15.別れの時
真夜中。ナリアはベッドの上で目を覚ました。
大人二人が眠れる巨大なベッド。ナリアは毎晩、その中央で好きな姿勢を取って眠っていたが、今はベッドの右半分から、身体をはみ出さない様に心掛けている。
「──クウ、大丈夫? 傷は痛みませんか?」
ナリアは小声で、ベッドの左側に向かって声をかけた。ある日突然同居人となった"人間"──クウ。ナリアにとっては、伝説に語られる存在であり、掴み所のない弟分の様なものでもあり──命の恩人でもある。
クウは時折、背中に負った傷の痛みから、眠っている間も声を上げて魘される事があった。ナリアはそんな時、常備しておいた膏薬を塗り、包帯を巻き直し、クウの耳に届かずとも優しい言葉を掛けて、背中を撫でた。
クウの様子次第では、今もそうするつもりだった。
「クウ──?」
ナリアは寝返りを打ち、ベッドの左側を見る。──クウはいなかった。
◇◇
「──クウ。つまりお前は、ナリアに別れの挨拶も告げずに来たってのか?」
「一応、手紙を置いてきたよ。短い間だけど、面倒を見てくれてありがとうって。日本語が普通に通じるから、多分手紙も理解してもらえると思うんだけど」
「ああ、そりゃ正解だな。手紙の文字は読んでもらえるだろうさ。だが──控えめに言っても、馬鹿野郎だろお前。そういうのは、直に顔見て言うもんだろうが」
「分かってるよ。ただ、別れ際にナリアの顔見たら──多分、泣いちゃいそうでさ」
月明かりの差す真夜中のナトレの森を、クウとソウは、横並びになって歩いている。進路はソウが先導しているが、ソウにも土地勘が無い場所らしく、歩きづらそうな様子で進んでいる。
「あんだけ献身的に尽くしてくれたいい女の家を、よくもまあこんな去り方で出て行けるな。──最後にもう一度聞くけど、本当にここを出て後悔しねえんだよな? お前が女に不自由しねえ男には見えねえぜ、クウ」
「ここは、僕にとって居心地が良すぎるんだ。それも、僕がここ出る理由の一つなんだよね」
「居心地良いなら、ずっと居りゃあいいんじゃねえのか?」
「前世を思い出すんだ。──病室のベッドで、僕はずっと寝たきりだった。両親や看護婦さん、担当のお医者さん、全員が僕に良くしてくれた。だって僕は、一人では何も出来なかったから。死ぬ前の一週間は、スマホの操作さえ指が重くて一苦労だったよ」
ソウの表情が少し強張る。
「でも、今の僕は健全な身体を持ってる。賢者様の言った通りにね。僕はこの身体を、安全な場所で末永く幸せに暮らすために使うべきじゃない。僕は前世の分まで、誰かの役に立つことをするんだ」
「まだ、背中は相当痛むんだろ? ──へっ。茶化す気が失せたぜ」
ソウはフード越しに後頭部を掻く。
「まあ俺も、丁度別の領域に行こうとしてた所だしな。いいぜ。一緒に行こうじゃねえか、クウ。──ん?」
ソウは急に足を止めた。クウが、ソウの肩越しに前方を見る。
エルフの賢者、ウィルノデルが──一人で立っていた。
「ふむ──来たかね。お二方」
「賢者の爺さん……。何で俺達が分かったんだ? それに、一人か?」
「今は一人なのだね。君達の事を知れたのは、儂の"輪"である"叡智錐"の力なのだね。一度理解した対象の思考や行動は、輪を閉じて以降もある程度までなら予測出来るのだね。──つまりクウ君。君の考えを少しばかり、意図せずして知ってしまったのだね」
「なるほど。そういう事ですか」
クウは小さく溜息をつく。
「我が同胞達を助けてくれた恩に報いる事無く、君達の背中を見送る事は出来んのだね。──クウ君。まずは、これを受け取ってほしいのだね」
ウィルノデルは何処からともなく──緑色の巾着袋に似た物をクウに差し出す。クウは訝しそうにそれを受け取った。
「これは、何ですか?」
「我々エルフの魔術で拵えた魔道具なのだね。それは"床無し口"と言い、物品を大量に収納できる袋なのだね。その中には既に、役立ちそうな物を幾つか入れておいた。時間がある時、一つ一つ確かめてみるといいのだね」
「それは便利ですね。──ありがとうございます」
クウは丁寧に礼をするが、目はまだ怪しそうに袋を見ていた。
「ソウ殿には──これを」
「え、俺にもか?」
ウィルノデルがソウに差し出したのは、象嵌細工の様な装飾の施された──黒い短刀だった。
「それは"呪剥がし"。呪いの様に、継続的に作用する魔術そのものを断ち切る事が出来る短刀なのだね。きっと、役に立つ時が来るのだね。──例えば、君の大切な人の仇を討つ時に」
「──俺の事も、少しは知ってんのか」
「申し訳ない。──きっと誰しも、内に秘めておきたい事柄はある。しかし儂の力は、そういった立ち入るべきでない部分と、そうでない部分を区別してはくれないのだね」
「別にいいぜ。──実は、手頃な武器がもう一本欲しいと思ってたんだよな。ありがとよ」
ソウは受け取った短刀を、腰にしっかりと結びつける。
「──時にクウ君。痛みを無理をしてはおらんかね? 動けはするのだろうが、背中の傷はまだ、殆ど塞がっておらんと思うのだがね」
「痛みはあります。でも、だいぶ楽になって、今はもう我慢できない程じゃありません。──ナリアの塗ってくれた薬の効果ですかね。火傷の跡は残るだろうけど、この調子なら意外と早く治りそうです」
「安心すると良いのだね。──火傷の跡は残らない」
「えっ──?」
「クウ君の傷は、いずれ完全に快癒するのだね。君の持つ──黒の"輪"の力によって」
ウィルノデルはクウの顔を指差す。
「イルトにおける"輪"の魔術師は原則として、一つの色と固有能力を持った"輪"を、身体に備えている。しかし、生物として高い次元にある存在は、二つの"輪"を宿す事があるのだね。──その代表例こそが、"人間"なのだね」
クウはソウを見る。ソウも、二つの"輪"を使いこなしていた。青色と黒色の、二つの"輪"を。
「君は──まだ自分の本当の力を、発揮出来ていないのだね。──君の黒の"輪"は、あるべき生命の形を整え、歪ませる。与えつつも奪い、育みつつも蝕む。──この意味は、まだ分からんだろうがね」
「分かりづらいですね。──でも、警句として心に留めておきます」
「そうして欲しいのだね」
「──賢者様。見送りに来てくれたのは嬉しいんです。でも、それは魔道具のプレゼントと分かりづらい忠告だけが目的だったんですか?」
「いいや。一番の目的は違うのだね。君達を長話で足止めして──その子が追い付けるように、時間稼ぎをしたかったからなのだね」
ウィルノデルの視線がクウから外れた。クウとソウが、後方を向く。
──ナリアがいた。
樹木の一つに片手をついて、荒い呼吸をしている。足は裸足で土に塗れ、寝間着らしい衣服は所々が破れ、木の葉が絡み付いていた。
「──クウ」
ナリアがずかずかとクウに歩み寄り、クウの手を掴む。
「そんな状態で何処に行く気なんですか? ──賢者様、どうしてお一人でこんな所にいるんです? それに、ソウさんまで」
ナリアがクウの手を引くが、クウは全く動かない。
「クウ。戻って下さい。あなた、自分の身体の深刻さを分かってないんでしょう。戻りますよ。包帯を取り替えます。ほら──」
ナリアが、今度は両手でクウの手を引く。クウは──微動だにしない。
「ナリア──ごめん」
「いいですよ、許してあげます。さあ、ほら私の家に──」
「違うよ。僕は──もう、行くんだ」
ナリアのクウを握る手に、強い力が込められた。




