第50話
嵐の中にそびえ立つ城壁のような男――
その姿から物語は始まる。
彼の名は、テオドール・マルシャン(Théodore Marchand)。
生まれも育ちも、そして人生のすべてを――
小さな村、**タツマキ村(Tatsumaki)**を守ることに捧げてきた男である。
彼には特別な能力など一切なかった。
だがそれでも、彼の戦闘力値は247,000。
多くの能力者ですら届かぬほどの数字だった。
その隣を歩くのは、若い青年――ジュリアン・ロシュフォール(Julien Rochefort)、二十九歳。
彼もまた、生まれながらの村人である。
能力ランクはD、戦闘力144,000。
決して最強ではない。
しかし、数え切れぬ戦場を生き抜いてきた彼の“決意”は、何よりも強靭だった。
そのとき、テオドールの足がふと止まった。
彼の視線が、ひとりの若者に向けられる。
「……お前、もしかして――新聞に載っていた“十一名”のひとりか?」
低く、しわがれた声が響いた。
問いかけられた**ゾア(Zoah)**は一瞬、動きを止める。
彼には、何のことか見当もつかなかった。
学園内の情報は内部掲示板でしか公開されないはず――そう信じていたからだ。
その沈黙を破るように、**アユミ(Ayumi)**が静かに口を開いた。
「……学園の掲示板に載る情報は、確かに内部向けよ。
でも、忘れないで。あれは世界中に広がるの。
新聞でも、私たちが使っている携帯端末でも――発信できるのよ。」
彼女の言葉が描き出したのは、この時代の現実だった。
滅亡後の世界――
外の生存者たちは、もはや“スマートデバイス”をほとんど扱えない。
学園生ですら、配布される携帯端末には最低限の機能しかない。
情報閲覧と位置確認。それだけだ。
だからこそ、**アコウ(Akou)**のように本を読む者が多い。
電子の画面よりも、紙に刻まれた文字のほうが確かだからだ。
外の世界では、さらに過酷だった。
デバイスを持つ者などほとんどおらず、
彼らが頼れるのは、わずかに配られる“印刷された新聞”だけ。
それも安全圏でしか手に入らず、
辺境に生きる者たちは、自分たちで印刷し、運び、命を懸けて情報を共有していた。
ゾアは理解し、静かにうなずいた。
「……そうか。
俺は今、学園一年の中で第4位だ。
ランクS、戦闘力は438,000。」
その数値を聞いた瞬間、テオドールもジュリアンも目を見開いた。
空気が震え、テオドールの拳が自然と握られる。
だが、その口元には確かな“希望”の笑みが浮かんでいた。
「……ついに来たか。
本物の“強者”が……」
ゾアは眉をひそめ、問い返した。
「ここには……そんなに強い人が来ないのか?」
テオドールの表情が引き締まる。
「――村へ戻る途中で、すべて話そう。」
タツマキ村。
その名は、今は亡き一人の女性の名に由来する。
初代村長――テオドールの母、タツマキ。
この村は、彼女の代から二世代を経て、今も地上に残り続けている。
場所は特殊だった。
新人には危険すぎる。
だが、熟練者にとっては“退屈すぎる”。
――その曖昧な立地のせいで、誰も寄りつかない。
たまに自信過剰な若者がやってくる。
だが、彼らは例外なく命を落とした。
村は、巨大な地下鉄の駅跡に築かれている。
駅の中央には、天井を突き破るほどの古木が立っていた。
それを中心に家々が並び、人々は共に暮らしていた。
初代タツマキがこの場所を“拠点”に選んだのは偶然だった。
安全な居住地を確保し、いずれ学園が正式に保護区域として認めてくれる――
そう信じていた。
だが、時間だけが過ぎた。
誰も来ない。
やがて、**自由なNG**たちがこの地下に棲みつく。
人類とNGの間で領土争いが始まった。
結果は――痛み分け。
どちらも壊滅せず、ただ共に生き延びた。
NGたちはより深い地層へと潜り、人類はその上で暮らし続けた。
戦える者が減る中で、村人たちは男たちに武器を持たせた。
地の底から現れる敵に対抗するために。
終わりのない戦いが始まる。
誰も勝てず、誰も負けないまま、年月だけが流れた。
二十年が経ち、タツマキは息を引き取った。
次の村長となったのは、テオドールの親友、オリヴィエ・ブランシェ(Olivier Blanchet)。
彼は強く、賢く、そして誰よりも人々に愛された。
だが、ある悲劇が彼の命を奪った。
死の間際、オリヴィエはひとり息子をテオドールに託し、
同時に“村長”の座を譲った。
その頃、学園からの支援を二十年も待ち続けていたが――
届いたのは、力なき若者ばかり。
彼らは戦場に立てず、次々と倒れていった。
さらに二十年。
希望は、とうに失われていた。
そして今。
ゾアが現れた。
まるで奇跡のように。
――タツマキ村に再び“光”が差す。
しかし同時に、冷酷な現実も露わになる。
この“平和的文明”には、救えない領域がある。
学園も、国家も、すべての場所を守れるわけではない。
放置された土地は、やがてS級危険区域へと変貌する。
当初ランクBだった今回の任務も、
いつの間にかランクA、そして――今やSランクへと昇格していた。
原因はひとつ。
この地に現れた、未知のNG。
その力は、既知の枠を超えた存在――
評価値、B級を凌駕する怪物だった。
任務の等級について――一年生にとって、S級とは極めて危険な任務を意味する。
だが、同じ任務であっても上級生の掲示板に掲載される場合、学院はその年度の平均的な実力を基準にして難易度を再調整する。
つまり、ゾアにとってはS級であっても、熟練の学生にとってはB級、あるいはC級に相当する可能性もあるのだ。
《スカイ・ストライカー》の階級制度は、最低のFから最高位のEXまでに分かれている。
高難度任務を達成した者には、それに見合った報酬と待遇が与えられる。
そして当然ながら、その功績は偽装も否定もできない。
なぜなら、ある地域がスカイ・ストライカーの管理下に組み込まれる際、学院は必ず**《区域の柱》を設置するからだ。
この柱は、その場所で起きたすべての出来事――映像、会話、行動――を記録する機能を持つ。
それは人類の技術ではなく、この世界そのものに組み込まれた特別な仕組み。
元をたどれば、それはNGの女王**が世界に与えた“祝福”の一部とされている。
女王は《区域の柱》を通じて、あらゆる大地の“過去”を呼び覚ますことができるのだ。
誰であっても《区域の柱》を召喚することは可能だ。
しかし、もしそれを他国の領土内で行えば、柱同士が干渉し合い、**《赤の信号》**を発する――すなわち、領土侵犯の警告である。
その瞬間、領有国は即座に奪還部隊を派遣し、対応を迫られる。
もし放置すれば、その土地の支配権は完全に失われ、そこで記録された全データは敵対勢力の手に渡ることになる。
もちろん、NGの女王の真の力は依然として謎に包まれている。
《区域の柱》の仕組みなど、彼女が世界の均衡を保つために与えた“受動的な力”にすぎない。
――さて、任務の本題に戻ろう。
ゾアはここに来て、ただ柱を立てるだけでは済まされない。
柱を“起動”させるためには、この地域に存在するすべての住民の身元が正規に認証されなければならない。
つまり、現在この地に潜むすべてのNGを殲滅するか、あるいは排除する必要があるということだ。
その上で初めて、柱はスカイ・ストライカーの支配権を確立し、全記録を学院へ送信する。
状況を理解したゾアは、村人たちを助け、任務を完遂することを決意した。
そして彼は尋ねた――最近現れた新たなNGのことを。
その存在はB級以上と推定されている。
セオドアの話によれば、この地にはもともと五体の“NGの首領”がいた。
彼らは強力ではあるが、村は何とか持ちこたえてきた。
だが最近、六体目のNGが現れたという。
その力は、他の五体をはるかに凌駕していた。
そいつは**“汚染変異”を操る力**を持ち、人間を殺して同族へと変え、巨大な軍勢を作り上げることができる。
その存在こそが、村タツマキの危機を決定的なものとしたのだ。
外から流れ着いた者たちは、一時的に身を寄せることはあっても、長居する者はいない。
誰もが理解している――このままでは、いずれタツマキは呑み込まれる。
六体目の姿を実際に見た者はいないが、その噂はすでに周辺一帯に広がっていた。
では、五体の首領たちはどうか。
彼らもまた強大だが、絶対的な存在ではない。
完全に討ち倒すことは今なお不可能とされている。
――それでも、セオドアは信じていた。
ゾアの力があれば、今回はきっと勝てると。
— 「もう一つ、大事なことがある。」
セオドアが口を開いた。
「君たちが来る一日前に、ひとりの少女と少年がここへやってきた。彼らは無数の汚染変異体を倒したんだ。そして――君たちを迎えに行けと、私に伝えたのは彼らだ。」
その言葉を聞いた瞬間、ゾアの脳裏に、登録リストで見た二つの名前がよぎった。
まさか、彼らが先に現地入りしていたとは。
一緒の飛行機で来るものだと、当然のように思っていたのに。
場面は暗い地下室へと切り替わる。
そこでは、NGたちが薄暗い焚き火の周りに集まっていた。
— 「どうせまた、使い物にならん奴らを送り込んできたんだろ?」
低く響く声が、火の粉の中に落ちた。
光がわずかに照らしたその男の筋肉は岩のように隆起し、顔は闇の中に沈んでいる。
部屋の隅では、フレデリック・ウェインライトが包帯を巻きながら、先の激戦で負った傷を確かめていた。
— 「いや……今回は少し違う。面白くなりそうだ。」
その時、一人の影がゆっくりと立ち上がった。
白銀の髪を後ろで束ねた大柄な男――セオドアの言っていた第六のNGだ。
堂々とした体格、冷たい笑み。
— 「この力があれば、誰であろうと俺に喰われる運命だ。」
フレデリックはため息をつき、手元の新聞を放り投げた。
— 「天の上には、また天がある。驕るな。俺が遭遇した奴は、あいつらの中でも“トップ4”だ。」
新聞の紙面に映るゾアの名と戦闘力の記録を見た瞬間、
白銀の男は愉快そうに笑い声をあげた。
— 「上等じゃないか。敵が強ければ強いほど、戦いは面白くなる。」
そして、映像はセシリアの姿で止まる。
枯れ葉が舞う街道の上、彼女はひとり静かに立っていた。
晩秋の風が足元で小さな渦を巻き、
手にした銀の剣が、灰色の空を映して淡く光を返す。
まるで冷たい鋼に閉じ込められた月光の欠片のようだった。
その視線の先には――巨大な駅の門があった。
時の流れと自然に侵食された古びた建造物。
蔦が錆びた鉄柱を覆い、樹の根が石畳を割り、
深く刻まれた亀裂はまるで過去の傷痕のように走っている。
内部からは暗闇が口を開き、底知れぬ奈落へと誘う冷気が、衣の隙間をすり抜けていった。
セシリアは静かに剣の柄を握り直す。
吐息が白く霞み、決意を宿した瞳が暗闇を射抜く。
風の音、枯葉の囁き、そして彼女の鼓動――
世界に残された音はそれだけだった。
— 「この最初の任務……」
短く瞼を閉じ、再び開いたその瞳は、夜に灯る炎のように強く輝いていた。
— 「……どうなるかしら。」
そう呟くと、彼女は一歩を踏み出した。
その小さな背中は、やがて静寂と闇に呑まれ、
忘れ去られた駅の奥へと消えていった。




