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悠久の少女  作者: 小鈴 莉子
二章 黄昏の思い出
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頬に触れたぬくもり

「アレス、ありがとう」


 きつく眉根を寄せていたら、不意に隣から感謝の言葉が聞こえてきた。そちらへと振り向けば、思っていた以上に近くにレナータの顔があった。一旦、食事を中断したようで、白くて華奢な手には食べかけのパールキが握られている。


「さっきの人たちに、食べているところをじろじろ見られていたの、実は気持ち悪くて嫌だったの。だから、追い払ってくれて、ありがとう」


 レナータは食事に夢中で、てっきり先刻の視線には気づいていないものとばかり思っていたのだが、しっかりと把握していたのか。その上で、素知らぬふりをしていたのだと知り、やはり待ち合わせ場所にいた時も、周囲から向けられた目を無視していただけだったのかと、納得する。美人には美人なりの苦労というものがあるらしい。


 でも、追い払ったという言葉には、疑問を覚える。別に、アレスは先程の男性たちを追い払おうと思い、彼らを睨んだわけではない。アレスの視線に気づくなり、向こうが勝手に立ち去っていっただけだ。


「俺、何もしてな――」


 首を横に振り、否定の言葉を口にしている途中で、突然頬に柔らかなぬくもりを感じた。軽く音を立てて肌に吸い付くその感触に、限界まで目を大きく見開く。


 ――レナータに頬にキスを落とされたのだと理解した刹那、アレスの頬に触れていた唇は、あまりにも唐突にあっさりと離れていった。


「……さっきのお礼。アレスはやっぱり、私の小さなナイトだね」


 間近でアレスの目を覗き込むレナータは、にっこりと微笑んで小首を傾げた。

 衝撃のあまり、何も言えずにいるアレスに、レナータは控えめに笑い声を上げる。


「ちゃんと口を拭いてからキスしたから、アレスのほっぺ、汚れていないよ。……アレスのお口の周りは、ちょっと汚れているけど」


 レナータにそう指摘され、咄嗟に手で口の周りを擦ろうとした矢先、唇に柔らかな布がそっと押し当てられた。


「今日、念のためにハンカチたくさん持ってきておいて、よかった。食べ終わったら、もう一回拭いてあげるからね」


 レナータに、ハンカチで口の周りを拭いてもらっているのだと認識した途端、何だか複雑な心地になった。これでは、まるっきり子供扱いではないか。


(……俺、子供だけど)


 だが、上手く言葉にはできないが、納得がいかない。


 レナータのハンカチが離れた頃を見計らい、キャスケットのつばを少しだけ押し上げ、白銀の前髪に手を伸ばす。そして、露わになった形のよい白い額に顔を寄せ、唇を押しつける。

 レナータの額から唇を離すと、唖然としているマリンブルーの瞳が視界に入ってきた。


「……さっきのお返し」


 レナータはぱちぱちと忙しなく瞬きを繰り返した後、ふわりと微笑んだ。その微笑みには見るからに余裕が漂っており、憎たらしく思えてきた。


「アレスに、おでこにキスされちゃった」


 にこにこと微笑みながら、手際よく前髪を整え、キャスケットを被り直したレナータは、もう一度パールキを頬張り、もぐもぐと口を動かす。


 驚きこそしたものの、即座に余裕を取り戻してみせたレナータが、何故か腹立たしい。その気持ちを紛らわせようと、アレスもパールキにかぶりつくが、味わう余裕なんて微塵もない。


 半ば自棄になって食べていたからか、瞬く間に手元に残っていたパールキはアレスの胃袋に入ってしまった。深く息を吐き出し、噴水の縁から立ち上がろうとした寸前、すかさずハンカチを手にしたレナータの手が伸びてきて、手早く口元の汚れを拭い去っていく。


「もう、アレス。そんなに急ぐ必要なんて、ないんだよ? まだまだ時間は、たっぷりあるんだから。……はい、お口の周り、綺麗になったよ」


 相変わらず、余裕の姿勢を崩さないレナータに、ついむくれそうになったものの、ぐっと堪える。そんなことをしたら、ますます子供扱いをされてしまうのは、一目瞭然だ。


 レナータが汚れたハンカチを丁寧に畳んでバッグに仕舞い込んだところで、今度こそ噴水の縁から飛び降りる。


「――レナータ、行こう!」


 噴水の縁に敷いていたハンカチも片付けたレナータの手を、ぐいぐいと引っ張る。この際、もう子供扱いされても構わないから、レナータからのキスで受けた衝撃と、アレスからのキスにちっとも動揺してもらえなかった苛立ちを、身体を動かすことで早く緩和させたい。


 アレスに手を引っ張られたレナータは、眩しいほどの笑顔を見せて頷いた。


「はい。エスコート、お願いしますね、アレス」


 本当は、今すぐにでも走り出したかったが、レナータの唇から零れ落ちた、エスコートという言葉に、思い留まる。レナータの手を引いて歩き出し、そっと隣を振り仰ぐと、宝石みたいに輝くマリンブルーの瞳がアレスを見下ろしていた。


「じゃあ、次は俺の家まで案内する」


 自宅に上げることは、おそらくできないだろうが、外観を見せるだけなら大丈夫だろう。

 そう判断して告げると、レナータの笑みが一際深まり、マリンブルーの瞳に好奇心が顔を覗かせた。


「本当!? 嬉しい! ありがとう、アレス!」


 まさか、ここまで喜んでもらえるとは思ってもみなかったが、こんなに嬉しそうに笑ってくれたのだから、絶対に自宅の外観だけは見せようと、心に決める。


「中には、入れられないと思うけど……」

「それでも、充分だよ! アレスがどんなお家で暮らしているのか見るの、楽しみだなあ」


 ならば、自宅を見せた後は、普段のアレスの生活圏内を見せて回ろうと、密かに予定を立てていく。そうしたら、またこんな風に笑顔になってくれるだろうか。


(今の俺には、レナータをドキドキさせることはできないけど……)


 それでも、こうして笑顔にすることは、いくらでもできる。今はそれだけでも充分だと内心頷いたアレスは、レナータの手を引いて自宅までの道のりを案内した。


 今日という日が、レナータにとって、いい日になりますようにとの願いが叶ったことは、その日の別れ際に見せてくれた、溢れんばかりの笑顔で確信できた。

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