第25話 赤城へ
昭和十六年三月——。
漢口の空はすでに春の気配を帯び始めていたが、戦地の空は、常に張り詰めた硝煙と緊張に包まれていた。川沿いの滑走路に立つ若き士官、相澤慎也中尉は、空を見上げていた。彼の背後には、半年にわたって生活の拠点となった飛行場の格納庫があり、整備兵たちの声が飛び交っていた。
「相澤中尉、発令来ましたよ」
通信士が駆け寄ってきて、一枚の電報を差し出した。そこには、こう記されていた。
「内令第一〇七号:相澤慎也 海軍中尉ヲ以テ 赤城艦上航空隊ニ配ス」
その瞬間、慎也は言葉を失った。
(……来たか)
空母赤城——帝国海軍の象徴であり、第一航空戦隊の中核を成す巨艦。その艦載機隊に配属されることは、海軍航空士官としての最高の栄誉である。夢に見た「最前線」。だが、喜びよりも先に、慎也の胸に去来したのは、仲間との別れ、そして新たなる死地への緊張だった。
漢口を離れる数日前、慎也は隊長室で佐々木少佐と向き合っていた。漢口航空隊の実戦指揮官であり、慎也にとっては実質的な上官であり、空の師だった。
「よくやった、相澤。貴様の戦果と操縦技術は本部でも話題になっている。赤城は貴様を必要としている。それは誇っていい」
「ありがとうございます」
「だが、赤城は訓練の場ではない。航空戦隊の矢面だ。そこの空は、漢口以上に苛烈だぞ」
慎也は深く頭を下げた。
「心得ております。命令とあらば、どこへでも参ります」
佐々木はわずかに目を細めた。
「……今夜は少し羽を伸ばせ。貴様のような若者が、明日を背負うんだ」
そう言って、ウイスキーの瓶を棚から取り出した。
漢口最後の夜。慎也は隊の仲間たちとささやかな送別の宴を開いた。高津、松川、久我といった飛行隊の同期たちが、名残惜しそうに酒を酌み交わしてくる。
「赤城かよ、相澤。出世コースじゃねえか」
「生きて戻ってこいよ。俺たちは、ここでお前の武勲を聞くことになるんだろうな」
酔いの回った松川がそう言い、笑うが、どこかに一抹の不安がにじんでいた。皆、分かっているのだ。赤城に行くということは、やがて本土ではなく、遥か太平洋を相手にする最前線の一員となることを。
慎也は笑って酒を仰いだ。
「皆のおかげで、ここまで来れた。赤城での戦いも、お前たちの分まで戦う」
そうして、漢口の夜は静かに更けていった。
三月十七日。慎也は漢口飛行場を飛び立ち、上海を経由して呉へと向かった。そこから横須賀、そして横須賀軍港で初めてその艦影を見たとき——彼の鼓動は一瞬、止まるかと思った。
(……これが、赤城か)
巨大な飛行甲板。鋼鉄の艦橋。まるで島のような艦体が、静かに海に浮かんでいる。それはまさに「空飛ぶ要塞」だった。かつて海軍兵学校の書庫で写真で見た「赤城」は、眼前のこの巨艦とはまったく異なって見えた。写真では伝わらぬ威容と迫力。これが、帝国海軍の牙だった。
艦上で迎えてくれたのは、艦載機隊の副長・福山大尉だった。
「相澤中尉か。ようこそ赤城へ。お前の戦歴は聞いている。腕の立つ男らしいな」
「いえ、まだまだ未熟者です」
「ここには、“未熟”なんて言葉は通用しない。配属された以上は、即戦力だ。分かったな?」
「……はい!」
赤城の空気は、漢口とは異なる。厳格で、しかし緊張感と期待が渦巻く、不思議な熱があった。飛行甲板では、艦載機の整備が忙しく進められており、零戦の整備士たちが互いに号令を飛ばし合っていた。
配属初日、慎也は隊の任務行動表を受け取り、自室に戻った。そこで彼は一つの重大な記述に目を留めた。
【昭和十六年十二月:機動部隊演習計画あり】
(十二月……まさか)
何かが動こうとしている。
航空戦隊が、赤城が、演習という名の“準備”を始めていた。慎也の胸に、一つの予感があった。これまでの戦争とは桁違いの、大きな戦いが来るのではないか、と。
だが、その不安と同時に、どこか心が震えている自分に気づいた。
(これが俺の空。俺が守る空だ)
赤城の飛行甲板の端に立ち、慎也は空を見上げた。雲一つない太平洋の青空が、無限に広がっている。その空の向こうに、仲間が、そして未来が待っている。
——第一航空戦隊・航空母艦赤城、発艦準備よし。
若き空の戦士、相澤慎也は、いまその翼を広げようとしていた。




