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34話


「そうか、なるほどね。八丈島で《猿》の正体がわかって、飛んで帰ってきたというわけか」


 ICUの家族待合室で、伊勢崎が里桜に向かって小声でそう言うと、里桜は「はい」と同じく小声で答えてうなずいた。


 父親の遺体は所轄の警察に任せ、伊勢崎は母親に付き添って里桜たちとともに救急車に同乗し、病院までやって来ていた。


 現在、里桜の母親は緊急手術のためオペ室に入っている。結花は怪我がないか診察中。外来の受付はとっくに終わっていて、待合室にはほとんど人がいなかった。とはいえ、あまりおおっぴらに話せる内容でもない。二人の声は自然と小さくなっていた。


「──2席しか飛行機を確保できなかったので、森繁先生と志緒理さんには向こうで調査を続けてもらっています」


 里桜の言葉に、伊勢崎が大きくため息をつく。


「そうだったんだね。だけど…申し訳ない。ぼくがもっと早く来られていたら…」

「いえ、そんな…きっと、母だけでも助かると信じています」


 里桜がうつむいてそう言ったとき、ガラッと引き戸が開いて、結花が診察室から出てきた。すぐさま伊勢崎が立ち上がる。


「結花。大丈夫だったか」

「うん。なんともないって」


 結花が引きつった笑顔で言うと、伊勢崎は心底ホッとした表情を浮かべた。


 里桜の母親の手術はまだかかりそうだということだったので、結花たちはカフェテリアに移動することにした。

 ノートパソコンを開いたサラリーマン風の男性と読書をしている中年女性がいるほかは、誰もいない。BGMがかかっていないせいか、足音がやけに反響して聞こえた。


「すみません」


 伊勢崎がカウンターの店員に呼びかける。


「ぼくはアイスコーヒーで、こっちの二人にホットカフェラテをお願いします」

「え、いや、私はいいよ」

 結花は伊勢崎の後ろから声を上げた。

「私も、要りません」

 里桜もうなずく。

「あんなことがあったあとだし、落ち着けるとも思えないから…。お父さんだけ飲んだら?」

「いや、あんなことがあったあと、だからこそだよ」


 伊勢崎が結花と里桜を振り返って気遣うように笑顔を見せる。結花は店員からホットカフェラテを受け取って初めて、身体が冷え切っていたことに気づいた。

 カップから伝わる熱が指や手のひらに広がっていくにつれ、気持ちが柔らかくなっていく気がする。


「あったかい…」


 里桜も両手でカップを抱え込むようにしている。「ありがとう」結花がそう言うと、伊勢崎は「だろ」と得意げに頬を緩ませた。


 ***


「──それで、お父さんはどうして東京に?」


 結花がホットカフェラテに息を吹きかけながら尋ねると、伊勢崎はアイスコーヒーにストローを刺して、

「どう言えばいいか…。とりとめのない話になるかもしれないが」

 と答えた。

「あの動画を部下が見て、死んで…。父さんも見たところまでは話したよな」

「うん」

「あのあとな。動画サイトを捜査しようと思って、令状を取れないか上司に掛け合ったんだ。でも、ダメで」

「ダメ? どうして。人が死んでるのに?」

「ふつうはそう思うよな。父さんもそう思った。でも──」


 伊勢崎がズゾゾッとアイスコーヒーを一気に飲み干す。


「《猿》の奴らは、警察にも影響力を持ってたんだな。調べるのはまかりならん、と言われて…。ついカッとなった。もう警察は当てにならないから、別のやり方で捜査をしたんだ」

「別のやり方、ですか」


 里桜が相づちを打つ。


「ああ。昔馴染みのハッカーがいてね。そいつを頼った」

「それって、大丈夫なの」


 結花は心配そうに聞いた。


「大丈夫、じゃないな。でも命がかかってるんだ。くだらんメンツを気にしてはいられない。で、その結果…。動画をアップした場所は仮屋町の木手良という家だってことがわかった。と同時に、おまえの先輩の、野村くんのスマホも、どうやらその辺にあるらしいってこともわかった」

「祖父母の家…ですか」


 里桜が暗い顔でうつむく。


「まさか、お父さん…乗り込んだの?」

「乗り込んだよ。そしたら廊下は狭いし、部屋は多いし、迷路のようになっててな」

「あの辺りの家は、昔から増改築ばかりで 、そういう作りが多いんです」

「そうみたいだね。妙な雰囲気だった。一つ一つの部屋を確認していたら日が暮れると思ってね。思い切って野村くんの番号に電話をかけてみた。すると、どこからかバイブの音が聞こえてきた。音を頼りに進んで…ようやく野村くんのスマホを見つけた」

「放置、してあったんですか」

「ああ。もう用済みだったのかもしれないね。スマホはロックされてなかったから、ホームボタンを押したらすぐに開いた」


 ──そうだった。


 結花は里桜が話してくれた、先輩の最期を思い出した。


「それで、そのままアプリを開いて、問題の動画を削除した。たぶんどこかにバックアップされているだろうが、こうしないと野村くんが浮かばれない気がしてね」

「…ありがとうございます」


 里桜が小さな声でお礼を言う。


「…それから、さらに証拠を探して回った。そうしたら、どこからか話し声がしてね。見つかったらまずいと、引き返そうとした。でも…妙な言葉が聞こえて」

「妙な言葉って?」


 カフェラテを飲むのをすっかり忘れて、結花が前のめりになる。


「──裏切り者の居場所がわかった…って」

「裏切り者?」

「ああ。誰かと電話で話している様子でね。しばらく聞いていたら、住所を伝え始めたんだ」

「それが…うちだったんですね」


 哀しそうな目で里桜が尋ねる。


「そう。里桜ちゃんの住所は、結花から聞いていたからね。ご両親が裏切り者と呼ばれているのだということはピンときた。そうとなれば、放ってはおけないだろ。だから、飛んできたんだ」

「そういうことだったんだ…」


 結花はようやくカフェラテを一口だけ飲んだ。


「里桜ちゃん。さっきも言ったけど、気持ちをしっかり持つんだよ。ぼくたち家族にできることなら、なんでもするから。いいね」

「…はい」


 里桜が口をすぼめてうなずいたそのとき、伊勢崎のスマホが振動して着信を伝えた。


「はい、もしもし。はい」


 伊勢崎が低い声で相づちを繰り返す。そして最後に一言「わかりました。向かいます」と言うと、電話を切って里桜を見つめた。


「里桜ちゃん。お母さんの手術が終わったそうだ」


 里桜がハッと息をのむ。


「意識が戻ったらしい。よかったね」

「ママ…!」


 里桜の大きな目に涙が浮かんでいく。結花も泣きそうだった。


「それで…お母さんが、どうしても君と話したいと言っているみたいなんだ。話さなくてはいけないことがあると…。行けるかな」


 伊勢崎が優しくそう尋ねると、里桜は手で涙を拭って「行きます」とハッキリ答えた。

「…わかった。じゃあ、病室まで一緒に行こう」

「はい。でも…あたし一人じゃ、耐えられそうにありません。だから、お願いします。結花も…結花さんも一緒に、いいですか」

「それは、結花次第だよ。どうなんだい、結花」

 里桜と伊勢崎が同時に結花を見る。

 答えは、考えるまでもない。

「当たり前でしょ。友だちなんだから」


 ***


 病室に入ると、心拍を表すピ、ピ、ピという無機質な電子音が、まるで告白を促すカウントダウンのように聞こえていた。


「里桜…。あなたに…ずっと、秘密にしていたことが…あるの」


 酸素を供給する呼吸器の中で弱々しく口を動かして、里桜の母親が言った。


「もう知っていると思うけど…私の実家は《猿》なの…。いままで…黙っていてごめん」


 里桜の母親が、かすかに首を動かす。


「謝られたって…困るよ…。どうして…どうしてあんなことを…」

「きっかけは…あなたが生まれるより前…20年前のことよ…。私は…お父さんと出会った。お父さんは…奥山家は…仮屋町では《羊》と呼ばれていた…。それは、知ってるわね…」

「うん。《羊》は呪いを増幅させる術を使っていたんでしょ」

「呪いを、増幅?」


 結花が口を挟む。


「…うん。結花たちにはあえて言わなかったけど、あたしの家も仮屋町にある以上、当然干支で呼ばれていた。奥山家は《羊》で、やっていたことは呪いのパワーアップみたいなこと」

「それはたとえば、わら人形の効き目を増したり?」

「…そうね。他の家の手伝いというか補助をしていたと聞いているわ」


 ケホッと咳をして、里桜の母親が続ける。


「それまで…《猿》は…《猿》の縁者以外との婚姻を…認めなかった」

「それは、木手良が魔女であることと関係があるの?」

「ええ…。魔女の血を薄めれば…ヒイミさまが言うことを聞かなくなるから…」

「なら、奥山家と結婚したのは…どうして?」

「ある実験を…するため」

「実験?」

「…仮屋町の住人は…周囲から虐げられているでしょ…。《猿》の人々は、もうそれが耐えられなかった…。復讐をしようと考えて…それで…ヒイミさまを改造することにしたの…」

「改造?」

「そう…。私は、そのために奥山に嫁いだのよ…」


 結花は、話を聞いていてくらくらした。中世ならいざ知らず、たった20年前の日本にそんな婚姻があったなんて…。


「その結果…私たちはヒイミさまの呪いを強める方法を…知った」

「どんな方法だったの?」

「呪いの力を…強くするためには…その分、制約を付ける必要があるの…」

「制約?」

「そう。元々ヒイミさまは…直接見られなければ呪えなかった…。でも《見た者を呪い殺すのは1時間後》…という制約を与えたら…《写真や映像で見た者も呪える》ようになったの…」

「そんな…」

「それだけじゃない…。《仮面をかぶっている者は襲えない》…という制約も付けたわ…そうしたら…水のある場所なら…どこからでも現われるようになった。それまでは…鏡でしか呼び出せなかったのに…」


 ──なんなのだろう。この歪んだ発想は。


 結花は言葉を失っていた。世の中が憎くて復讐を考えたとしても、どうしてこんな方法しか思いつかないのだろう。


「実験は、成功したというわけですか」

 ドアにもたれかかっていた伊勢崎がポツリと言った。

「はい…」

 里桜の母親が、かすかに首を動かす。

「けれど…すぐにとんでもないことが…起こりました」

「とんでもないこと?」

「…ヒイミさまは…もともと、強い怨念を持っていました…。そこに、私たちの怨念も加わった…。呪いの力だけではなく…恨みまで増幅してしまったんです…。その結果…ヒイミさまは…暴走しました。24日になると…勝手に水辺から現れては…誰彼かまわず呪い殺すようになってしまった…」

「…そのとき元に戻そうという考えはなかったのですか」

「まったくなかった…。あのときの私たちは…いつかヒイミさまが、私たち以外の人間を呪い殺してくれると…信じて疑わなかった…」

「なんてバカなの!」


 里桜が吐き捨てるように叫んだ。


「ママとパパがそんなことに加担していたなんて、あたし…信じたくない!」

「そうよね…。私たちは、大バカだった。でも、それに気づかせてくれたのが…里桜。あなたなのよ」

「…え?」

「ヒイミさまを改造してから3年後…あなたを身ごもった。お腹の中であなたが成長するにつれ…私たちは…親として…あなたの未来を守る義務があると…気づかされた」


 里桜の母親の目から涙がこぼれる。


「それから、私と奥山は…実験を中止して、ヒイミさまを元に戻すように…何度も提案したわ…。でも《猿》は…木手良の者たちは…復讐することに囚われていた…。私たちは…他の家に助けを求めた…。でも、ヒイミさまを止めることは…できなかった…。ほとんどの家が死んで…ついに私たちにも危険が及んで…逃げて…もう…止められなかった」

「そんなことない。止められたはずよ!」


 里桜が叫ぶ。


「だって、あたしたち知っているのよ! 島で、手鏡をヒイミさまに見せたら、破裂していなくなった! 呪いは解ける。そうでしょ?」

「そうですよ」


 結花がうなずいて、続ける。


「いままでに呪われた人全員に鏡を使うように伝えられれば──」

「無理なの…」


 里桜の母親が、弱々しく首を横に振る。


「鏡は…確かにヒイミさまの呪いを…解くわ。けれど…どんな鏡でもいいわけじゃないの…。木手良の魔力が…こもった鏡でなければ」


 ──そういうことか。


 結花は思わず声に出してそう言った。


 ──私たちが持っている鏡は、里桜の父親にもらったものだった。


 それに、そうだ。私がヒイミさまに襲われたとき…。確かヒイミさまはお風呂場から出てきて…。


 私は、脱衣所の近くにいた…。もし、どんな鏡でもいいなら…。近くにあった鏡台に、ヒイミさまが反応していないとおかしい。


「…私たちは、あの町を出るとき、木手良の鏡を…すべて持ってきたの。それがなければ…いくら《猿》でも、ヒイミさまを好きにはできないから…」

「だから、裏切り者なのか」


 伊勢崎が納得したようにつぶやく。


「家にあった手鏡が割られていたのも、そういう理由なのね…」


 拳をギュッと握って、里桜が下唇を噛んだ。


 そのときだった。

 どこからか、ぷうん、と魚が腐ったような臭いが漂ってきた。

 そして…。


 コ、コ、コ…


 喉を潰したような音。その場にいる誰もが、廊下の方を振り返った。


 ──来る。あいつが来る。だけど…。


 結花はベッド脇に置いたリュックに手を伸ばした。


 ──もう逃げるだけの私たちじゃない。


 結花は、すぅっと息を吸って、リュックの中から手鏡を取りだした。


 コ、コ、コ…


 喉の奥から絞り出したような音が近づいてくる。

 と同時に、ぬかるみを歩いているみたいな、びしゃっ、びしゃっという音も聞こえてきた。

 結花が手鏡を右手で構えながら、左手で仮面を頭からかぶる。


「お父さん、仮面は持っているよね」


 早口でそう聞くと、緊張した口調で伊勢崎が「ああ」と答えた。そしてお祭りで買うようなプラスチック製のキャラクターマスクをバッグから取り出して、ゴムを頭に回していく。


「里桜は準備いい?」


 結花がベッドの方を振り返ると、里桜はすでに仮面をつけていた。


「こっちは、心配しないで」


 言いながら母親にも仮面をつける。

 両親が襲われて大変なときだというのに、少しも無駄のない動きだった。長年ヒイミさまの呪いと隣り合わせで生きてきたことで、身体に染みついているのだろう。

 結花はキッと部屋の出口を振り向いて、手鏡を持つ手に力をこめた。


 コ、コ、コ…ココココ…


 ドアのすぐ外で、音がした。


 ──来るなら、来い。

 結花がゴクリとつばを飲み込んだ、そのときだった。


 ──ブチンッ


 伊勢崎のかぶったお面のゴムが切れた。


「あっ」


 病室の床に、はらりとお面が落ちる。

 その直後、部屋の空気が一変した。

 凍り付くような寒さ。

 思わず身体を震わせた瞬間、洗面台の蛇口から水が勢いよく流れ出た。


「…来るっ」


 里桜の母親が叫ぶが早いか、洗面台の水が、こんもりと山のようにふくれあがった。


 ザバァァァッ


 盛り上がった水が、バケツをひっくり返したように一気に落下する。その中にヒイミさまが立っていた。


「お父さん、仮面!」


 結花は叫んだ。しかし時すでに遅し。伊勢崎は身動きが取れない。


「ぐ…くそ…」


 ヒイミさまが、2本の腕を伊勢崎に伸ばした。

 伊勢崎の腕が、勝手に持ち上がっていく。


「ダメ…ダメよ、そんなの!」


 結花が右手の手鏡を、ぐいっとヒイミさまに向けた。


「消えて! お願い!」


 ──志緒理さんのときのように。

 しかし、結花の願いむなしく、ヒイミさまは目のない顔でケタケタ笑いながら、やはり2本の腕を伸ばし続けた。


「…どうして? どうしてよ!」

 結花はもう一度手鏡をヒイミさまに向けた。

 ところが、ヒイミさまにはなんの変化も見られない。

「うそ…やだ!」


 ――このままだと、お父さんが死んじゃう!


 パニックになりかけた結花の肩を、里桜がつかんだ。

「結花、あたしがやる」

 言うが早いか、里桜がぐいっと歩み出て手鏡をヒイミさまにかざした。

「さあ、自分で自分を呪いなさい!」

 するとどういうわけか、ヒイミさまの動きが止まった。


 ──グゲエェッ


 苦悶の声を上げて、ヒイミさまが風船のようにふくらんでいく。


「おおっ、おお…」


 伊勢崎が身体の自由を取り戻して膝をついた。


「お父さん!」


 結花が伊勢崎に駆け寄る。

 その瞬間。


 ──バチンッ


 ヒイミさまが破裂して、赤黒い液体が四散した。病室の天井や壁はもちろん、結花や里桜、伊勢崎の全身にも液体が付着する。


 鼻が曲がりそうな悪臭だった。

 結花が「うっ」と顔を背ける。

 ややあって、液体は細かい霧となって蒸発していった。と同時に、悪臭もなくなっていく。


「…消えた、のか? 呪いが」


 伊勢崎が首を押さえながら言う。


「た、たぶん」


 蒸発していく液体を見つめながら結花が答える。


「でも、どうして…」


 ──鏡なら、私も使ったのに。


「あたしじゃないとダメなのね」

 仮面を外しながら、里桜がつぶやいた。

「え?」

「きっと、ヒイミさまを消せるのは、木手良の血を持つ者だけなのよ」

「そうよ…里桜」

 里桜の母親がベッドで身体をよじる。

「伝える前に…あいつが来てしまったから、言いそびれたけれど…よく気づけたわね」

「ママ、じっとしてて」


 里桜が母親の仮面も取り去る。


「八丈島で志緒理さんを助けたときは必死で気づかなかったけど、いま、結花が鏡を使ったのを見て、もしかしてと思ったの。助けられて良かった…」

「本当に、ありがとう」

 伊勢崎が立ち上がって頭を下げる。それから床に落ちたキャラクターのお面を拾い上げて、「もっとちゃんとした仮面を用意するべきだった」とため息をついた。

「でも、これでお父さんの呪いは解けたんだよね?」

 結花が自分の仮面を外してリュックにしまう。

「ええ…」

 ベッドの上で里桜の母親がうなずく。

「あなたの呪いは解けました」

「そうか…」


 伊勢崎が嬉しいような嬉しくないような、複雑な表情を浮かべる。


「お父さん、嬉しくないの」

「いや…。おまえの呪いはまだ解けていないんだろ。それじゃあ、な」

「ああ、うん…」

 確かにそうだ。私は次に襲われるまで、いまのところ呪いを解く方法はないのだ。

 結花がリュックを持つ手に力を入れたのを見て、里桜の母親がフゥと息を吐いた。

「結花ちゃん、お願いがあるんだけど、いいかしら」

「…はい」

「里桜のこと、お願いね。この子、不器用で…気が強いから、きっと友だちになってくれるひとは少ないわ…。だから…」

「ちょっと待ってよ、ママ」


 里桜が口を挟む。


「そんな言い方しないで。まるであたしを置いてどこかへ行っちゃうみたいじゃない」

「そうですよ」


 結花も同意する。


「手術は成功したんです。元気になってください」


 すると里桜の母親は、もう一度フゥと息を吐いた。今度はさきほどよりも、深く、長い息だった。


「いいえ、それとこれとは別なの」

「別? 別って、どういうことよ、ママ?」

「──ママね、わかるの。昔から」

「わかるって…?」

「死ぬかどうか」


「え?」

「昔から、誰かが死ぬときには、そばに黒いひとが立っているのが見えていたの」

「──ちょ、ちょっとなにを言っているの?」

「聞いて。今日の晩…そのひとが、うちに来た。だから、私もパパも…死ぬ運命だとわかった。それで、あんなことになって…。でも、そこに…里桜。あなたが来た。それで…ああ、これは…まだ死ねないって思って…お願いしたの。話をする時間が欲しいって。それができたら、私も行くからって。手術が成功したのは…その時間稼ぎのため…」

「やめて、ママ」

「…手招きしている。もう時間切れね」

「なに言ってるのよ。やめてってば。そんなこと言わないで」


 里桜が首を横に振って否定する。


「そんなひと、立っていない!」

「ううん。立っているの」


 里桜の母親が、再びフゥと長い息を吐いた。


「このあいだ、リビングで言ったこと、覚えているかしら…。いまは大丈夫って…言ったでしょう。あなたたちのそばに…黒いひとがいなかったから…大丈夫だって…わかったの…」


 里桜の母親が、フゥ、フゥ、と息を吐き続ける。


「ママ、辛いの? しっかりして!」


 里桜がそう叫んだ直後、心拍を示す電子音が乱れた。

 その途端、里桜の母親が激しく咳き込み、真っ白な掛け布団に鮮血がほとばしった。


「ママ!」

 里桜が母親にすがりつく。その脇で伊勢崎がナースコールに飛びついた。

「誰か! 来てください!」

 心拍を示す電子音が、危機を伝え続ける。

「ママ、逝かないで! 一人にしないで!」

「た…おす…のよ…あれを…」

「ママ!」

「できる…のは…あなた…だけだか…ら……」


 それが、最期の言葉だった。

 里桜の母親はもう一度血を吐くと、ぐったりして動かなくなった。

 あっという間の出来事に、結花はなにも言うことができなかった。

 容態の急変について、医師たちは揃って首をかしげた。

 致命的な外傷はないはずだった。手術は成功。このまま徐々に回復していく──誰もがそう思っていたからだ。

 原因不明。

 現代医学の限界としか言いようがなかった。

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