第6話 飛ぶ者たちの矜持
昭和十一年春――呉の桜が咲き始める頃、慎也は海軍兵学校・3号生徒に進級した。
一年間の厳格な基礎教育と教練を経て、すでに“兵学校生徒”としての規律と誇りは身体に刻まれていた。だが、それはほんの入り口に過ぎなかった。二年目からは、より高度な軍事理論、戦術教育、艦艇知識が加わり、実地訓練の比重も格段に増していく。少年たちは、否応なしに“将来の士官”としての現実と責任を突きつけられていった。
慎也の一日は、夜明け前の起床から始まる。
「起床、総員起床――!」
号令とともに跳ね起き、整然とした動作で寝具を畳む。床に直角に折られた布団の角、並べられた靴、光沢ある制服。すべてに“完璧”が求められた。
「昨日より一秒でも早く、正確に。そうでなければ、生き残れん」
慎也の中で、その意識は年々強くなっていた。前世での死――それは、技量の差や装備の限界だけではない。判断の遅れ、戦況の読み違え、そして仲間との意思疎通の一瞬の齟齬が死を招くことを、身をもって知っているからだ。
午前は教室での講義が続く。数学、物理、航法、海軍史……兵学校の教育は文武両道どころか、極限まで高められた知性と肉体を求める。中でも慎也が最も集中したのは、「航空理論」だった。まだカリキュラムの一部に過ぎなかったが、航空兵科に進む者のための選抜基礎知識が織り込まれていた。
(これを完璧にすれば、次に繋がる)
彼の筆記は常に正確かつ速く、講義中に質問を受けても、即答できないことはなかった。教師も生徒も彼を「図抜けたやつ」と認識し始めていた。
だが、それは妬みを生むこともあった。
「なんだよ、あいつ。ひとりだけ得意げにして……」
「ああいうのが出世するんだよ。俺たちは“その他大勢”さ」
昼食後の短い自由時間、裏庭の陰でそんな声が交わされていた。
慎也はその空気に気づいていた。だが、気に留めなかった。
(気を緩めれば、次の戦争でまた、命を失うだけだ)
そんな孤独を救ったのは、同期の小田嶋春樹だった。物腰柔らかで、周囲との橋渡しも器用にこなす少年。成績は中の上、だが観察力に長けており、誰よりも人の心の機微に敏感だった。
「慎也、そんなに背負いすぎるなよ。誰もお前を責めちゃいない。ただ、ちょっと眩しいだけなんだ」
「……悪かった。俺には時間がないと思ってる」
「時間?」
「……いや、なんでもない」
小田嶋は慎也の秘密には踏み込まなかった。ただ、黙って彼の隣を歩いてくれた。
五月、兵学校の恒例である短艇訓練が始まった。十数キロに及ぶ手漕ぎの遠洋航行。筋肉と精神力を試す試練だった。
「右舷漕げ、左舷止め!」「舵、もっと入れ!」
波に抗いながら、少年たちは息を合わせて進む。慎也は班の指揮を任され、声を枯らして号令を飛ばした。
「合わせろ! ペースは俺が取る! 息切らすな、行ける!」
班員の中には途中で倒れかける者もいたが、慎也は一人ひとりの手を取って助けた。結果、班は全体で三位の好成績を収めた。
訓練後の夜、小田嶋が言った。
「慎也、お前、誰よりも兵学校にいる理由が強いよな。でも無理だけはするな。お前が壊れたら、困るやつがいる」
その「困るやつ」の中に、自分も含まれていることを、小田嶋は言わなかった。
秋。成績上位者だけが受けられる航空隊の説明会が開かれた。慎也は迷わず志願した。まだ正式な進路ではないが、次の一年、成績と適性によって航空科進学が許可される。
(絶対に、行く。今度こそ、誰かを救うために飛ぶ)
慎也の瞳は、かつて零戦の風を切ったその青年のそれに戻っていた。
この年の年末、呉は例年より冷え込みが厳しかった。訓練所の窓ガラスが白く曇る。夜、部屋に戻ると、誰からともなく語り出される未来の話。
「俺は戦艦に乗りたいな、長門とか。威風堂々ってやつだ」
「俺は潜水艦だ。敵の下をかいくぐるなんて、男の浪漫だろ」
「慎也は? 航空か?」
「……ああ。俺は空を守る。みんなの上を飛ぶよ」
誰かが笑い、誰かが感嘆し、誰かが黙ってうなずいた。
夜が更けていく中、慎也の心の中には、ひとつの映像が浮かんでいた。
――未来の空。見知った仲間が、下で手を振っている。自分はその上を飛び、守っている。あの時守れなかった命も、今度こそ――
「見てろよ……今度こそ、変えてみせる」
そう誓いながら、慎也は眠りについた。
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