオンブルーの配色が全体と完璧に調和している。
その腰にある剣――それは芸術と殺意の結晶だった。
細身の刃は極限まで研ぎ澄まされ、光を当てると淡い蒼光を裂くように反射する。
刃の背を走る模様は、まるで生きているかのように淡い青を脈打ち、
柄には滑り止めの合成素材、手甲を保護する金属の装飾が滑らかに弧を描いていた。
抜刀のたびに金属の歌が響く――冷たくも美しい、鋼の鎮魂歌のように。
そうして一歩を踏み出すセシリアは、もはやただの少女ではない。
数え切れぬ戦場をくぐり抜けた戦士――そして今、忘れられた駅の心臓部へと進む者だった。
彼女の前に立ちはだかる闇は、単なる“暗さ”ではない。
それは目標への道――すなわち、“NG”と呼ばれる存在の痕跡を辿るための入口だった。
この世界で、誰もが本来の名「Noesis Genesis」を口にすることはない。
その意味は、“認識の始まり”、“知性の源泉”。
神聖にも聞こえるその名は、しかし今や野望と血に染まった忌まわしき象徴である。
――人間は、本当に最初の知性ある種なのか?
それとも、NGこそが知恵の始まりなのか?
答えは皮肉にも――否だった。
NGは“知性の起源”ではない。
彼らは“人の形に宿る完全性の始まり”であった。
誰もが惹かれる美貌を持ち、各々が異なる能力を備え、髪は自然のままに無数の色彩を帯び、
そして――彼らは決して老いない。
ではなぜ、“知性の源”と呼ばれるのか。
それは、ノエシスの女王が人類を歴史から消し去ると誓ったからだ。
人間を、存在しなかった神話へと葬り去り、NGのみが知を統べる世界を築くために。
人類はその名を忌み嫌いながらも、結局は呼ばざるを得なかった。
理由は単純だ――すでに地球の支配権は彼らのものだったから。
名をつける権利は常に“強者”にある。
だから人々は屈辱を噛み殺し、「Noesis Genesis」を縮めてただNGと呼んだ。
新たな呼称を作ろうとした試みは幾度もあったが、
すべて無意味に終わった。
――NGにとって、少数の意見など“存在しない”のだから。
地下深く――濃密な闇の中を、セシリアは一歩、また一歩と進んでいた。
その頃、地上ではゾアとセオドアが並んで歩きながら、穏やかに言葉を交わしていた。
しかしその静けさを破るように、遠くから一人の青年が駆けてきた。息を切らし、顔を真っ赤にして叫ぶ。
――「大変です、村長!!」
突如響いた叫びに、セオドアの足が止まる。
その鋭い眼差しが、走り寄る青年へと向けられた。
――「どうした? 一体何があったんだ?」
青年は立ち止まり、腰を折って肩で息をする。汗が頬を伝い落ちる中、セオドアが彼の肩に手を置き、穏やかに言った。
――「焦るな、落ち着いて話せ。」
数秒の沈黙ののち、青年はようやく息を整え、途切れ途切れに言葉を吐き出した。
――「昨日来たあの女の子が……ひとりで地下へ! “NGを全滅させる”って言って……!!」
その瞬間、セオドアの顔色が変わる。
周囲の者たちも同様に息を呑んだ。
誰もためらわず、全員が一斉に駆け出す――驚愕と不安を抱えたまま、地下への道へと。
――――
場面は再び、暗黒の地下へと戻る。
鋭い一閃が闇を裂いた。
空気そのものが断ち切られ、眩い光の線が走る。
見えない“鏡の破片”が宙を舞い、懐中電灯の光を反射して煌めき、やがて虚空へと溶けていく。
その残響の中に残るのは、絶対的な威力を誇る一太刀――一瞬で群れごと汚染された異形を斬り払うほどの破壊力だった。
セシリアはまっすぐに歩を進めた。
黒いブーツの足音が、一定のリズムで石床に響く。
彼女の前に立ちはだかるのは、知性も戦略も持たぬ化け物たち。
それらは本能と飢えだけに突き動かされ、狂気の叫びを上げながら突進してくる。
一体の怪物が咆哮とともに飛びかかる。
セシリアは片手でその頭部を掴み、無造作に地面へ叩きつけた。
ドンッ!
轟音が地下全体を震わせ、床が蜘蛛の巣状にひび割れる。
衝撃波が広がり、空気が震える。
彼女は間髪入れずに身をひねり、力を解放する。
次の一太刀――その刃が走るたびに、空間が爆ぜた。
数万もの透明な破片が舞い上がり、風すらも斬り裂かれる。
切断された空間が一直線に伸び、死の線が描かれる。
範囲内の異形はすべて粉砕され、血と肉が飛び散る。
その中で、“ガラス片”のような光が淡く輝きながら、静かに消えていった。
セシリアは速度を上げ、さらに深部へと突き進む。
敵の数が増え、暗闇が脈打つように蠢く。
そして、ある一点で彼女は立ち止まった――まるで、空気そのものの息遣いを聞いたかのように。
次の瞬間。
シュン――ッ!
一閃。
大地が裂けた。
凄まじい衝撃が床を貫き、地下全体を震わせる。
石の地面が一直線に割れ、光の軌跡を描く。
風は二つに切り裂かれ、激しく反転しながら渦を巻いた。
土塊と破片が舞い上がり、爆風が地下を呑み込む。
その一撃に巻き込まれた怪物たちは、まるで潰れた果実のように粉々に砕け散った。
残るのは――ゆっくりと降り注ぐ淡い青の光の欠片。
静寂の中で、それらは雪のように舞いながら、音もなく消えていった。
深淵のように沈んだ闇の中から、低く重い足音が響いた。
靴底が床を打つ音に、ゆっくりとした拍手が重なる。
その音は一つ一つが耳の奥に刻み込まれるかのように長く、冷たく響き渡った。
暗闇を裂くように、ひとりの男が姿を現した。
冷たい眼差し、薄く歪んだ笑み――そのすべてが不穏な気配を放っている。
セシリアは瞬時にその圧を感じ取り、振り向いた。
彼女の瞳が鋭く細まり、刃のような光を宿す。
男が口を開き、張り詰めた空気を切り裂いた。
「実に見事な演技だったよ……招かれざる客人。」
セシリアの目の前に立っていたのは、氷のように冷たく、危険な気配を纏った男だった。
まるで周囲の空気さえも凝り固まってしまうかのような存在感。
彼は漆黒のロングコートをまとっていた。
縁には深紅の線が走り、それはまるで乾ききった血が布に染み込んだようだった。
分厚い布地はところどころ重ね縫いされ、肩と腕には軽装の装甲が施されている。
防御と機動、相反する要素を見事に両立したその装いは、
彼が数えきれない奇襲を潜り抜けてきたことを語っていた。
立ち上がった襟は火傷のように赤く、白い首筋を縁取る。
その色の対比が、闇の中で彼の顔立ちをいっそう際立たせていた。
その下には黒いインナー。
鍛え上げられた体にぴたりと張り付き、
そこには複雑に交差するベルトがいくつも巻かれている。
各種の道具や武器、用途不明の装置がそこに固定され、
銀白の腹部装甲には幾筋もの擦り傷――致命の一撃を防いだ痕跡が刻まれていた。
腰には完璧な配置で鞘やポーチが並び、
どんな道具も一瞬で手に取れるように整えられている。
漆黒の髪は肩まで垂れ、月光を映すように青みを帯びている。
深く、鋭く、冷たいその瞳は、
見る者の本能に「退け」と命じる刃のようだった。
叫ぶことも、威嚇することもない。
ただ一歩踏み出すだけで、周囲の空間が圧縮されていくような圧迫感があった。
背には一本の長剣が革帯で斜めに固定されている。
純銀の刀身は清らかに輝くが、その縁は赤く染まり、
まるで幾度となく血を吸ってきたかのようだった。
腰にはさらに小型の武器や金属器具が並び、
その一つ一つが死の匂いを漂わせている。
紹介など必要ない。
一目見ればわかる――この男は、一度刃を抜けば決して生かしてはおかない類の人間だ。
セシリアは重心を落とし、剣先をまっすぐ彼に向けた。
「お前が……セオドアの言っていた忌々しいNGって奴なら――今すぐ斬る。」
男はくつくつと笑う。
「もしそうじゃなかったら? 君は僕を斬らないのかい?」
「それは……お前の目的次第だ。」
セシリアは剣を下ろさないまま、視線だけで周囲を探る。
男は答えず、ベルトから一本のメスを取り出した。
銀色の刃が、薄暗い光を反射して冷たく光る。
彼はそれを軽く指先で弄び、幾度も回転させてみせた。
まるで挑発するかのように。
セシリアが動きを読むより早く、
メスは放たれた。
残光だけを残し、銀の閃光が一直線に彼女へと走る。
反射的に剣を構え、火花が散った。
甲高い金属音がこだまし、刃は宙を舞う。
男は踏み込み、一瞬の隙を突いて空中で柄を掴み取った。
口元に不気味な笑みが浮かぶ。
そのまま振り下ろされた一閃――白銀の軌跡が空を裂いた。
セシリアは咄嗟に受け止めたが、腕が裂け、赤い筋が走る。
地面に着地した瞬間、彼女は異変に気づく。
周囲の景色が、空間そのものが――消えていた。
闇が濃く凝縮し、光は僅かに自分の足元を照らすだけ。
まるで透明な檻の中に閉じ込められたかのようだった。
息が荒くなる。
視線を走らせても、気配がない。
――その時、背後から殺気。
反射的に振り返り、剣を構える。
鋭い金属音。
黒い烏の羽がはらはらと舞い落ち、男の姿を形作っていく。
すぐ横に現れた男は、歪んだ笑みを浮かべながら、もう一本のメスを引き抜き――
その刃をセシリアの背に突き立てた。
深くは刺さらなかったが、温かい血が流れ出す。
セシリアは即座に反撃した。
全力の一閃。
剣が空を裂き、爆ぜた風圧が周囲の瓦礫を吹き飛ばす。
男の身体が宙を舞い、廃墟の壁に叩きつけられた。
地面が砕け、亀裂が走る。
男は口端から血を垂らしながらも、笑みを絶やさなかった。
ゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払う。
その視線は終始セシリアを捉えたままだ。
手の中でメスを弄びながら、彼は軽い口調で言った。
「どうやら君は――僕の友人が言っていた“ランク4の雑魚”じゃなさそうだね。」




