いばら姫と本の虫、最初のさいしょ
ローゼリアの一日の始まりは、自室の露台にて歌を唄う事から始まる。それは幼い時に妹と約束をしたから。それを今でも守っている彼女。
――、♪あけぼの、花いろ夜の色明けた。
小鳥は目覚めのうた歌う
茜の雲に金の雲 あなたの為に
お水を汲んで湯を沸かし、乳しぼり
スープとミルク、パン焼窯にライ麦パン♪
公務に忙しい父母、周囲の思惑で二人きりの姉妹は、私的の時間では、接点を持たぬ様にと図られている、それが今に続く暮らし。
「おねえさまにあいたい、さみしい、よんできて!だめなら、おとうさまにいいつけてやる」
姉の事が大好きなマリーローゼの幼い時の口癖。逢いたい気持ちはローゼリアにもあったのだが、如何せん、取り巻き達のヒソヒソとした視線に嫌気がさしていた為、滅多と応じる事はなかった。
……、何時か忘れた時。たまたま薔薇園を散策していたある日、お付きの手を振りほどき、駆け寄り抱きついて来た妹。
「おねえさま、いいかおり」
それから、ねだられるままに歌をうたい、共に花を見て楽しんだ時。そして別れ際に珍しく大泣きをしたマリーローゼ。困り果てるお付きを見かね、なだめる為に妹が欲しがったハンカチを手渡し、朝に露台で歌をうたう事を約束したローゼリア。
続き間を持つ城暮らし。姉妹の部屋は近いのに、行き来はほとんどない城暮らし。
その日から続く朝のお約束。唯一、ローゼリアの世界が幸せ色に染まる時。それが魔女に謝罪を受けたあの時から、約束の歌を終えてからの時間もくすんだ色から、鮮やかな色に変わった。
――、「美しさ、深遠なる賢さ、勇気、ナイチンゲールの如く歌える様に、剣士の如く戦える武運、強運、それと運命のお相手。目覚めたあとの世は素晴らしき世界のようで安心でしてよ、ほら。やっぱり不老長寿はありません」
ひとつひとつ、心がこもった贈り物を魔女達と共に再び目を通すと、パタンと記録簿を閉じた。
「ホントだ。私失敗したんじゃ無かったんだ!嬉しい。ノーム・オーム・ウオール!葡萄酒出てこい、甘いやつ」
七番目がすっかり元気を取り戻し、杖を取り出すとクルリと回す。
カチャカチャ!音を立てて、飲み物とグラスが宙に浮かぶ。
「やったあ!ウフフ、出来たよ!姐様」
得意気な七番目に良かったねぇと、みんなで乾杯しよう!と喜ぶ六人の姐達。暖かな空気にローゼリアも嬉しくなった。
――、乾杯!乾杯♪目出度い時にゃ、グラスを鳴らせ
葡萄酒甘い、甘いはいちご、いちごは赤い
赤いは唇、恋人達は重ねてとろける
乾杯!乾杯♪目出度い時にゃ、グラスを鳴らせ
風変わりな歌を唄って飲み干す魔女。宴が終わると、一番目がこっちだよ、と昼間でも陰鬱に満ちた奥の奥へと、ローゼリアを誘う。
気になりウズウズとしてくるローゼリア。気ままに集められた城の書庫には、魔法書のたぐいもある事を知っていたからだ。
歳月を重ねた紙の香りが鼻をやわやわとくすぐる。そこには『全ての力を呼び出す法』やら『ハゲとヌメヌメ魔法の書』等、怪しげな題名やら、その正反対に何も書かれて無いものも並べられている。
「望月産まれ、魔力の欠片があるお前は、相応しい本を選べる。取ってごらん」
少しばかり迷うローゼリア。目に止まったのは、古びてボロボロにくすみ、何色かも分からぬ斑模様に剥げた一冊。題名は背表紙にも表にも裏にも、何処にも見当たらない。表紙の四角に、黒ずんだ銀色の金具がはめ込まれている。
「開いてごらん」
言われるままに、ホコリを被ったそれを、ソロリと開いた。黄ばんだそこには何も書かれて無かった。
「何も書かれてありませんわ」
「そう、お前はまだ、『本の虫』を手に入れてないからだよ」
本の虫?なんですの?それは。と広げたままで問いかけるローゼリア。人間界の本の虫は、わたくしの様に日がな一日、籠もって読んでる者の事を指しましてよ、と赤の魔女に話す。
「ほぅぅ、フフフ、魔女界の本の虫はだね。そうだ、七番目、試しにお前のを見せてやるがよい、ククク」
ええ!姐様。大丈夫かなぁ。あの日以来、私の虫ちゃんヘソ曲げちゃって、出て来なかったんだもん。トコトコ近づいて来ると、ローゼリアの本を貸して、と手を差し出す。
……、虫ちゃん。私の虫ちゃん。とは?
不安になるローゼリアだが、七番目が手にしたそれを見て、目を丸くした。
「まあ!貴方が手にすると、なんて綺麗な葡萄色の表紙なのでしょう」
「やった!魔法、ちゃんと戻ってる。うん、魔力に反応するんだよ、大体、眼の色と同じになるの、んじゃ、見ててね、ノーム・オーム・ウオール!出てこい私の本の虫!」
頁に手のひらをかざす七番目。じっと見つめるローゼリア。
……、う、うにょ……うにょん、ずるり、ポトン。ぺた……。手のひらから出てきて落ちる葡萄色した『本の虫』
「………、え、む、虫って、虫!本当に!」
叫びそうになったローゼリアは慌てて口を覆う。
「えへへ、かわいいでしょう、私の本の虫ちゃん!葡萄酒色だよ」
得意気に胸を張る七番目。何も書かれていない紙の上に、色鮮やかな葡萄酒色した、うねうね蠢くぽってり長細い虫が、よじよじと身をくねらせ、のたうち回る。
「ま、まあ!ぶ、葡萄酒ちゃんが通った後に文字が浮かび上がって来ましてよ!」
「魔女文字だよ。自分の本の虫じゃないと、この文字は出てこないんだ、これは私の文字、読めるのは私だけ、ねー、葡萄酒ちゃん」
……、魔女文字。はう、目眩がしてきました。あの時、アレ、アレとはこの『本の虫』の事でしたのね。そして多分……。
「じゃぁ、ローズや、先ずはこの『本の虫』を捕まえるんだ、これが無ければ呪文ひとつ読めないからね、聞き覚えは出来ない、必ず目から入れて頭に届けるのさ」
「わたくしの本の虫!何処にいますの?」
お約束の展開に、ひー!となりつつも、弟子になったからにはと、ゾワゾワする気持ちを封じ込めるローゼリア。
「コレはね、血の契約なのさ、魔術書に宿る精霊とのね。魔女文字は虫を媒介し、自分の魔力を使って読む。少ない力の内は、ほんの数頁読めばぶっ倒れる、おぼえておおき」
一番目が教える。コクコクと頷くローゼリア。手に虫を戻した七番目が先の本を手渡してくる。
「頑張ってね!」
「ええ。その、気持ち悪いとかありませんでしたの?」
「そりゃあ!最初は気持ち悪かったよ、まるで葡萄の葉っぱをムシャムシャ食べる毛虫の毛無し、しかもつやつやぷるるん、葡萄酒色だよ。でもね、最後には可愛くなるから大丈夫」
その言葉を聞き、目の前がクラクラして来たローゼリア。
……、け!毛無しの毛虫!ああ!瞳の色に沿う様ですから、わたくしの虫様は、恐らく琥珀色。泣きたいです。だって、お庭で見かける蛞蝓に近くありませんこと?
しかしもう遅い。一番目が始めようと言い出した。
「その銀の金具で、小指の腹を切るのさ、そして頁を開いてひとたらし、さあ!やったやった!」
はい!心を落ち着けると言われた通りに動くローゼリア。チクリと痛みを伴い、小指の腹に血玉が膨らむ。表紙を開き何も無いそこにポタリ。と落とした。
「……、吸い込まれました!あ!あ!出、出てきましてよ!」
もぞり、もぞ、もぞもぞ……。土の中から顔を出すように、琥珀色した艷やかな本の虫が、にゅっと頭を出してきた。ズルズルと上に上に、ぷるんぷるんの身体をよじらせ出ようとする。
「こ、この子、どうしたら良いのですの?」
「手で捕まえるんだよ」
「手で捕まえる!」
この毛無しの毛虫、ぷるんぷるんな蛞蝓様を手で!捕まえる!『とおんでもない』現実を前に、本を持つ手が震えるローゼリア。
「もうすぐ出てくるよ!逃げ足速いからしっかり追いかけるんだよ!」
みょんみょん、尻尾を抜くように右に左に揺れている本の虫。やがて、スポン!と抜けると。
「きゃぁぁぁ!跳ねましてよ!どこ?何処に行かれたの?虫……、様!」
ピョンと開かれた頁から飛び出し、ポトン、ペタリ。床に落ちた。それをキョロキョロと探すローゼリア。
「ほら!足元にいるよ!」
「足元に。ハッ!居ましたわ!」
そこには大人の親指程の大きさをした、ローゼリアの『本の虫』の姿。彼女の予想通り、艷やかな琥珀色したソレ。
フフン、捕まえてご覧。と言わんばかりに、彼女の足元にペタリと床に張り付く本の虫。パタンと閉じると胸に抱き、そろそろとしゃがみ込む。恐る恐る手を差し伸ばすと。
ピョン!大きく跳ねる。キャッ!と声を上げ身を引いたローゼリア。その隙にシュルルルル!と逃げ去った虫。
「に、逃げてしまいました」
本を手にしたまま、ポツリと漏らすローゼリア。
「うん、逃げる。それを捕まえるのが最初のさいしょ、ほら本貸して」
頑張って、私は捕まえるのに七年とちょっとかかったんだから。と差し出されたソレを受け取り、励ます七番目。
「七年?!、わたくしはそんなにかけれません」
「大丈夫、殆ど運だから!ローズは強運持ってるし、捕まえるのが早かったのは五番目だよ」
三番目が五番目は、すーぐ捕まえたんだよと七番目の話を受け取り話す。どうやって?スカートを持ち上げ、スススと逃げる本の虫を追うローゼリア。
「フフフそう、まだこの時は弟子とはいえ、普通の人間。魔法も使えず、朝昼晩の食事もいる。ただ、追いかけるだけ。そう……、私は全てを投げ捨てた!飲食を断ち、寝る間も惜しんで追いかけたのさ!」
凄みのある顔つきで五番目が教えた。
「そうそう怖かった。髪はボサボサになってさ、目玉だけギラギラして、鬼ババそのモノ。人間辞めたのが直ぐにバレて、しかも闇の魔女とか言われ、下手すりゃ魔女狩りに遭うから、あんまりおすすめ出来ない」
四番目が魔女としての修行を見つかると、色々ややこしくなるから、なるべく見つからぬ様にするんだよ、と忠告し、指差した。
「ほら!そこにいる!一番目の足元!」
ちょろっと身を起こして立つ、ローゼリアの本の虫。
……、何かしら、物凄くこの虫に馬鹿にされてる気がするのですけど。
「分かりましたわ。そうですわね。見つからぬ様にいたしますわ」
敢えて虫を見ずに素知らぬ顔をし、近付くローゼリア。そして……、
「えい!ああ!逃げられました!くぅ!悔しいのです!」
パッと、しゃがみ込み、躊躇なく手で押さえたのだが、逃げられたローゼリア。少し先でフフフン!と言わんばかりに、虫が止まるとぷるるんっと身体を震わせた。
彼女と本の虫との追いかけっこが始まった。最初のさいしょ。