【第1話】cafe coudre
能勢海音の胸は高鳴っていた。
ガラス窓の向こうでは、既に何人かの人が集まって会話を弾ませている。そして、そのなかに男性の姿は見られない。やはり自分がここに来るのは場違いだったのではないかと、速まる鼓動に感じてしまう。
だけれど、自分は決意を固めて、わざわざ最寄り駅から三駅離れたこの場所に来たのだ。能勢は思い切ってドアを引く。そのドアにはcafe coudreと書かれていた。
「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席にお座りください」
暖かみのある茶色でまとめられ、明るい照明が開放感を醸し出す店内に入った能勢に、店員と思しき女性が話しかけてくる。水色のエプロン姿をしたその女性に、能勢は今日来た用件を伝える。
「あの、ワークショップに参加しに来たんですけど」
能勢がそう言うと、女性はさらに表情を華やがせた。
「そうですか! お名前の方をよろしいですか?」
「あの、能勢です」
「能勢さんですね! 承っています! では、もうすぐ始まりますので、どうぞあちらのテーブル席にお座りください!」
女性が手で指し示したのは、店内の奥にある六人掛けの長方形のテーブルだった。既に四人の年齢も様々な女性が座っていて、雑談をしている。
そこに近づくのは少し思い切りがいったが、それでも能勢はテーブルの一番端の席に座った。簡単に挨拶をして、能勢はテーブルの上を見やる。
そこには青い毛糸と、先がフックのように丸まった金属製の棒が置かれていた。他の参加者のもとにも、毛糸の色は違うが同じセットが置かれている。
能勢が「これをどう使うのだろう」と思っていると、店員の女性がテーブルの前にやってくる。その女性は能勢たち参加者を見回すと、はきはきした声で喋り出していた。
「それでは、皆さん。時間になりましたので始めさせていただきます」
参加者全員が、女性の方を向く。女性は微笑んだままで続けた。
「改めまして、今日はcafe coudre主催のワークショップ『初めての編み物教室』にお越しいただきありがとうございます。私、今回の講師を務めさせていただきます宇高と申します。皆さん、よろしくお願いします」
恭しく頭を下げた宇高に、能勢たちも続く。いよいよ始まったワークショップに、能勢は緊張していることを自覚する。
「それではさっそく編み物の基礎である、かぎ針編みを始めていきましょう。まずは皆さんの手元にある道具の説明をさせていただきますね」
能勢たちはそれぞれ気持ち姿勢を正して、宇高の説明を聞く。テーブルに置かれているフックのついた棒は、そのまま「かぎ針」と言うらしい。その棒は一本しかなくて、編み物は二本の棒でするイメージがあった能勢は少し意外に思う。
でも、同じことを他の参加者も聞いていて、宇高が言うにはそれは「棒針編み」といって、また少し違うらしい。かぎ針編みにはとじ針やハサミも使うようだが、それはまた追い追い配られるようだ。
「それでは、皆さん。道具の説明も終わったことですし、さっそくかぎ針編みをやってみましょう。まずは毛糸を一五センチほど引き出してください」
ワークショップは講師を務める宇高の人柄もあったのか、和やかな雰囲気で始まっていた。
能勢たちは言われた通りに一五センチメートルほど毛糸を引き出すと、そこからは宇高の指示に従って、まず毛糸を小指と薬指で挟み、人差し指に引っかけると中指と親指で毛糸の先を持った。
能勢が初めて触る毛糸の感触は、思っていたよりもすべすべとしていて暖かみがあった。
「それでは、かぎ針編みを始めていきましょう。では、皆さん。まずはかぎ針の柄の部分を、鉛筆を持つように持ってください」
能勢は再び宇高の言う通りにする。手に持ってみると、かぎ針はその見た目以上に軽かった。
「では、続いてかぎ針編みのスタートとなる作り目を作ってみましょう。それでは、まずは糸を奥からひっかけて、手前に向けて一回転させてください」
宇高は実際に自分で実演してしてみせていて、それは能勢の席からもはっきりと見えた。能勢も宇高と同じことをしてみる。かぎ針をくるりと回す。
「では、次に糸が重なっている部分を持って、針を下から巻きつけてください。その糸をかぎ針に引っ掛けたまま引き抜くと、作り目が完成します。このとき、少しきつめに糸を締めることがポイントです」
宇高の手元を見てから、能勢もやってみる。糸を引き抜くと、確かに小さな一つの輪ができていた。他の四人も作り目を作られたところで、宇高は鷹揚に頷く。それは教えることに慣れているようでもあった。
「では、ここからかぎ針編みの基礎となる、くさり編みをやっていきましょう。と言ってもやり方はとても簡単です。今やったのと同じように、糸を下から巻きつけて、かぎ針に引っ掛けて作り目を通るように引き抜く。これだけです」
「では、皆さん。やってみてください」そう宇高に促されて、能勢たちはくさり編みに挑戦する。
宇高が見せたようにやってみると、能勢が軽く拍子抜けしてしまうくらいあっけなく、最初の編み目はできていた。本当に簡単で、宇高の言っていたことに嘘はなかったと感じられる。
「では、皆さん。同じようにして編み目を一〇個作ってください。このとき、少し緩めに編むのがポイントです」
店内の開放的な雰囲気もあり、能勢はいくらか気軽にかぎ針を動かすことができていた。少しずつ編み目が増えていくのを見るのは、物を作っている実感がダイレクトに味わえて、楽しささえ感じられる。
今まで編み物は未経験で、手先もそんなに器用な方ではないと能勢は自覚していたのだが、それでもここまではスムーズにできている。どうやらかぎ針編みは、初心者向きの編み方らしかった。
「皆さん、一〇個編めましたね。では、ここからは二段目、こま編みと呼ばれる段階に突入していきたいと思います。まずはもう一つ、くさり編みを編んでください」
言われた通りのことを能勢は行う。ここからどうするのだろうという興味も、自然と湧いた。
「では、皆さん。今作ったくさり編みをひっくり返してみてください。すると、裏面にぽこっと糸が出ているのが分かると思います。これを『裏山』と呼びますが、こま編みではこの裏山に糸を通していきます。では、皆さん。まずは端から数えて二つ目の裏山に、針を通してみてください。そうしたら今までと同じように下から糸を巻きつけて引き抜いて、針に輪っかを二つ作りましょう」
ここに来て少し工程が複雑になったと能勢は感じたが、それでも宇高は一人一人の様子を見ながら、難しそうにしている参加者にはアドバイスを送っていたから、それを聞くと能勢にもいくらか分かりやすく感じられる。ひとまず言われた通りに裏山に針を通して、輪っかを二つ作った。
「では、次はもう一度糸を下から巻きつけて、今度は二ついっぺんに引き抜いてください。これでこま編みひと面のできあがりです」
宇高の手際は分かりやすく、能勢としても同じようにするのに苦労はいらない。他の参加者もできたらしく、テーブルは一歩前に進んだ実感で占められた。
「では、同じような手順を辿って、今度はこま編みを一〇個作ってください。難しいよという方には、私の方からアドバイスをしますので、慌てずゆっくりでいいですよ」
能勢は宇高に言われた通り、焦ることなく落ち着いた手つきでこま編みを作っていく。
すると、どんどんと二段目はできあがっていき、たった二段でも能勢が意識するような編み物の形を取り始めた。手を動かしているといつの間にか心も和らいできていて、次の展開が能勢には楽しみになってくる。
他の参加者も手つきに差はあれど、こま編みを着実に進めていて、テーブルにはどこかワクワクする空気さえ漂い始めていた。
(続く)