第5話 蒼穹への門
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昭和十年四月。 桜が咲き誇る中、慎也は江田島に降り立った。 瀬戸内海に面した静かな島。だが、そこに建つ海軍兵学校の門の内側は、静けさとは程遠い、鋼鉄のような緊張感に包まれていた。
海軍兵学校——帝国海軍士官養成の最高学府。 全国から選び抜かれた秀才、体力自慢、将来を約束された子弟たちが集まるこの地に、慎也はついにたどり着いた。 彼の脳裏には、前世での記憶——太平洋戦争、零戦、仲間たちの死、そして己の死が、脈打つように甦っていた。
入校式の朝。制服に袖を通すと、慎也は思わず背筋を伸ばしていた。 新品の詰襟、真っ白な帽子、磨き上げられた革靴。それらすべてが、彼の覚悟と責任を問うていた。
「本日より、貴様らは、海軍士官を目指す練習生である!」 開式の辞が、講堂に響き渡る。 百数十名の新入生が一斉に直立不動となり、慎也もまた、敬礼の姿勢でその言葉を受け止めた。
その日から、地獄のような日々が始まった。
午前五時、起床ラッパとともに跳ね起き、三分以内に制服に着替え、布団を畳み、洗面を済ませる。遅れれば、その場で上級生から怒声と制裁が飛ぶ。 朝食はわずか十五分、食べる順序も箸の持ち方も厳密に決められており、食器の音を立てるだけで「だらしない」と叱責された。
授業は連日、八時間以上。 数学、物理、航海術、兵器学、戦術、英語、歴史、そして倫理。 特に数学と航海術は難解で、慎也の前世の知識をもってしても油断できない内容だった。
「相沢練習生、艦の傾斜角度と復原力の関係を述べよ!」 教官の指名に即答しなければ、立たされたまま授業を受け続ける。 「ハッ、傾斜角に応じた復原モーメントが……!」 慎也は、口をついて出るように答えるが、その背後では何人もの同期が冷や汗をかき、筆記に追われていた。
午後は体力錬成と称する訓練が続く。 長距離走、懸垂、腕立て、カッター訓練。 カッターとは、手漕ぎのボートだ。十二人の練習生が一糸乱れず漕がねばならず、リズムが崩れれば即座に叱責され、やり直しを命じられる。
五月、江田島の陽射しが強まる頃には、慎也の手はすでに血豆だらけだった。 塩水がしみ、激痛が走る。それでも、オールを手放すことは許されなかった。
上級生の指導は苛烈を極めた。 兵学校では「教育」とは言わず、「指導」と呼ぶ。 それはすなわち、理不尽な上下関係を通しての精神鍛錬であり、肉体と言葉による人格の再構築だった。
「貴様、貴様、歩き方がなっとらん!」 「目を逸らすな! 士官は敵の砲火からも目を逸らさんのだ!」
食事中の姿勢、返事の声量、敬礼の角度に至るまで、一挙手一投足が見張られ、叱責される。ミスをすれば個人ではなく班全体が連帯責任を負う。
だが慎也は、一度も反発しなかった。 むしろ、前世の記憶が彼を冷静にさせていた。 (これは……必要な鍛錬だ。甘えた心を捨てろ)
そんな慎也に、次第に同期生たちが寄り添い始める。
「おい慎也、お前、なんでそんなに冷静なんだよ」 「昔、親父にしごかれててな。……まあ、慣れだよ」 慎也は笑ってごまかした。
彼は、周囲に対して過度に干渉しない。だが困っている者がいれば、必ず手を差し伸べた。 遠泳で苦しむ仲間に泳ぎのコツを教え、航海術の授業でつまづいた者には自作のメモを見せた。
「……助かったよ」 「恩に着る」
言葉数は多くなかったが、確かな信頼が芽生えていった。
夏——遠泳訓練が始まった。 江田島の海を一キロ以上泳ぐ。流れが早く、波も高い。 「泳げなければ死ぬ。艦が沈んでも生き延びろ。それが海軍士官だ!」 教官の怒号のもと、慎也は何の迷いもなく海へ飛び込んだ。 冷たい水、重い制服。それでも彼は迷いなく前を向いて泳ぎ切った。
秋——初めての実地航海が始まる。 小型の練習艦で、瀬戸内海を数日間航行する。 当直、操舵、整備、航海日誌の記録。 狭い艦内での集団生活は息苦しく、疲労は蓄積する。 だがその中でも、慎也は冷静さを失わなかった。
夜、甲板で風に吹かれながら星空を見上げた。 (俺はまた、空へ戻る……必ず)
誰にも言えない決意を胸に秘めて、彼はその瞳を蒼穹へと向けた。
こうして、昭和十年。 十五歳の慎也は、帝国海軍兵学校練習生として、第一学年の一年を終えようとしていた。 地獄のような日々の中、少しずつ、確かに彼は鍛えられ、未来への礎を築いていたのだった。
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