第49話
高空から、ゾアは投げ出されるように降下した。
そして地面に足が触れたその瞬間、彼の視界に広がったのは――まるで時に忘れ去られた古代の絵画のような光景だった。
自然に呑み込まれ、崩れ落ちた壮大な遺跡。
かつて賑わっていた街並みは、今や緑の苔に覆われた絨毯の上に、ひび割れた傷跡として残るのみ。
一歩踏み出すたび、湿った柔らかな苔が靴底を包み込み、古い土の匂いを静かに立ち上らせた。
錆びた街灯は疲れ果てたように傾き、その歪な影をシダの茂みに落とす――まるで時の刻印が、都市の肌に深く刻まれているかのように。
見上げれば、崩壊した建物の窓枠には無数の蔦が絡みつき、まるで自然がそれらを抱き締め、そしてゆっくりと人の痕跡を消し去っていくようだった。
冷たい風が、朽ちた煉瓦の隙間をすり抜け、湿った空気とともに淡い香りを運んでくる。
それは、石の割れ目に根を下ろした小さな野花の匂い。
かつて車輪の軋む音、人々の喧騒が響いていたこの場所には、今や遠くの鳥の声と、風に揺れる葉のざわめきだけが残っている。
それはまるで、長い眠りについた世界の囁きのようだった。
崩れ落ちた屋根の隙間から、夕陽が差し込み、苔と石、そして時の埃を優しく照らす。
それは、最後に残された記憶の欠片のように、儚くも温かい光景だった。
――この場所がいつから放棄されたのか、誰も知らない。
ただ一つ確かなのは、自然は気長に、確実に、決して止まることなく、かつて自分のものであったすべてを取り戻していったということ。
彼らが降り立ったのは、人影のない荒れ果てた地。
吹き抜ける風が廃墟の隙間を通り抜け、低い唸りを上げる。
夜明けを迎えたばかりの空には、薄い霧が街角や崩れた屋根を覆い、白く漂っていた。
吐く息が白く染まるほどの冷気。
この地域は極めて厳しい気候で知られており、ゾアとアユミは最も暖かい装備で任務に臨んでいた。
二人の装いは、黒と白――対照的でありながらも統一されたデザインだった。
撥水性のある軽い生地のロングコート。胴体と袖は深い黒で、フードと縁取りは純白。
その明確なコントラストが、鋭い線のように際立つ。
コートの下には立ち襟の白いシャツ。一直線に並んだ暗色のボタンと、胸元に垂れる細い銀灰色の装飾紐。
脚には黒のスラックスがぴたりと馴染み、白地に黒の縁を持つスニーカーが軽快な印象を与えつつも、戦闘に適した動きを保っていた。
ゾアの瞳は鋭く、まるで世界の隅々まで見透かすよう。
その歩みは静かでありながら、底知れぬ危険を孕んでいる。
アユミは肩までの髪を風に揺らし、毅然としたまなざしを前へと向けていた。
その表情は冷静で、どこか誇り高い光を宿している。
二人が並び立つ姿は、まるで双剣――相反する色を纏いながらも、見事に調和する一対の刃。
その存在感は、通りすがる誰もが振り返るほどに際立っていた。
未知の大地を踏みしめながら、ゾアの胸には抑えきれない感情が渦巻いていた。
それは新鮮な好奇心と、微かな不安が入り混じったもの。
彼にとって、これが初めての「外の世界」だった――生の気配が、記憶の中にしか存在しない場所。
「……外って、こんなふうになってるんだな。あの巨大な建造物は、一体なんなんだ?」
ゾアの声には好奇と警戒が混じっていた。
「いつ建てられたのかは分からない。少なくとも、私たちが知る時代よりもずっと昔……。
詳しいことは、私も知らないの。」
アユミは周囲を見回しながら答えた。その目は一瞬も油断を許さない。
会話を交わしながらも、二人の体勢には一切の隙がなかった。
いつでも戦闘に移れるよう、緊張の糸を張り詰めたまま。
任務を受ける前、ゾアは警告を受けていた――
ここは文明の加護が及ばぬ地。
以前の試験のように、学徒同士が競うだけの安全な舞台ではない。
ここでは、「人知を超えた存在」と遭遇する可能性がある。
わずかな油断すら、命取りになるのだ。
廃墟の静寂に包まれたその時――
突如として、空気が裂けた。
背後の闇を切り裂き、赤い閃光が疾走する。
振り返る間もなく、一人の少年が飛び込んできた。
炎のような赤髪に、光を反射する二本の角――鹿のように滑らかな曲線を描くそれが、朝の淡い光に煌めいていた。
次の瞬間には、彼はゾアとアユミのすぐ背後に立っていた。
異質な気配を感じ取り、ゾアの目が鋭く光る。
「速いな……。歩き出して数歩で、もう厄介事か。」
彼の胸から、剣が稲妻のように飛び出す。
空を切り裂く軌跡は黒い炎となって迸り、周囲を焼き尽くす勢いで燃え上がった。
熱波が爆ぜ、敵へと襲いかかる。
しかし相手も即座に反応した。
鋼鉄の籠手を纏った拳が光を放ち、圧縮された力が解き放たれる。
激突の瞬間、轟音が空を震わせた。
衝撃波が草木を薙ぎ払い、苔むした廃墟の庭を嵐のように吹き飛ばす。
土煙の中、二人は互いに相対したまま動かない。
視線が交わり、驚きと興味が混ざり合う。
「その角……」ゾアが息を呑んだ。
少年は軽く跳び退き、唇の端を吊り上げる。
それは嘲笑と挑発が入り混じった笑みだった。
「どうした? NGを見るのは初めてか?」
その言葉で、ゾアは悟った。
――目の前の存在は、人間ではない。
人間の多くは黒髪で生まれる。
時に金や赤もあるが、それ以上に鮮やかな色は滅多にない――特殊な能力に影響された場合を除いては。
だが、**NG**は違った。
彼らの髪は、炎のように燃える赤でも、深淵のような黒でも、どんな色にもなり得る。
この世の理に縛られることなく、生まれながらにして「異なる存在」だった。
さらに、彼らは人間にはありえない特徴を持つ。
長い耳――まるで伝承に語られるエルフのように。
誇り高く反る角、あるいは柔らかな獣の耳。
それらはどれも、決して人間には持ち得ぬ印だった。
すべてのNGがそうした外見を持つわけではない。
だが一つだけ、否定できぬ真実があった。
――彼らは、美しい。
人間にとって容姿の良し悪しは偶然に過ぎない。
だがNGにおいては、それは生まれながらの「前提」だった。
化粧も、整形も必要ない。
彼らの顔立ちは、神が手ずから彫り上げたように整っている。
それは、人類にとってあまりにも残酷な不公平。
まさに、「頂点に立つ種」であることの証明だった。
ゾアの胸に熱がこみ上げる。
しかしそれは恐怖ではなかった。
むしろ――戦意に燃える高揚だった。
「やってやろうじゃないか、NG!」
挑戦の言葉と同時に、ゾアは再び駆け出した。
漆黒の炎が剣を包み、空気を焼き裂く。
軌跡は円を描き、赤紫の光を帯びた黒炎が空間を切り裂いた。
赤髪の少年――角を持つそのNGも、負けじと前へ躍り出る。
鋼鉄の籠手を嵌めた両拳を打ち合わせ、金属音が鳴り響く。
それはまるで、戦の鐘。
距離が一瞬で消える。
剣と拳が何度もぶつかり合い、甲高い衝突音と爆発音が交錯する。
火花が飛び散り、光と炎が交じり合う。
廃墟の中が、一瞬だけ生き返ったかのように輝いた。
ゾアの一撃は正確で、まるで空間そのものに線を刻むようだった。
壁には焦げ跡が一直線に走り、寸分の狂いもない。
一方、NGの拳は大気を圧縮し、殴るたびに衝撃波を生む。
古い石畳の上に積もった埃が吹き飛び、廃墟の空気を震わせた。
アユミは一歩後ろで、目を見開きながら二人の動きを追った。
その速さと威力に、息を飲む。
介入したくても、追いきれない。
ただ、胸の鼓動がどんどん速くなっていくのを感じていた。
その瞬間、静寂は完全に破られた。
剣と拳が奏でる金属音。
光と熱が交錯する戦場。
あまりに美しく、あまりに残酷な戦いだった。
――そして、ついに名が明かされる。
彼の名は、フレデリック・ウェインライト。
十八歳。能力ランクC。
戦闘力評価値は、十八万。
「強いな……これで十八万ってのか?」
ゾアが息を吐きながら言う。
「“これで”って何よ!? 十八万よ!? 十分すごいでしょ!」
アユミが思わず叫ぶ。
この数値は、人類のシステムが過去の戦闘記録を基に算出したものだ。
だが今、目の前のフレデリックは、その枠を超えようとしている。
戦闘中に能力を発揮すれば、数値はいくらでも上がる――それを、彼らは知っていた。
戦いは、まだ始まったばかりだ。
ゾアが再び剣を握り直そうとしたその時――
背後から、重く圧し掛かるような圧力が降りかかった。
分厚い手が、肩を掴む。
その力は尋常ではなく、ゾアの身体が思わず後退するほどだった。
振り返ると、そこに立っていたのは――
巨躯の男。
身長一九三センチ。
鍛え上げられた筋肉は鋼のように固く、肌は戦場の太陽に焼けて褐色に染まっている。
長い黒髪を後ろで束ね、無精髭が顎を覆っていた。
その風貌には古風な貴族の面影すらあるが、着ているものはボロボロ。
破れた濃茶のズボン、擦り切れた上着。
まるで幾百の戦場を渡り歩いてきた兵士のようだった。
ゾアが問いを発するよりも早く、男は地面を蹴った。
その動きは矢のように鋭く、空気が裂ける音が響く。
短剣が閃き、空を切る。
爆発のような音が轟いた瞬間、周囲の廃墟が震えた。
地面が割れ、建物が崩れ落ちる。
フレデリックの身体が吹き飛び、石畳の上を転がる。
遠くで、低い唸り声が響いた。
やがて、闇の中から異形の影が現れる。
それはもはや純粋なNGではなかった。
――汚染変異体。
漆黒の装甲のような皮膚。
緑の瞳に血管のような赤い線が走り、口の奥から鋭い牙が覗く。
理性など欠片もなく、ただ破壊本能のままに突進してくる。
敵も味方も関係ない。
目に映るものすべてを、引き裂くまで。
男の黒髪が風に舞い上がる。
次の瞬間、彼は刀を構え、嵐のように動いた。
その剣技は――力強く、そして、美しかった。
一閃ごとに空気が震え、壁が切り裂かれ、地面に深い線を刻む。
雷鳴のような音が鳴り、斬られた汚染体は悲鳴を上げる間もなく両断される。
血が噴き出し、赤い雨となって地面を染めた。
ゾアとアユミは、ただ立ち尽くした。
その速さ、その威圧感――彼らの知るどんな戦士とも異なる。
男の背後で、重い足音が響く。
闇の中から、さらに巨大な個体が姿を現した。
人間の倍はある体躯。
「後ろだ!」ゾアが叫ぶ。
だが男が振り向く前に、別の影が飛び出した。
若い青年――同じような装備を身に着け、手には長槍を握っている。
彼の突きは凄まじく、空間を貫く勢いで怪物を吹き飛ばした。
巨体が建物に激突し、崩れ落ちる。
粉塵の中から、再び吠え声。
大剣のような腕が横薙ぎに振るわれ、風圧が煙を吹き飛ばす。
そして――再び衝突。
男は短剣を操り、死角を突くように動いた。
積み重ねた戦場の経験が、一太刀ごとに凝縮されている。
対する怪物は、ただ力任せに暴れる。
地面が揺れ、瓦礫が跳ねる。
数分後――戦いは終わった。
怪物の全身には無数の斬撃痕が刻まれ、血が滝のように流れ落ちる。
巨体が崩れ落ち、地面を震わせながら沈黙した。
ゾアとアユミは、言葉を失ったまま立ち尽くす。
男は剣を軽く振り、刃に付いた血を払う。
そして、ゆっくりと振り向いた。
氷のように冷たい瞳。
低く、重い声が響く。
「……お前たち、スカイ・ストライカーの訓練生だな?」




