32話
伊豆の島々に実在するヒイミさま伝承をもとにした、創作ホラーです。
「あ、そうだった…先生の存在を忘れていました」
充血した目をこすって志緒理が立ち上がる。
「いままでなにをしていたんですか?」
「なにって、奥の方にいたんだってば。はい、里桜ちゃん」
森繁が肩にかけたリュックを里桜に手渡す。
「さすがだね。仮面をかぶるときの手際の良さ。ほれぼれしたよ」
「…はあ」
里桜は戸惑ったようにうなずいてリュックを受け取った。
「いやはや、しかし、鏡を見ると破裂しちゃうなんて、すごいね」
感心した様子で森繁が言う。
「自分に呪いが返ってきたってことなのかなぁ」
森繁にそう言われて初めて、結花たち3人はヒイミさまが破裂したことを思い出した。
「あれって、どういうことなのかな…」
志緒理が結花と里桜を見比べる。
「前に火を向けたときは、怖がって消えるみたいな感じだったけど、今回のは…ちょっと違うよね」
「はい」
と里桜がうなずく。
「あんな風になるとは…」
「死んだってことかな?」
結花にはそう思えた。
「ヒイミさまを見たら呪われる。それなら、自分で自分を見たヒイミさまも呪われて死んじゃうってことじゃないの?」
「あたしもそう考えて、鏡を向けてみたの」
里桜が顎に手を当てて答える。
「パパが、そう言ってたのを思い出して…」
「ってことは」
志緒理が水の中からメガネを拾う。
「ヒイミさまの呪い、終了?」
「…そうなります、よね」
結花は何度もうなずいた。
そうだ、ヒイミさまが死んだなら、呪いは終わりのはずだ。
どんなホラー映画でも、呪いの元凶を倒したら、登場人物は救われる。
結花は、パアッと明るい表情になって里桜と志緒理を見た。
しかし森繁が「残念だけど」と水を差す。
「そう簡単じゃないみたいなんだよなぁ」
「どういうことですか」
結花が森繁を振り返る。
すると森繁は金属製の箱をひょいと持ち上げてみせた。先ほどは気づかなかったが、洞窟の奥から持ってきたもののようだ。
「きみたちが戦っている間、ぼくは奥の方で隠れてたわけじゃないよ。こいつを発見してね。斜め読みしていたんだ」
言いながら箱を開ける。
中には、古びた油紙に包まれた古文書。
「近藤家が残していた記録だろうね。見てごらん」
森繁が結花に箱を手渡す。
古文書には《魔術記》というタイトルが書かれている。江戸時代のもののはずだが、なかなか保存状態がよい。かび臭さの中に、ほのかに甘い香りがするのは、なにか防虫剤や乾燥剤でも使われていたのだろうか。
「洞窟の奥の方は天井が高くなっていてね。その上の方に神棚が作られていた。そこにこれがあったんだ」
結花が箱を里桜に渡す。
「さっきヒイミさまが出たとわかったとき、ぼくは奥に逃げるしかないと思って、逃げ道を探してたんだ。そしたら偶然、箱を見つけた。近藤家の記録があると聞いていたからピンときてね。なにか対処法があるんじゃないかと、急いで読んでみたんだ」
「そしたら、鏡のことが書いてあったんですか?」
里桜が今度は志緒理に箱を渡しながら尋ねる。
「そう。細かいことはもっとちゃんと読まないといけないけど、重要なことだからわかりやすく書かれててね。自分で自分を見たヒイミさまは、呪いの矛先がわからなくなり、かけた呪いを解いてしまうんだそうだ。ただ、解くのはあくまで鏡を見せられたときにターゲットにしていた人の呪いだけ。全員の呪いが消えるわけじゃない」
「そういうことだったんですね…」
志緒理が箱を森繁に返す。
「ぼくが東京で言ったことをおぼえているかい? 呪いをビジネスにしている以上、必ず解く方法があるって。やっぱりそうだったんだなぁ」
「一気に呪いを消す方法はわからないんですか」
「ううん。どうだろうね。もうちょっとちゃんと読んでみないと。ってことで、これ、持ち帰っちゃっていいですかね、近藤さん」
森繁が近藤の肩をポンと叩いて笑顔で言った。
近藤は、相変わらず事態が把握できない様子でポカンとしていたが、肩を叩かれてようやく我に返り、
「え、あ、全然。むしろ要らねえわな…」
と怯えながら答えた。
「そうですか。じゃあ、ありがたくお預かりしますね」
森繁が満面の笑みを浮かべる。
「あ、それと…さっきの奴がまた来ると思いますんで、仮面と鏡と…それからマッチとかライターなど、火をつけるもの。そういった物を常に身近に置いておいたほうがいいですよ。詳しくは帰りの道すがらお話ししますがね」
森繁の言葉に、近藤は何度も目をぱちくりさせた。
宿に戻ると、結花たちはシャワーを浴び、服を着替えることにした。唐滝までの道中やヒイミさまとの戦いで、全身が汗と水でびっしょりになっていたからだ。
すっかりぐしょぐしょに濡れてしまったスニーカーは、女将さんにお願いして乾燥機にかけてもらうことにする。
その間に森繁は《魔術記》を愛用のノートと一緒にテーブルに広げ、中身を調べていった。そして結花たちが濡れた髪をドライヤーで乾かし終わる頃、森繁は「よし」とつぶやいて《魔術記》を閉じた。
「ざっくり言うと」
とノートに書いたメモを指でなぞりながら、森繁が結花たちを見る。
「ヒイミさまを調伏したこの島の陰陽師は、正確には陰陽師ではなかったらしい」
「え? どういうことですか」
結花が首をかしげる。
「《魔術記》によると、その人物は遠い異国の船に乗っていた。その船が嵐で遭難し、漂流してこの島に流れ着いた」
「じゃあ、外国人だったんですか」
「ああ、そうだ。それも白人の女性…。本人いわく、魔女だったようだな」
「魔女?」
結花が思わずすっとんきょうな声を出す。
里桜と志緒理も驚いた様子で顔を見合わせた。
「わたし、てっきり男の人だとばかり…」
「あたしもそう思ってました」
「実を言うとぼくもそう思ってた」
森繁が腕を組んで言う。
「陰陽師なんて言い方をしたら、まあそう思うのも無理はないけどね。真相は違ったってことだ」
「でも」
結花は授業で発言するときのように手を挙げた。
「はい、結花ちゃん」
森繁が、これまた授業で生徒を指すみたいに、結花を呼んだ。
「魔女って、まわりから勝手にそう決めつけられたんですよね。自分から名乗っていたひとって、いるんですか」
「ふむ。結花ちゃんが言っているのは中世ヨーロッパで行われた魔女裁判のことだね。当時キリスト教会は魔女を異端…つまり世の中を乱す者として糾弾することにし、その結果、なんの罪もないひとたちが殺された。ひとたび魔女の烙印を押されたら、ひどい目に遭ってしまう。だから確かに、自ら魔女と名乗るようなひとは少なかったかもしれない。でも、だからといって魔女がいないということにはならないよ。それにこう考えたらどうだい? 教会が極端なまでに魔女を追い詰めたのは、本当におそろしい魔女がいたからなのかも」
「本当の、魔女…」
「先生、ちょっと待ってください」
今度は志緒理が手を挙げた。
「なんだい」
「《魔術記》は近藤なんとかさんが書かれたわけですよね。言葉はどうしていたんです? 異国の白人女性とコミュニケーションができたんでしょうか」
「ぼくもそう思って、最初は疑心暗鬼で読んでいたんだが、どうやら近藤なんとかさんは、流人のひとりで、かなり学のあるひとだったようだ」
「学のある…というと、当時なら蘭学者とか?」
「蘭学もそうだが、英語やラテン語にも詳しかったようだ。見たまえ。流れるような筆記体で魔女の言葉が書かれているだろ。その下に和訳がある。さっきネットで翻訳してみたが正しかった。十中八九、外国語が話せたと見て間違いないと思う。まあ、だから助手になったんだろうが…」
「なるほど。それなりに信憑性はあるということですね」
「そういうことだ」
森繁は力強くうなずいた。
「それで、すごいのはここからだ。この魔女は、霊界と通じていた、と書かれている。鏡を使って霊魂を呼び寄せたり、話したりできたそうなんだ」
「鏡?」
「うん。噂を聞いた島の有力者たちは、魔女に相談した。この島に巣喰う怨霊をなんとかできないか、と。魔女は…快諾した。命を助けてくれた島の人々への恩返しというわけだな。鏡の術を使って、ヒイミさまを従えた、と書かれている」
「それが本当ならすごいですけど…でも鏡の術って、具体的にはどんな術なんです?」
志緒理が首をかしげる。
「書いてあることを簡単にまとめると、こうなる」
森繁はノートをめくって、メモを読んでいく。
「──魔女は、ヒイミさまが現れる次の1月24日までに《円筒鏡》と言われる、筒状の鏡を作ったらしい。円筒鏡というのは、筒の中が鏡になっていて、覗くと周囲がすべて反射しているという代物だ。大きさは竹の水筒と同じくらい、と書いてある。で、その円筒鏡と、愛用の手鏡に魔術を施した」
森繁がノートをめくる。
「さて、いざヒイミさまが現れると、魔女はまず手鏡をヒイミさまに向けた。すると不思議なことに、ヒイミさまは手鏡に吸い込まれた」
「吸い込まれた?」
「うん。近藤が聞いたところによると、ヒイミさまは円筒鏡の中に閉じ込められたらしい」
「えーっとそれは…手鏡と円筒鏡が時空としてつながっている、という理解でいいんですか」
志緒理がこめかみに指を当て、口をとがらせる。
「魔術を生真面目に考えてもしょうがないよ。そもそもヒイミさまだって物理や理屈では捉えられない」
「まあ、そうですけどぉ…」
「…続けるよ。そんなわけで、円筒鏡に閉じ込められたヒイミさまは、永遠に自分を見なければならなくなった。つまり、自分の呪いが自分へ向かい続けたんだ。相当苦しかっただろうね。近藤によれば…円筒鏡からは3日3晩、苦悶のうめき声が聞こえ続けたという」
「それで、鏡が苦手に?」
結花がもう一度手を挙げて言う。
「そういうことだろうね。魔女は、4日目の朝に手鏡に呼びかけた。私の言うことを聞くなら、24日だけは出してやる、とね」
「…ヒイミさまはその提案を呑んだ」
里桜の言葉に、森繁がうなずく。
「そう。そうやって、ヒイミさまは魔女の式神になった。使役の方法はこうだ。24日になると魔女が手鏡を使って、ヒイミさまに呼びかける。すると円筒鏡の中にいるヒイミさまが式神となって現れる。鏡をヒイミさまに向けると、ヒイミさまは円筒鏡に戻される。その繰り返し。式神として呼び出されたヒイミさまは、呪いの影響か、正視できないほどの異形だったと伝えられている」
「あれ、でも待ってください」
今度は志緒理が手を挙げる。
「ヒイミさまは水の中から現れるのでは? いまの話だと、鏡から現れてますよね?」
「そうだね。ぼくも気になってはいるんだが…この時代のあと、またなにか変化があったのかもしれないね」
「だとしたら《猿》がなにかしたのでしょうか」
里桜が顔をこわばらせて言う。
「可能性はあるね。謎はまだ残されている、というところかな。実際、重要な謎は未解決のままだ」
「えっと、それは…」
結花が首をかしげる。
森繁はそんな結花を見据えて「いまの話を総合すると、ヒイミさまはまだ円筒鏡の中にいるってことにならないかな?」と言った。
「円筒鏡の…中に…?」
結花がその言葉を咀嚼する。
「うん。そうなると、だよ。扇柳さんは、本体はこの島にいるとおっしゃっていた。つまり、円筒鏡はこの島のどこかに、まだ残されているということになる」
「それは、どこなんでしょうか」
里桜が膝を乗り出して尋ねる。
「それを破壊すれば、ヒイミさまの呪いは一気に…」
「近藤は聞いていないようだ。記述は一切ない」
「そんな…」
「《魔術記》は、魔女が旅立っていった場面で終わっているから、それ以上はわからないしね…。言ったろう。謎はまだ残されているってね」
「こんな島まで来ておいて、手詰まりってことですか…」
悔しそうに里桜が座り込む。
「うーん…。まあそうとも言えないよ。魔女の名前もわかったし。子孫がなにか聞いているかもしれないだろ?」
「え? 名前、わかるんですか」
里桜がパッと明るい表情になる。
「もちろん、わかるよ。近藤も真っ先に聞いている。あれ? 言ってなかったっけ」
「聞いていませんよ。なんという名前なんですか」
森繁は「失敬失敬」と言いながらノートをめくると、そこに大きく3つの漢字を書いていった。
木…手…良。
「木手良。これが魔女の名前だ。キテラと読む」
結花がごくりとつばを飲み込んで、3つの漢字を食い入るように見つめる。
「これが《猿》なんですね」
「そうだね。《猿》の正体は、仮屋町の木手良一族。これがわかっただけでも収穫だろ?」
──さっそくお父さんに知らせよう。
そう考えて結花がスマホに手を伸ばしたときだった。
「…嘘でしょ」
里桜がまるでこの世の終わりのような顔をして、小さくつぶやいた。
「どうしたの、里桜」
覗き込むようにして、結花が尋ねる。
「嘘よ、そんな…嘘よ」
どうも様子がおかしい。
結花は里桜の肩を優しくつかんで、聞いた。
「嘘って、なに? なにが嘘なの?」
すると里桜は目に大粒の涙を浮かべて、何度も何度も首を横に振った。
「あたしは…なにも知らなかったの! 信じて!」
「どういうこと?」
「木手良って…ママの…母の旧姓なの」
ヒイミさま曰く「いいねと★は至高」




