曝涼の夏
彼と、彼が愛した人の、一夏の話。
それはよく晴れたある暑い夏の日、隣駅からかなり離れたペットショップからの帰り道のこと。
「よいしょ、っと……」
彼はざらりとした感触の詰まった重たいポリ袋を肩に担ぎ直すと、じわじわと響く蝉の声の中、帰路を急いだ。その頭上には青空が広がっており、日陰も何もない畦道をひりひりと灼け付くくらいに照らしつけている。
猛暑の中を長い間重たい荷物を担いで歩き続けてきた彼の顔には、若干の疲労の色が浮かんで見えた。
「急がなきゃな……あいつが待ってる」
向かう先は、彼が最近新しく契約したばかりの一軒家だ。そこには、彼の最愛の人が、待っている。
家に着くと、上がり框を跨ぎ、どさりと荷物を下ろす。やけに冷房の効きすぎた部屋に入る時には、田舎らしく風流な玉のれんの音が、ちゃらちゃらと響いていた。
「おーい、ただいまー」
彼が家の中に声をかけるが、返事を返すものは一人もいない。
彼はそれを気にすることもなく、一度下ろした荷物を担ぎ直すと、きんきんに冷やされた部屋の中へと足を踏み入れた。
こざっぱりとした六畳間に置かれているのは、透明で大きめの衣装ケース。その中には猫砂が敷き詰められており、……彼の愛しい人が、その美しい瞳を閉じたまま横たえられていた。
「帰ったぞ、そろそろ砂の入れ替えの時期だからな、一緒にお風呂に入ろうか」
彼は何も答えない愛しい人の腋の下にすっと手を入れると、よいしょ、と持ち上げようとする。支えるように手首を掴み、ぐいっと上に圧をかけた途端、それはずるりと音を立ててもげた。
べちゃりと湿った音を響かせて、畳の上に落ちる肉塊。よく見るとそこからは、黄ばんだ白色の丸い虫がたくさん湧き出していた。ぶらりと垂らされたまま先の無い腕から、白いものが覗く。
「ああもうほら、またこんなにこぼして……」
彼は心底愛おしそうな優しい声でそう囁くと、慣れた手つきで側にあったタオルを手に取り、手首のもげてしまった部分を拭う。拭ったそばからぼたぼたと茶色い腐敗体液が零れ落ちるのを、彼は少しだけ悲しげな目で見ていた。
その身体はもうぐじゅぐじゅに溶けて原型を失いかけていて、手足や目の窪みが無ければ、もはや人と判別できるのかどうかすらも怪しかった。
「お風呂は、もう、無理そうだな。……せめて、砂だけでも」
ざらざらと音を立てながら、衣装ケースに猫砂が注がれてゆく。それは見る見るうちに、彼の最愛の人を埋め尽くす。それは頭と手足だけを出した格好で、まるでお風呂に浸かったままで眠ってしまった人のようにも見えた。
ケースから飛び出して、だらんと垂れ下がった手首から、したたり落ちる液体。
それとは別の何かが、ぽたりと畳に染みを作った。汗ではない、何かが。一度落ち始めたそれは、もはやとどまることを知らず、まあるい水たまりを作りながら、次々と畳に染み込んでいく。
本来ならば常人では寒気がするほどに、きんきんに冷やされた部屋。
近隣住民に匂いが届いてしまわないように、わざわざ新しく用意した片田舎の一軒家。
動物なんて飼っていないのに、アクセスの悪いペットショップまで足を運んで手に入れた猫砂。
それらは全て、最愛の人のためのものだったのだ。
「もう、潮時なのか……なあ、外を見てくれ」
彼は、これ以上最愛の人が崩れないように、ふわりと優しく遺体の頭を撫でると、弱々しく震える指を持ち上げて、ガムテープで密閉された窓から見える空を差した。
降り注ぐ雨音のようだったひぐらしの声が、今ではやけに、遠くに聞こえてくる。
「見てくれよ、もう、夏も終わりだなあ……」
彼らだけがぽつんと取り残された世界の外には、季節が変わる前の深く澄み切った青空と、油絵のように美しい入道雲が広がっていた。
彼らの夏は、終わりました。