第22話「黄河の空にて——漢口前線、初陣の前夜」
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昭和十五年三月下旬。漢口飛行場。
地平線まで続く赤土の大地。冬の寒気がわずかに残るも、昼間には陽光が容赦なく照りつけ、霞んだ空気の中に油の匂いと汗が混ざる。
九六式艦上戦闘機が並ぶ格納庫。整備兵たちの怒声、燃料の匂い、カンカンと金属を叩く音。そこには訓練所の整然とした空気など微塵もなかった。
「貴様も、まずはこれを読んでおけ」
戦闘航空隊の副隊長・沢井中尉が無造作に投げて寄こしたのは、簡素な紙束だった。手書きの報告書、敵機目撃記録、撃墜記録、そして戦死者名簿。
「……これが、日々の現実か」
慎也は思わず眉をしかめた。書面に綴られた無数の名前と、時刻、座標、最期の通信。
「戦場では記録が命を繋ぐ。敵の癖、味方の配置、全部だ。教本よりよほど役に立つ」
沢井中尉の口調は重い。そこには、「生き残った者」だけが持つ独特の間合いがあった。
翌朝、午前六時。滑走路には既に濃密な油煙が漂っていた。
「索敵飛行だ。敵情不明につき、十分注意せよ」
慎也の初任務が告げられた。随伴するのは沢井中尉と、もう一人の若い中尉だった。三機編隊で、長江北岸に展開する国民党軍の補給路を偵察する。
(いよいよ、か)
エンジン始動の震動が全身に伝わる。慎也はかすかに震える指で操縦桿を握りしめ、深く息を吐いた。四発の機銃と予備燃料タンクを搭載した九六艦戦が、滑走路を吠えるように走る。
重力を振り切る瞬間、世界が一変する。
眼下に漢口の市街地が広がり、長江の流れが蜿蜒と輝く。その向こうに、無数の対空砲が待ち構える前線が広がっていた。
「相澤、方位130、高度3000、敵補給列車が通る時間だ。先行せよ」
無線から沢井中尉の声が届く。慎也は静かに操縦桿を切り、指定の方角へ機体を傾ける。
やがて、遠方に黒い煙を上げる列車が見えた。慎也はごくりと喉を鳴らす。
(撃つのか……いや、索敵任務だ。だが、この距離なら……)
無線で確認を取るよりも早く、上空から中尉の機が急降下していく。
「……っ!」
続いて沢井中尉が旋回し、援護に回る。
(命令は索敵のみ、だが——)
慎也は咄嗟に高度を上げ、全体の俯瞰を取った。地上からは対空射撃。敵歩兵が銃を構える。
「見えたぞ、敵の小隊が列車の両側に散開している!」
冷静な判断と報告が求められる。撃つか、離脱するか。だがその時——
「相澤、貴様の上空に敵戦闘機!」
「了解!」
警告と同時に機体を傾け、右旋回。機銃の音が空を裂く。敵機は古びたイ式戦闘機だった。正面から撃ってくるが、精度が低い。慎也は反転上昇し、逆光を背に一気に背後を取る。
前世で幾度となく繰り返した、あの追尾の感覚。
「……甘い!」
照準が重なる一瞬。機銃を引く。敵機の右翼に命中、煙が噴き出し、機体が傾き失速していく。
だが、撃墜は確認できなかった。
「相澤、戻るぞ!」
「了解!」
初の実戦、初の交戦。そして初めての——葛藤。
撃てば落ちる。落ちれば、死ぬ。だが、撃たなければ、仲間が死ぬ。
格納庫に戻った慎也は、無言で機体を降りた。整備員が駆け寄る中、彼の視線は空に向いていた。
「お前、……敵を落としたのか?」
沢井中尉が尋ねる。慎也は首を横に振った。
「……わかりません。でも、引かせました」
中尉は黙って頷いた。
「最初から“落とす”より、“帰ってこられる”方がずっと価値がある」
その夜、テントの外では蛙の声が聞こえていた。
慎也は、寝袋の中で独り天井を見上げる。
(これは戦争だ。だが、ただの殺し合いじゃない。……仲間の命を守る、空の上の誓いだ)
あの空を、また明日も飛ばねばならない。
そう思いながら、慎也は静かに目を閉じた。
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