ユーリー・ノルシュティンの思春期
8月下旬夏祭りに来ている。時折の風に秋らしさを感じつつ蒸し暑さは今も健在といった所。大規模商業施設の駐車場が祭りの会場となっている。近場から流れ込んできた参加者らはどこか浮ついた表情をしている。僕は予定の時刻よりも相当早くに約束の場所に着いてしまった。僕は面倒な物事をいつも前倒しに済ます癖がある。やる気に満ち満ちているのではなくとことんやる気がないからである。そして、気がかりな予定がある状態ではどうせ何も手に着かないからである。だが、前倒しに済ますお蔭で良い特典が付いてくる場合もある。例えば、今は夏祭りに来ている連中を観察しながら彼らの人間関係や来歴に想いを馳せている所だ。他人のことを好き勝手に妄想することは結構楽しいものだ。それに、一人一人に対してショートストーリーを作るため、新奇なものを高速に消費する快楽を得られる。
僕が待つ相手は同じ弓道部の後輩にあたる上杉さんだ。夏休み直前上杉さんは僕に突然告白してきた。正直、僕は上杉さんとお世辞にも仲が良いとは思っておらず、僕のどこをよしとしたのか一つも検討が付かなかった。だから、僕は上杉さんに僕のどこが好きなのか尋ねてみたのだった。すると、上杉さんは僕の弓道に取り組む姿が格好良く見えたらしく、親切に相談や助言をしてくれる所に惹かれたらしい。僕は上杉さんの告白を断る理由も特に思い付かず、上杉さんが僕に向けてくれている好意が嬉しくて、とりあえず上杉さんとの交際を始めることにした。ただ、僕は上杉さんの告白を断った場合僕や上杉さんが弓道部に居辛くなるのを回避したかっただけだろう。折角継続している部活動を途中で辞めるのは様々な意味で勿体ない。
一定の交際期間を経た後自然に関係を元に戻す。誰も傷つかなくて済む最良の方法だろう。上杉さんが僕に強い好意を抱いているわけではなさそうだし、僕の中身を知れば知る程どうせ僕に幻滅していくはずなのだ。僕が弓道に打ち込む理由は弓道に打ち込んでいる間は弓道以外のあらゆる現実を忘れられるからだ。僕は現実が心底嫌いだ。だから、現実を忘れられる行為には沢山の投資をする。弓道がある程度ものになりつつある状況も付随的なことでしかないのだ。それに、僕が上杉さんに親切な理由は僕が弓道部に居心地の良さを求めるからだ。助言や相談を求める後輩を無碍にしては部活内での居心地が悪くなるというもの。僕は上杉さんが夢見ているような人物では決してない。僕は上杉さんの期待に応えられるような人物ではないのだ。だが、上杉さんが僕をどのように実際評価しているのかよく解らない。
「先輩早いですね。部活に出て来るのも、先輩早いですもんね。」
上杉さんが到着した。口ぶりからして約束の時間はまだ来ていないようだ。上杉さんは少し明るめの青地の浴衣を着てきた。派手過ぎない花の模様があしらわれており、アピールしたい気持ちと控えめな気持ちが解る。青地である理由は自分自身のイメージカラーだからだろう。上杉さんのキーホルダーや色んな所持品はその多くが青色だからだ。いや、単純に彼女が青色好きだからでいいのだが、きっと青が似合っていると思うから、僕が勝手にイメージカラーにしている、実際それが真実に近いように思われる。普段とは様子が異なるのは他にも軽く化粧をしている所もだ。やや高校一年生には望めそうもない艶っぽさを演出するのに一役かっている。手に提げている巾着は地味目の紺色をしており、母親から借りた可能性を伺うことができる。水色の髪留めもチャーミングで似合っている。
「夏祭りはいいな。」
上杉さんの浴衣姿を眺めながらぼそっと口に出して言ってみる。
「いきなりどうかしましたか?」
「いや、何でもない。」
僕は上杉さんから目線をそらした。そして、後ろで上杉さんが「あっ」と声を出していた。どうしたのだろうか?
「先輩は素直じゃないですよね。もうちょっと素直になればいいのに。」
「どういう意味だ?僕はいつも素直なつもりだが。」
僕は上杉さんの言っていることが心底解らないとでもいうようにとぼけてみる。
「もういいです!」
「何だ?よく解らないが、気を悪くするな。」
上杉さんは少しむくれた顔をしながら祭りの出店の方へ歩いて行く。僕は機嫌を少し悪くした上杉さんの後をとぼとぼ歩いて付いて行く。上杉さんは本当に機嫌を悪くした訳ではないだろう。少し楽し気に演技している様子でもある。僕は上杉さんとの何気ない寸劇が好きだ。確かに、周りの連中から見た時上杉さんとの掛け合いが仲良しに見えなくもない。上杉さんはこういうちょっとした掛け合いにも、仲の良さを感じ取っていたのかもしれない。いや、僕は上杉さんからの好意に関して思いあがっては後で痛い目に遭う。僕はもう人間関係で痛い目に遭うのはご免なんだ。だが、痛い目に遭うのがご免ならばどうして付き合い始めた?少なからず上杉さんとの関係や未来に期待しているからではないか?僕は気づいてはいけない僕の気持ちに気づき始めているのかもしれない。
「先輩、あれ食べましょう。」
「おお、味噌漬けバーか。」
上杉さんはすっかり機嫌を直した様子だ。姫様が機嫌を直されて、私めは嬉しく思います。
「いらっしゃい。味噌漬け美味しいよ。買って行きな。」
味噌漬けバーの出店はおばちゃんたちが切り盛りしている。人生の何たるかを如何にも知っているかのような図太さを十分に発揮している。
「はい、そうします。どれにしましょうか、先輩?」
「うーん。」
地元の野菜を使用した伝統的な味噌漬けだ。土臭い感じもなくお洒落に売られている。大き過ぎない味噌漬けバーが可愛らしいポップと共に売り出してある。僕は母方の実家が農業をしているので、目の前の野菜の来歴には理解がある方だ。だから、見知っていた田舎娘が突然都会に放り投げられた挙句徹底的に垢抜けた様子を見守る地元の幼馴染が抱くような複雑な気持ちを抱いてしまう。だが、態度には億尾にも出さず静かに悲しむことにした。突然味噌漬けバーを見た青年が涙を流し始めたら何事が起きたのか辺りは騒然とするだろう。いや、状況が状況であるために最後のお情けデートをしてもらっている青年が最後かと思うと悲しくて結局一つも楽しめずお別れを想って泣いてしまった図にも見えるかもしれない。隣で感傷に浸っている人を差し置いて上杉さんはポップに見入っている。僕も早く上杉さんのような感性を手に入れたいものである。
「私、ナス食べます。先輩はキュウリで。」
「僕に選択権はないのか?」
僕は上杉さんに子犬のように怯えた目線を送る。だが、上杉さんは取り合ってくれる様子がなさそうだ。
「おばちゃん、ナスとキュウリを一本ずつお願い。」
「はいよ。」
おばちゃんの手際の良さは僕に選択権を与えない陰謀に違いない。もしかしてこういうのはジェンダー差別なんじゃないか?僕と上杉さんはお金を出しながら商品を一本ずつ手にした。
「ありがとう、おばちゃん。」
「どういたしまして。」
だが、シェアしながら食べることを選んだことには感心している。シェアしながら食べた方がより多くの味を楽しめる合理性があるからだ。おばちゃんたちは僕たちが去った後「若いっていいわね」的な話で盛り上がっていた。おそらく、僕たちがカップルだということはおばちゃんたちにはばれていただろうし、何なら僕たちが付き合いたてであることさえもばれていたかもしれない。いや、流石に付き合いたてかどうかを判断できる程の慧眼は有していないだろう。もしかしてシェアしながら食べることに伴う間接キスに反応しているのか?おばちゃんになることの意味は恋愛症候群が末期症状へ到達することである。おばちゃんの定義に追加しておかなければ心の鞘を納めることができない。上杉さんとの間接キスを想像しただけで恥ずかしい気持ちになってきた。
ゆっくりと歩き回りながら屋台を覗いて回る。時々立ち止まっては屋台の様子を伺ったりしてみる。上杉さんは小ぶりのナスに満足している様子だ。小さい頃からこの地域の人たちは味噌漬けに慣れ親しんでいる。家庭で自作している家は多少減ってきているだろうが、近所のスーパーではよく地元の人たちが購入している。僕は上杉さんが食べている様子をじっと見ている訳にもいかないので、僕は僕で上杉さんに半ば強引に買わされたキュウリを食べ始める。僕はこの地域で生まれ育った履歴が味を構成している可能性を想起していた。キュウリバーはキュウリの歯ごたえを残しつつちゃんと味噌の味や風味が付いていて結構美味しい。おばちゃんたちの日頃から積み上げてきた知恵がこうした微調整を可能にしているのだろう。
「はい、先輩。」
上杉さんが僕に食べかけのナスを差し出して来た。
「食べてみてください。美味しいですから。」
僕は上杉さんの噛り付いた後が妙に生々しく、妙な気を起こしそうな気持になってくる。上杉さんの純粋に味を共有したい気持ちに申し訳なさを感じつつ、上杉さんの好意や笑顔に甘んじて素直にナスに噛り付いてみる。
「美味しいな。」
ナスも漬けすぎていない良い塩梅だ。しかし、人によってはもう少し漬けていた方がよしとするかもしれない。人によって好みの漬け具合が違いそうだ。勿論、漬ける食材や漬ける味噌も。
「先輩のキュウリも食べさせてくださいよ。」
上杉さんはもうすでに口を開いた状態で、僕がキュウリを突っ込むのを待っている。この絵面は見ようによっては結構まずい。思春期真っ盛りの男の性欲を舐めるなよ。
「ほらよ。」
上杉さんはキュウリバーに噛り付いた。
「んー!美味しい!歯ごたえもバツグンですね!」
そんな無垢な反応をしないでくれ。僕の心が汚れているみたいじゃないか。いや、もう十分に汚れているのは認めよう。というか、汚れていて何が悪いというのだろうか?自分に素直ではない方が汚れているというものだ。ハッハッハ。全くエロけしからん奴だ。突然遠くの方から大音量の音楽が聞こえ出した。会場には様々な催しをするための舞台が仮設されており、オープニングセレモニーが盛大に執り行われ始めたようだ。地方の舞台で行われる催しは外れくじが多く、出演者の自己満足に終始することもしばしば。僕は穏やかなデート邪魔されてとても不愉快に感じたが、大音量にびくついた上杉さんが見れたからOK。僕は上杉さんが噛り付いた上からキュウリに噛り付いた。過剰なまでの性意識は生理的なものだから受け入れて行くしかない。
「びっくりしました。」
「うむ。」
上杉さんも僕が噛り付いた上からナスに噛り付いた。僕は上杉さんの天然ぶりに驚きを隠せないが、全くいやらしさがなく健全にも見えてくる。僕は上杉さんに不純な気持ちを抱いているが、上杉さんは僕に不純な気持ちを抱かないのか?僕が罪悪感を抱く理由には上杉さんへの好意が未だ判然として来ない所にある。好意が判然としていない段階にもかかわらず性欲だけは駆り立てられている状況だ。とりあえず別のことを考えて、気を紛らわすことにしよう。祭りが開催されている駐車場は広いので、多数の屋台がより取り見取り出揃っている。陽も徐々に落ちかけており、屋台の電灯が明るさを増す。祭りの明かりは今では提灯から伝統へ移り変わっている。伝統も守り引き継がれるためにはその形を変えて行かねばならない。二人とも味噌漬けバーを食べ終えたので、木のバーを設置されたゴミ箱に捨てる。
「次、焼きそば食べましょう!シーフード焼きそばですよ!」
「おう。」
海が特に近い地域という訳でもないので、シーフードとは決して地元の味ではない。何処産シーフードを利用しているか解らぬし、焼きそばの味付けも市販のソースではないか?だが、屋台からはシーフード焼きそばが焼ける美味しそうな匂いがする。僕は食べ物が只美味しいだけで良いのか知らぬ。人が少し並んでいたので、その列に並ぶことにする。上杉さんは目を輝かせながら屋台のお兄さんが焼く様子を眺めている。上杉さんは食の安全性に関する問題や食の環境に対する負荷性をどのように考えるだろうか?おそらくどうしようもない問題だから、ひたすらに「いま、ここ」を楽しむと、僕を諭すように言うことだろう。いや、本当にどうでもいいことのように話を合わせるのかもしれない。僕と上杉さんは順番が来たので、割り勘で一パックを購入した。
「食べる以外のことはしないのか?」
僕が焼きそばの入ったパックを持ち、上杉さんが割り箸を割っていく。
「正直、食べる以外はどうでもいいかもです。」
ぱきっ。ああ。綺麗に割れなかったな。
「しかし、屋台の食べ物は高いぞ?」
「先輩、ご存知ですか?食べ物の味は何を食べるかよりも、誰と食べるかが大事なんです。それに、食べる時の雰囲気とかも重要なんですよ。」
ちょっと怒っているような、ちょっと自慢してるような、よく解らない態度で言った。上杉さんはとても自然に好意を伝えてきたのだった。僕は軽く頭を殴られたような気持ちになった。
「それもそうだな。」
僕は上杉さんに上手く割れなかった方の割り箸を貰った。できれば、綺麗に割れた方を僕に渡してほしかったな。
「そう、それもそうなのです。」
今度は僕を説得できてご満悦なのかどや顔をしながらオウム返ししてきた。上杉さんが可愛すぎて死ねるレベルなのだが。僕は精神科にでも行かないとまずい病気にでもかかっているのだろうか?
「いただきまーす。」
上杉さんは僕が下らない逡巡をしていることも知らないで、能天気なままシーフード焼きそばをつつき始めた。いや、僕の下らない逡巡に気づいて欲しくないのだけどね。
「んー!海が、海が押し寄せてきますね!」
その表現では東北大震災の時に東北の東岸部を襲った津波が連想される。シーフード焼きそばの美味しさを表現したかったのだろうが、僕はその点ちょっとナイーブに過ぎるのかもしれない。どれ、僕も一口食べてみようか。
「うむ、悪くはないな。」
「何ですか?もっとシーフード焼きそばを称えてくださいよ、先輩。」
上杉さんは異端者を審問する神官の如く僕に厳しい目を向けている。
「称賛を強要するな、後輩。」
上杉さんは僕の返答に不服を訴えかけるように黙々とシーフード焼きそばを食べ続ける。僕は知っている。弓道合宿の際上杉さんがおかわりをしていたのを。合宿先のお土産コーナーで沢山のお菓子を購入していたのを。上杉さんは自分が大食漢である事実を否定したがるが、弓道部員に関しては上杉さんの大喰いが周知の事実だ。仮にも彼氏の前なのだから、正体を曝け出せばいいのだ。何だか変態っぽい表現の仕方だ。ついでに、悪いイメージしか出てこないのが申し訳ないが、二人でシーフード焼きそばを食べている絵面は、死肉を漁るアホウドリかハイエナのようだ。ハイエナはサバンナの死肉を喰らうイメージがあるので、魚介類の死肉を漁るアホウドリの方が似合っている。しかし、アホウドリは死肉を漁るタイプの鳥類だったか?正直、アホウドリに関する正確な知識を持ち合わせていない。
「タコに、イカに、ホタテ。」
上杉さんが楽しそうに口ずさんだ。弓道部員は女子六人男子四人から構成されている。二年生は男子三人に女子二人で、一年生は男子一人に女子四人だ。三年生は春の公式大会で部活を引退している。特に華々しい成績を修めた先輩はいない。うちの弓道部は県内でも弱小な方に分類される。上杉さんは僕との出会いから三か月で告白してきた。思えば、上杉さんと僕はお互いに多くのことを知らない間柄である。弓道部の二年生は「タコに、イカに、ホタテ」だったはずだ。僕はさしずめあまり動きのないホタテだ。上杉さんには僕を選ぶ必要もないはずで、多分つまみ食い感覚なのではないか?でも、つまみ食いをしてみなければ、味も解らないというものだ。その点、上杉さんはとても合理的に選択をする消費者である。本当に末恐ろしい娘だ。上杉さんは僕との付き合いを通して思い出を作りに来ている可能性もある。
「ステージの方で学生バンドが演奏しているみたいですね。」
上杉さんはシーフード焼きそばを食べる手を止めず、ここからは向こうの方に設置してある舞台を見やる。
「そうだな。多分下手くそだ。」
僕は少しだけ不快な気持ちになる。僕も多分付き合いが下手くそだ。恐ろしくサービス精神が欠けている。僕は頭の中でぐるぐる考えること自体が好きで、きっと上杉さんのことはどうでもいいのだろう。
「先輩。芸術は心が大事なんですよ、心が。」
上杉さんはとてもまじめな顔をしながら決め台詞を言うも、シーフード焼きそばをもぐもぐすることを止められていない。もうほとんどシーフード焼きそばがなくなってしまっている。
「だが、技術がそれなりになければ、込められた心も見えてこない。むしろ心を誤解させる可能性さえも出て来るではないか?」
上杉さんは僕の方を見つめてくる。上杉さんは多少熱っぽく語り始めた。
「なら、ちゃんと伝わるまで伝え続ければいいと思います。ちゃんと伝わってくれると信じ続ければいいと思います。私はちゃんと伝わることを信じますし、相手が受け取ってくれることも、信じ続けたいと心からそう思います。」
僕は上杉さんに冷や水を浴びせたくなった。
「そもそも伝えたいことが自分でも解らない時はあるし、伝えた後に伝えたいことが変わるかもしれないし、伝わっていると誤解しているだけかもしれないし、最後まで伝わらない可能性だってあるじゃないか。」
上杉さんは少し寂しそうな顔をした。僕は半ば上杉さんの反応を無視しながら、彼女に対して意地悪な言葉を紡いでいく。
「何かや誰かを信じれば信じるほど、それだけ傷つく可能性も高まるし、失意や絶望を招きやすいだろう。だから、僕はあまり多くのことを信じていないし、すぐに逃げ出せるようにしているんだ。」
気づけば、かなり陽が落ちていて、辺りは少しほの暗いが、屋台の煌々とした光が、祭りの一帯を照らしている。人間は第二の火とも言える電気を手にして、傲慢になる所まで傲慢になったという訳か。
「さ、真面目ぶった話なんかしていないで、屋台巡りを再開しようじゃないか。」
上杉さんは少ししょんぼりしているようだ。僕の胸の辺りがチクリと痛むが、僕は単純に批判をしてみただけだ。いや、この場合、僕に批判されたのが悲しいのだろうか?あまり深く考えない方が良さそうだ。
「はい。」
上杉さんは先程の元気もなくなり、とぼとぼと僕の前を歩き始めた。僕は上杉さんの後を静かに付いて行く。上杉さんは高校生活の思い出を作りに来ているだけだ。僕との付き合いも高校の一ページ作りに過ぎないのだろう。上杉さんも本気ぶっているだけで、実際どこまで本気なのか解らない。僕はただ思春期の性意識に引きずられて、のうのうと出張ってきただけの下男である。今だけは上杉さんとの恋人ごっこに徹するべきなのに、所々で僕は上杉さんに本音をぶちまけてしまう。どこかで誰かと本気で繋がりたい気持ちでもあるのだろうか?あるいは、存在しないにもかかわらず信じ続けている人が能天気で腹が立つのか?ただ、本当の関係だとか本当の私達だとか本当の何かこだわる自分がいるのは確かだ。こだわっていなければ、こんな逡巡はしない。上杉さんはどうして人と繋がる可能性を信じ続けられるのだろう?あるいは、どうして彼女は人と繋がる可能性を信じ続けたいのだろう?
「先輩、私、あれやります。」
少しうつむいた様子で行って来たので、どんな表情をしているのか見えない。だが、指を刺した方向にはヨーヨー釣りの屋台があった。「食べる以外のことはどうでもいい」はずの上杉さんがヨーヨー釣りとは一体どういうことなのか?
「おお、やりなよ。」
ヨーヨー釣りの屋台を切り盛りしているのは少し強面のおじさんだ。今屋台でヨーヨー釣りをしているのは家族で来ている子ども達だ。わきあいあいとヨーヨー釣りを楽しんでいるようだ。上杉さんはおじさんにお金を払って、細い釣り糸を貰って釣りを始めた。僕は上杉さんが座ってヨーヨー釣りをしている傍に立って様子を見守っていた。上杉さんは手際よくヨーヨーを釣りにかかる。少しの揺れが命取りになるヨーヨー釣りではどこまでも垂直を保ち続けながら平行移動する必要がある。上杉さんはコツを知っているのか一つ二つと吊り上げる。自分らの釣り糸が切れた子ども達も上杉さんの妙技を見守り始めた。時々「わー!」とか「凄い!」とか声に出している。上杉さん本人はわき目も振らずに三つ四つと吊り上げて行く。屋台の強面のおじさんも流石に冷や汗が止まらないようだ。
「おじさん。これ一つください。」
五つ六つ吊り上げた後上杉さんは気に入ったヨーヨーを一つだけ貰った。子ども達は父親と母親に「凄いね!凄いね!」としきりにはしゃぎながら伝えている。上杉さんはクールに立ち上がり、颯爽と向こうへ歩いて行く。僕は何事が起きたのかしばらく理解に苦しんだが、上杉さんがヨーヨー釣り名人であることに気が付いた。上杉さんはひょっとするとお祭りの遊びが好きなのかもしれない。それに、好きなだけでなくそれをやるのが得意なのかもしれない。しかし、上杉さんは少し日頃とは印象を変えてきている。冷淡な感じに振る舞うだけで、可愛らしさが急激になくなった、妙に美人に見えてくるから凄い。上杉さんはもう僕との付き合いを解消しにかかっているのか?恋人ゲームのルールを守らない相手とはゲームを続けるのは難しい。ゲームの場外で関わり合うのはコストが高くつく。だが、割に合うかどうか解らないが、より多くのものを獲得できる。
上杉さんは迷わず射的の方へ向かっていく。今度は僕に一言もなく射的に興じるようだ。上杉さんは僕以外の人と付き合うこともできただろう。上杉さんは容姿がとび抜けていいわけでないが、愛嬌のある感じの可愛らしい顔をしているし、誰にでも気さくに分け隔てなく応対しているし、何よりも心の澄んだ所がとても魅力的なので、上杉さんと付き合いたいと思う人は多くいる、そのように僕は勝手ながら確信しているのだ。本当に、上杉さんが僕を選んだ理由は何なのだろうか?僕が弓道に励んでいる姿が格好良かった、僕が上杉さんにやさしく指導していた、そのくらいで人を好きになってしまうのか?いや、そもそも人を好きになるのに大仰な理由がいるのだろうか?人は僕が頭でこねくり回しているよりも単純にできているのではないか?上杉さんは他に選択肢がある中で僕を進んで選んでくれた。僕はその重みから早く逃げてしまいたいだけではないのか?
気づけば、上杉さんは一度限りの射的を終えていた。弾は五発程渡されており、三発は商品を落としたようだ。上杉さんは弓道も一年経てばいい所までいけるだろう。上杉さんは弓道でも勘の良さを発揮していたし、屋台での遊びも勘の良さを発揮している。夜の幕は完全に降りており、星が夜空に点々としている。星と星の距離は何光年と離れている。光はお互いの存在を伝え合うが、何光年前の姿を伝えるだけだ。星はとても孤独そうに見えるが、宇宙で素敵な光を灯し続ける。やがて自らの重力ではかなく消えて行く。上杉さんは落とした景品を受け取っている。小さなお菓子が二つとキーホルダーが一つだ。お菓子はチョコレートとラムネみたいだ。キーホルダーはダサ可愛いペンギンの知らないキャラクターものだった。上杉さんはこちらを向いたが、少し元気を取り戻したようだ。
「先輩、このキーホルダー上げます。先輩の携帯にでも付けてください。」
ペンギンのキャラクターが怯えながら僕の方を見ているように思えた。このまま受け取らなければ、ペンギンが可哀想に想えたし、上杉さんの醸し出す空気が、受け取りを願っていた。
「分かった。貰うよ。ありがとう。」
上杉さんは少しほっとしたような表情をした。僕はポシェットから自分の携帯を取り出し、貰ったキーホルダーを早速つけることにした。携帯からぶら下がるペンギンが今度はふてぶてしい態度を取っているように思えた。
「これ、食べましょうか?」
「おう。」
僕らはまた二人横並びで歩き出した。上杉さんは巾着にラムネを仕舞い込み、チョコレートが入った箱を開けだした。もうそろそろ花火が上がる頃合いだろう。大規模商業施設の屋上から花火を打ち上げるそうだ。どこか落ち着いて見れる場所があればいいが、良い場所がなければ立ち見するのもいいだろう。上杉さんはチョコレートの箱からカラコロと小粒のチョコレートを取り出した。見た目は三角錐で上側に苺チョコレート、下側に普通のチョコレートの合体作である。月面着陸を果たした有名な宇宙船の名前が付けてある。僕は日頃甘いものを好んで食べないのだが、僕自身甘いものが嫌いという訳ではなく、単に甘さが続いてくれないのが嫌なだけ。上杉さんは僕に幾つかをお裾分けしてくれた。上杉さんは一粒一粒を摘まんでは口の中に入れていた。
「上杉さん。別に、上品に食べる必要なんてないんだよ。もっと豪快にガバッと食べちゃいなよ。その方が効率よく口の中でチョコを楽しめるよ。」
上杉さんは自分が食いしん坊キャラのように扱われてか少しムスッとした。僕は上杉さんのムスッとした顔を見ながら一粒摘みあげて口に放り入れた。
「私は味を楽しみたいので、一粒一粒噛みしめて食べます。上品ぶっている訳じゃありませんから。それに、私ってそんなに皆が言う程大喰らいじゃないですから。」
僕らはお互いに睨みを利かせ合ってから、おかしくてぷっと吹き出してしまった。どうでもいいようなことで喧嘩するなんて仲の良い証拠だな。それに、こういう何気ない日常の幸せはもっと大切にしないとな。
「先輩、そろそろ花火が上がるかもですよ。」
上杉さんが見る方向には道の端の方で上を見つめているカップルがいた。そこここに少し立ち止まり商業施設の上の方を見上げている人達がいる。花火が打ち上がり始める時間が近づいているのだろう。
「どうしようか。座る所もなさそうだし、立ち見でもしますかね。」
「そうしましょう。」
向こうの方にある舞台ではカウントダウンが始まったようだ。花火を打ち上げるのにカウントダウンなんているのだろうか?唐突に一輪の花火が花火の打ち上がりを知らせてくれた方が風情あるスタートだろう。そして、カウントダウンが終わると同時に商業施設の屋上から花火が続々と打ち上がり始めた。上杉さんと僕は静かに花火が打ち上がるのを眺める。小学生や幼稚園の頃親が花火大会に連れて行ってくれた時以来になる。花火を見ている時は親や姉と「綺麗だねぇ」みたいな会話というか呟きをし合った記憶がある。しかし、恋人と花火を見る時はどんな会話をするのが模範的なのだろうか?「綺麗だねぇ」みたいな呟き合いをしていればいいのだろうか?こっそり恋人が花火を見上げている横顔を眺めるとか?それから、恋人もこちらを見つめ返してくるから、その時に甘酸っぱいキスをするのか?とりあえず隣の上杉さんの横顔を少しだけ盗み見てみるか?
「あっ。」
こちらをすでに盗み見ていた上杉さんと目が合う。そして、上杉さんが声にもならない声を発していた。結局、上杉さんは盗み見していたことがバレて、恥ずかしいのか花火の方に目を返した。僕も上杉さんに見倣って、花火を見やることにする。
「先輩、今日はありがとうございました。私は先輩と夏祭りデートができて楽しかったです。先輩は今日のデートを楽しんでくれましたか?楽しんでくれていると、何というか、とてもありがたいのですが。」
上杉さんの声が緊張で震えているのが解る。ここで、上杉さんに楽しくなかったと言える男はこの世に存在しないことだろう。
「ああ、僕も楽しかったよ、デート。途中で妙なこと言ってすまなかったね。僕はそれなりに反省しているつもりだ。」
上杉さんは僕の方を見ず僕の方に立ち寄ってきた。そして、所在なさげに自分の手を僕の手に伸ばしてきた。その彼女の手は辿り着こうとした僕の手に確実に届いてしっかりと僕の手を握った。
「私は先輩がどのような人なのか知っていることは多くありません。先輩が何に思い悩み苦しんでらっしゃるのかも解らないことだらけです。ですが、少なくとも私は先輩と一緒に居て楽しいですし、先輩にもそうであって欲しいと願っています。」
僕は怖くなってきた。上杉さんの真っ直ぐに向けられた想いが怖くなってきたのだ。どうして上杉さんはここまで僕にこだわれるのだろうか?上杉さんはきっと「私が好きなのはこの人だ」って覚悟しているんだ。それだけじゃない。「私が幸せになれるのはこの人の隣だ」「私はこの人に幸せになって欲しいんだ」とても純粋で素直に感じる気持ちを大切にする覚悟を決めているのだ。そういう覚悟を決めることができる凄い奴なのだ。僕には上杉さんのような覚悟はとてもじゃないけどできない。僕は上杉さんの覚悟が怖い。僕に上杉さんへの覚悟を迫っているようで怖い。僕は今逃げ出したいんだ。僕は上杉さんから自然と離れて行こうとする。手は強く振りほどくことなく彼女の手をするりと抜けようとする。しかし、上杉さんは僕が離れて行くのを静止している。彼女の手は僕を離そうとしない。
「先輩、大丈夫です。今じゃなくてもいいんです。私は先輩が私をちゃんと選んでくれるまで待ちますから。でも、先輩があまりにも遅いと、私が逃げますからね。」
上杉さんは僕と腕を組んできた。僕の身体と上杉さんの身体が密着する形になる。僕は上杉さんの身勝手さに少し腹が立ったが、上杉さんが僕に好意向けていることは解る。僕にもっと強くなれって言っているようにしか聴こえないけど、上杉さんが僕と一緒に幸せになろうとしていることは解る。だが、僕の自尊心はズタズタにされっぱなしだ。あたかも上杉さんの方がより善い存在であるかのように振る舞っている。どうしようもない僕にはどうしようもなさを覆い隠すための大げさな自尊心が必要だったのだ。こんな自尊心もどうしようもなさを解決できれば不要なものになるから要らない、と?もっと強くなりさえすれば、僕は幸せにでもなれるのだろうか?僕に好意や覚悟を押し付けて来るなんてお前は何様なんだ?僕は上杉さんの言いなりでいいのだろうか、それとも僕はまた孤独になるべきなのか?
「君は僕のことをよく知らないと言いながらも、とても傲慢に僕に関わってくるじゃないか。よく知らない相手を手酷く“もの”のように操作するのは他者への冒涜に近いのではないか?君になくて僕にあるものは他者への敬虔さだ。」
僕は何をむきになっているのだろう?こんな後輩風情に本心を明かす必要もないのに。彼女が僕より一枚上手だから僕の本心が暴かれるのか?それとも、僕が彼女に理解して欲しいから、彼女に僕の本音を曝しているのか?
「先輩の言う先輩の他者への敬虔さなんて、先輩が他人を怖がっているだけでしょう?先輩は他人と触れ合いたいくせに、怖がっては偉ぶっているだけですよ。だから、私が先輩と触れ合う他人になりたい。」
僕は泣きたくなってきた。確かに、僕の他者への敬虔さなんて、ただ他人が怖いだけのこと。僕はどこまでも卑小な存在らしいな。出会って四か月の後輩に僕の奥底まで見透かされるなんて。僕はもう消えてしまいたい。
「でも、先輩のおっしゃる通り、先輩って優しいですよ。私が先輩と一緒に居て心地が良いのも、先輩が私の居場所になってるからです。だから、私は先輩の見方でいたいですし、先輩の居場所でありたいのです。」
彼女の声は震えていた。彼女も心の奥底を曝け出し過ぎて、心が今にも崩れそうなのだろう。ああ、彼女は本当に身勝手だ。本当に押し付けがましくて、本当に傲慢でしかないのだ。本当に、本当に。でも、彼女は本気なんだ。彼女は僕に本気でいてくれているんだ。僕は彼女の方を見やった。彼女は僕の方を見ていた。彼女はぽろぽろと涙を目から零していた。彼女はとても凛としていて、彼女はとても美しかった。僕は彼女のことを拒み切れない。ずるい。ずるいよ、そんなの。僕の目からも涙が零れ落ち始めていた。彼女はとても不安そうで、それでいて気丈にも見え、彼女はとても寂しそうで、それでいて強く見えた。僕は空いている手で彼女の頬をそっと撫で、彼女とぎこちなく初めてのキスをした。彼女を慰めたかったのかもしれないし、彼女を貶めたかったのかもしれないが。