第10話 練習航海・洋上編――灰色の艦と、蒼い海
前話の話数が間違っていたので修正しました。
大日本帝国海軍練習艦隊の一員として、慎也は世界一周の旅の前半を終え、次なる目的地インド洋を前に広大な海へと身を投じていた。彼の日常は、寄港地での外交や文化との出会い以上に、圧倒的に長い「海上生活」で埋め尽くされていた。
灰色に塗られた艦の上では、時間がまるで止まっているかのようだった。空と海だけが景色であり、時に穏やかに、時に荒れ狂う波が、彼らの精神を鍛えていく。
慎也の一日は、午前五時の起床から始まる。まだ薄暗い中、点呼の号令が響き、候補生たちは整列する。顔を洗い、艦内の掃除を行い、簡素な朝食をとると、すぐに午前の訓練が始まる。航海術、信号通信、測的、砲術、天測……すべてが実戦を想定した内容だった。
彼が特に苦労したのは、天測航法だった。六分儀を手に、揺れる甲板で太陽や星の高度を測定するのは至難の業だった。先任士官からの叱咤と自分自身への苛立ちに耐えながら、慎也は繰り返し観測を試みた。
「慎也、今日の誤差は……1海里以内だ。少しは様になってきたな」
「ありがとうございます、上等兵曹殿」
苦手だった分野を克服しつつあったある日、航行中の艦が突然スコールに巻き込まれた。横殴りの雨と風に、艦が大きく揺れる。候補生たちは慌てず整然と持ち場につき、慎也も操艦指示の伝達係として甲板に立った。雷鳴と波しぶきの中、彼は冷静に号令を復唱し続けた。終わったあと、上官から「落ち着いていたな」と声をかけられた。
その夜、士官室で同輩たちと酒精の少し混じったコーヒーを啜りながら、彼はぽつりと漏らした。
「……前の俺なら、パニックになってたかもしれない」
「ふん、元から肝が据わってるんだろうさ」
その一言に、慎也は少しだけ笑った。彼は変わりつつあった。
洋上生活は、肉体的な鍛錬だけではなかった。夜間の自由時間には講義が行われ、戦史や戦術、海軍精神についての講話が続く。特に印象深かったのは、ある老練な大佐による講義だった。
「諸君。海軍士官はただの兵ではない。国家の意思を体現する外交官であり、文化の担い手でもある。寄港地では行儀良くするのは当然だが、それ以上に必要なのは“自覚”だ」
慎也は、彼の言葉を日誌に書き留めた。
《己が軍人である前に、日本人であれ。そして、日本人である前に、人間であれ》
日々の訓練と講義、そして過酷な海の生活は、候補生たちを急速に成長させていった。最初は上官の顔色を伺い、手探りで動いていた慎也も、今では自発的に後輩や仲間を助け、艦内の秩序を保つことを心がけるようになっていた。
船の航跡が海を切り裂いて進む。その白い泡の尾が、彼らの足跡を描いていく。
ある日、士官候補生の間でこんな話題が持ち上がった。
「もし戦争になったら、俺たちは真っ先に最前線だろうな」
「その時は覚悟を決めるだけさ。逃げ場なんてない」
慎也はその会話を黙って聞いていた。前世での死の記憶が、心の奥底でじわりと疼いていた。だが、彼は恐怖に飲まれることはなかった。むしろ、あの記憶が彼を支えていた。死と向き合う覚悟。それを持つ者こそ、真に人を守る資格があると信じていた。
季節は初夏を過ぎ、インド洋の波が緩やかになる頃、艦はアラビア海を越え、中東への寄港を目前にしていた。船の上では星空観測と砲術訓練が並行して行われ、候補生たちは疲労の中でも気力を振り絞って業務をこなしていた。
慎也はふと、空を仰いだ。満天の星が、あのマリアナの夜空と重なる。
「今度は……負けない」
そう呟いた声は、誰にも聞こえなかったが、海だけは静かにそれを受け止めた。
彼は士官になるための階段を、確かに登っていた。そしてその足元には、静かだが力強い決意の影が伸びていた。
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