プロローグ 『氷床を駆ける天使』1
――巨大な氷を削るような摩擦音が足元から響き、鋭く加速度を増していくゴーという音が遠くへと向かって離れていく。
――爽快に氷の上を滑り続け、観客の期待に応えるように優雅に踊り、満面の笑顔を心地よく浮かべ、氷床から跳躍してスピンの掛かった回転を決める。
――音楽は鳴り続け、息つく間もなく天を舞い、空を切って華麗に二回転をして着地を決めた。
迷い一つない完璧なパフォーマンス。高いジャンプから寸分の狂いもなく着地を果たしたと同時、カーテンコールされたように瞳が開いた。低めに設定された空調温度。スケートリンクという大きなフィールドの上で一人、踊り切ったスケーターに対して贈られる盛大な拍手喝采。
化粧を施した瞼をぱっちりさせて明るいスケートリンクを見つめる。心を鎮め瞳を閉じてイメージトレーニングをしている間にライバルの出番がまた一人終わっていたようだった。
2056年、オリンピック出場を目指して氷床の上を踊る私、中学三年生の夕陽千歳は初めて全日本フィギュアスケート選手権の舞台へと上がった。
これまでに輝かしい功績を果たしてきたシニア選手を含む中、私は前半のSPを六位、66.22点の好成績で乗り切り、後半のFSまで踊る機会を得た。
FSの滑走順はSPの順位に基づいて決定される。そのため、ショート六位と上位に位置する私が滑るのは最終組に割り当てられている。初めてこの舞台に挑戦する身としてはテレビの前で憧れを抱いて応援していた実力者達と同じ組で滑ることは信じられないくらい光栄な思いだ。
胸の高鳴りを抑えながら広大なスケートリンクを見つめる。隣に座るコーチが緊張を和らげようと肩をトントンと叩く。
こんな機会はそう訪れるものではない。
この大舞台、失敗をする姿は見たくない。
最高の演技を見せて欲しいと、私に期待を寄せている事が嫌でも分かった。
――あの日見た、オリンピックの舞台に立ちたい。たった一つ、その夢を叶えるために私は生きてきた。
四歳からスケートを始め、小学六年生で全日本ノービス選手権A優勝を果たした時に掲げたこの目標は今も変わっていない。夢の為なら何でも捨てることが出来た。少しの時間も無駄にしてはいけないと、痛みを堪えて沢山努力を続けて来た。
お父さんやお母さん、コーチも応援してくれている。
ここで全力を尽くさない訳にはいかない事は十分に分かっていた。
「来年からは高校生。中学生で出れる全日本はこれが最後よ。精一杯、力を出し尽くして楽しんでいらっしゃい。千歳、貴方にとっての青春はフィギュアスケートなんだから」
コーチの濱口紅羽さんが想像以上に緊張していた私の背中を押してくれる。
熱の入った練習は厳しいけれど、誰よりも今、私を支えてくれている人。
濱口さんは私が所属するクラブ、 lycéeフィギュアスケートクラブの設立者で振付師も担当してくれている名コーチ。幾多の名選手のコーチを歴任してきた信頼おける人物だ。
「いつもの笑顔で観客を楽しませておいで。君がリンクの上に立つ姿を皆が心待ちにしているよ」
同じく隣に座る濱口さんの息子さん、三十代前半と若い濱口銀河コーチも優しく声を掛けてくれる。二人が私のコーチを務めてくれているのは期待の表れでもある。だから私は、振り向くことのないよう顔を上げて笑顔を浮かべた。
「いつも支えて下さってありがとうございます。こんな夢みたいな舞台にまで上げてくれて……感謝の気持ちしかないです」
「気にしなくていいのよ。今は目の前のスケートに集中なさい」
「はい、いつも思っている事です。一生の思い出になるスケートにしようって。だって、こんな綺麗な衣装で踊ることが出来るんですから」
沈黙は緊張の元になる。気持ちを前に出して感謝の想いを伝える。そうする事で少しでも多く勇気が湧いてくるような気がした。
私がFSで選んだプログラムはチャイコフスキーのバレエ組曲『白鳥の湖』、まさに王道と言える定番のプログラムだ。
馴染み深い美しいメロディーに乗せて私は真っ白なカーペットの上を舞い踊る。この白を基調に黒を織り交ぜたまさに白鳥のように無垢可憐なドレス衣装で。
私の特徴は長い手足と柔らかい筋肉が備わっていることで、幼い頃からトレーニングを積んできたことで恵まれた体格をしている。それは両親共に運動好きだったことが遺伝子レベルで影響しているのかもしれない。
見た目に関しては同年代に比べて大人っぽいと言われることがあるが、気にした事はない。
それよりも私はスケーティングをする上で表現力を大事にしている。選んだ曲に対する理解度も大事になって来るため、表現力は重要で演技構成点にも関わって来る。
フィギュアスケートの得点は、技術点と演技構成点の合計点で競われる。
技術点はジャンプやスピン、ステップなどの難易度に応じた技術要素を評価した得点。それぞれの要素には基礎点があるが、出来栄えによって点数は増減する。
演技構成点はプログラム全体を評価する得点でスケーティング技術、技と技の繋ぎ、演技力、構成力、音楽の解釈の五項目があり十点満点ある。また衣装もこの演技構成点に影響があり、選んだ曲の世界観にマッチしているかなど影響を与える要素にもなっている。
単純に高難度の技を決めれば高い点数を得られるというわけではない。
プログラム全体を通した出来栄えが重要視され、それ以外の構成の部分も疎かには出来ないことが、フィギュアスケートの奥深さであると思う。
それに大会などの出場機会は年間通しても限られる。無理なプログラムを構成して失敗してしまえばこれまでの努力は無駄になってしまう。気持ちの余裕が持てるような構成を考え、練習を重ねていくことが何よりも大事な事だと教えられてきた。
最終組だからとゆっくりと構えていたら、気付けば出番が迫っていた。
もちろんここまで来たら、表彰台を目指して踊り切るだけだけど、緊張感は嫌でも襲ってくる。私は何とかお腹をさすって堪えた。
次々に披露される、惚れてしまいそうなほどに美しいプログラム。
息遣いが聞こえそうな程、近くで著名なスケーターが自信に満ちた表情で躍動している。
まだ中学生の私が割り込んで、とてもこの後にスケートリンクに向かうなんて実感はなかった。
リストの麗しいメロディーに寄り添った、優雅がスケーティングが終わる。
「愛の夢」のプログラムを滑り切った美しい紫色の衣装に身を包んだスケーターが笑顔で手を振ってスケートリンクから上がっていく。
見惚れている余裕はない、次は私の出番だ……私はいよいよ始まるのだと思い、胸に手を当てた。
氷床の上にスケート靴で上がり、アナウンスがされるまで濱口コーチの話を聞きながら表情を柔らかくさせて大きく頷く。この繋いだ手を離した時、私の運命が回り始める。
私は今という時間を大切にしようと気持ちを落ち着かせた。
――十九番、夕陽千歳さん。リセフィギュアスケートクラブ。
アナウンスで呼び出されると同時、私は恩師の手を離した。
夢を与えられたものにだけ降り注ぐ試練。
私は大願を胸に真っ白な氷のリンクに映える美しい衣装で駆け出した。