【第8話】受験勉強
それは一二月に入って間もない頃だった。三ツ谷が学校に遅刻してきたのだ。朝のホームルームの時間になっても、登校してこなかったことに、能勢はたとえわずかでもただならぬ気配を感じずにはいられない。
そのまま朝のホームルームも終わり、能勢はどこか不安を抱えたまま一時限目の授業を迎えてしまう。そして、三ツ谷はその途中に教室にやってきた。息を切らして駆け込んできていて、かなり急いで来たことを能勢は察する。教科担当の先生に軽く謝ると、「後で職員室にも行くように」と言われ、三ツ谷はようやく席に着いていた。
能勢はどうして三ツ谷が遅刻したのか気になったが、それでも二人の席は離れていたので、授業中にわざわざ訊きに行くことはできない。
だから、能勢は先生の目を盗んで、机の下でスマートフォンを操作し、三ツ谷に「どうしたんだよ?」というラインを送る。すると、三ツ谷も同じように先生にバレないように、「わりぃ、寝坊した」と返信してくる。
その返事に能勢はどこか安心しながらも、それでもまだ気がかりな感じは消えない。
三ツ谷が今まで学校に遅刻してきたことは、一度もなかった。今日に限っていったいどうしたのだろう。
でも、能勢はその訳を今は訊けなかった。これ以上ラインのやり取りを続けていたら、先生にバレて三ツ谷がさらに怒られかねない。それだけはどうしても避けたかった。
「で、お前、今日どうしたんだよ。寝坊したって。今までそんなことなかったじゃんか」
二時限目も終わって昼食休憩に入ると、能勢はさっそく自分の昼食を持って、三ツ谷の席に向かっていた。席に着くやいなや、朝から気になっていたことを訊いてみる。
すると、三ツ谷は自分の弁当を開きながら、申し訳なさそうな顔をした。
「わりぃ。いや、一回起きはしたんだけど、今日は両親ともに早くてさ。だから、まだ大丈夫だと思って二度寝してたら、つい寝すぎちまった。心配かけてすまなかったな」
「いや、正直俺には何の影響も出てないからいいんだけどさ。それでも、朝ライン送っただろ。それには返してほしかったぜ」
「それもわりぃ。寝坊するのも初めてだったから、とにかく焦ってたんだ。『今向かってる』の一言でも返せればよかったのにな。本当にすまん」
「そっか。それなら別にいいんだけど、でも今日どうかしたのか? もしかして体調が優れなくて、それでも無理して来たんじゃねぇだろうな」
「ああ、心配してくれてありがとな。でも、別にそういうわけじゃないから。むしろ、その逆だよ」
「逆?」
能勢がそこまで言うと、二人は既にそれぞれの弁当を開いていたので、三ツ谷が「食べていいか?」というような目線を送ってくる。能勢も頷いて、二人はそれぞれの弁当を食べ始める。能勢も「食わずに話せよ」というほど、三ツ谷を責めたくはなかった。
「ああ、むしろ昨日はなんか調子がよくってさ。部活で疲れてるはずなのに、なぜだか全然眠くならなかったんだ。だから、眠くなるまで勉強しててさ。それでようやく寝れたのが、朝の四時って感じだったんだよ」
「そうだったのか。それは大変だったな」
「いやいや、全然大丈夫だよ。今はむしろ眠気もまったくないし、まあこれ食ったらまた眠くなって、授業中に寝ちゃうかもだけど」
「そっか。でも、ほどほどにしとけよ。体調とか悪くなったら、すぐに保健室に行っていいんだからな」
「ああ、ありがとな。でも、俺は大丈夫だから。それに勉強もしなきゃって思ってたから、むしろちょうどよかったよ」
三ツ谷は今回の事態もポジティブに捉えているようだったけれど、それでも能勢は三ツ谷のことを慮らずにはいられない。三ツ谷には何においても頑張りすぎるところがあったからだ。
「そっか。でも、あまり無理しすぎるなよ。お前、部活だってまだやってんだろ。その上で受験勉強もやってんだから。ちゃんと寝れるときには寝といた方がいいぜ」
「気遣ってくれてありがとな。でも、俺はそんなぐーすか寝てらんねぇよ。だって、今の志望校に行くにはまだまだ学力が足りてねぇからな。もっと勉強して偏差値上げてかねぇと」
「いや、それは分かるし、俺もそうなんだけどさ、でも根詰めすぎて具合悪くなったりしたら、元も子もないじゃんか。別にまだ受験までには一年以上あるんだから、今の段階でそこまで焦る必要なんてなくねぇか?」
「そりゃお前の言うことも分かるんだけどさ、それでも俺が今の志望校に合格するには、今よりもっと頑張んなきゃいけねぇんだよな。俺は三年の夏まで部活をやるつもりだし、その間は塾にも行けないことを考えると、今のうちから頑張っといた方がいいだろ」
「……もしかして、お前そこまでこの前の模試の判定、悪かったのか?」
「ああ、D判定だったよ。DifficultのD。今のままじゃ合格は難しいって出たよ」
「そっか……。お前が行こうとしてるのって、確か国公立だよな?」
「ああ。英文学科を受けるつもりだよ。そこ偏差値が六〇くらいあってさ、なかなか大変だよ」
「……あのさ、こんなこと言われたくないかもしれないけどさ、無理してその大学受ける必要ないんじゃないか? 英文学科なんて他にいくらでもあるし、もっと手の届く大学を受けることも考えてもいいと思うんだけど……」
能勢にとってそれは、最大限三ツ谷のことを思っての提案だった。三ツ谷が無理に無理を重ねる姿は見たくないと。
それでも、能勢がそう言った瞬間、三ツ谷はあからさまに眉間に皺を寄せていた。表情にも苦味が覗いていて、能勢は少し焦ってしまう。
「……お前も、タニセンと同じこと言うんだな」
「いや、別にそういうわけじゃ……」
「いいよ。俺だって分かってるから。今の俺の学力で外大の英文学科は難しいってことは。でもさ、だからといってそれは諦める理由にはならないだろ。もちろん滑り止めに私立も受けるつもりだけど、それでも俺は外大に行きたいんだよ。だって、外大なだけあって留学の制度も充実してるし、講師もネイティブスピーカーが多い。そういう環境に、俺は行きたいんだけどな」
「わりぃ。言わなくてもいいこと言っちまった」
「だから、いいよ。お前が俺のことを思って言ってくれてるのは分かってるし。でも、また来週からの三者面談で同じようなことを言われるだろうから、それをお前の口からは聞きたくなかっただけ。お前だって、その志望校は無理だって言われたら嫌だろ?」
「そうだな、すまん。ちょっと想像力が足りてなかったわ」
「だろ? だから、俺はこれからもっと勉強を頑張らなきゃいけないんだよ。自分の行きたい進路に行くためにも」
三ツ谷はきっぱりと断言していて、立派だと能勢も思う。部活と勉強を今以上の密度で両立しようとしている三ツ谷を応援したいと。はっきりと感じる。
それでも、能勢の心には少し不安が覗いてしまう。まさかそんなわけはないと思いつつも、能勢はそれを訊かずにはいられない。
「……なぁ、お前、これからも俺と一緒にいてくれるよな? 休み時間になったらこうやって一緒に喋ってくれたり、休みの日は一緒に遊んだりしてくれるよな?」
能勢がそう訊くと、三ツ谷は小さく笑っていた。でも、能勢にはその三ツ谷の笑みの意味がいまいち掴めず、慮る目はやめられない。
「大丈夫だよ。そんな心配しなくても、これからも俺はお前と話すし、予定が合ったら、また俺ん家でゲームしたりしようぜ。今のとこは、俺もまだ少し余裕あるから」
「……今のとこは?」
「まあ、そりゃな。だって先のことなんて、今はまだ何とも言えねぇだろ。次の、そのまた次の模試でも判定ヤバいってなったら、俺は今以上に勉強しなきゃいけなくなるわけだし。もちろん、そうならないように今のうちから努力はするけど、それはお前だってそうだろ? 来年になったら塾とか行かなきゃいけなくなるかもしれねぇし、そうなったらお互いなかなか予定合わなくなるかもな」
三ツ谷が口にした未来は、能勢にとっても十分想像できるものだった。能勢だって、今の志望校に確実に合格する保証はない。
受験勉強が原因で少し疎遠になってしまうことを想像すると、能勢はしょげてしまいそうにもなる。いくらか気楽なままでいられる今の状況が、ずっと続けばいいのにと思う。
「海音、そんな暗い顔すんなよ。そうならないためにもさ、お互い少しずつ受験勉強頑張ってこうぜ。三年になっても一緒に遊ぶことができるように」
「ああ、そうだな」と答えながらも、能勢は一〇〇パーセント明るい未来を想像できない。来年になればお互い受験勉強にかかりきりになる。そのときに自分たちがなんてことのないような顔で会えるかどうか、能勢には確証が持てなかった。
昼食を食べながら、三ツ谷はそれからも取り留めのない話を振ってくる。能勢も何食わぬ顔して答えようとしたが、心には暗雲が垂れ込み始めていた。
(続く)