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天国の彼女と第二ボタンの彼女

作者: 日下部良介
掲載日:2019/12/17

 終業時間が近づいたころ、部下の成瀬(なるせ)(よう)(すけ)が僕の所へやって来た。

「部長、今日は残業無しでお願いしますよ」

「ああ、解ってる」

 僕が答えると成瀬は鼻歌を歌いながら席に戻った。今日は新入社員の歓迎会が行われる。成瀬はその幹事をやっている。

 入社5年目、そろそろ脂がのってきたころで、新入社員の研修期間中は教育係もやっていた。今日の歓迎会を一番楽しみにしているのは実は成瀬だった。


 成瀬が予約した店は若者に人気のあるスペイン風のバルだった。営業企画部の全員が参加していた。その中で新入社員は男女一人ずつの二名。成瀬がこの歓迎会を楽しみにしていたのには訳がある。侵入社員の女性の方が成瀬のお気に入り、つまり好みのタイプだったからだ。飲み会が始まると、成瀬はずっと彼女の隣で熱弁をふるっていた。

 この部署は若い社員が多い。部長の僕でさえ、まだ30代後半だ。とはいえ、部下たちとの年齢のギャップは否めない。取り敢えず、参加したことで僕は義務を果たした。そう判断したので、あとは一人でゆっくり飲もうと思った。僕は幹事の成瀬を呼んだ。

「俺は先にお(いとま)するよ。あとは若い者同士で楽しくやってくれ」

「えっ! もう帰っちゃうんですか? 楽しくなるのはまだまだこれからですよ」

「最近、ちょっと体調が悪くてね」

 そう言って、スーツの内ポケットから金の入った封筒を取り出して成瀬に渡した。もちろん、体調が悪いというのは嘘なのだけれど。まあ、嘘も方便という。

「じゃあな」

 僕が席を立つと成瀬がひときわ大きな声を上げた。

「みんな! 部長が三万円出してくれたぞ」

 おい、おい、それを言っちゃだめだろう…。僕は苦笑しながらその場を後にした。背中越しに社員たちから歓声が沸き上がるのが聞こえた。

 店の外に出ると、僕は自分たちが入社した頃のことを思い出して空を見上げて微笑んだ。


 それから僕は行きつけのバーに来た。会社の誰にも教えていない、いわば隠れ家的な店だ。店にはカウンター席の端に先客が居た。僕と同年代のカップルだった。無口なマスターはカウンターの中でグラスを拭いている。

 僕はカウンター席に腰かけるとマスターにジンをロックで注文した。

「どうぞ」

 マスターはすぐにジンの入ったロックグラスを僕の前にそっと差し出すと、再びグラスを磨き始めた。僕がロックグラスを手にすると、奥のカウンター席に居た男性が突然大きな声を上げた。

「冗談じゃない。いくら使ったと思ってるんだ!」

 すると、女性の方はそれを意に返さず、タバコに火をつけた。

「別に頼んだわけじゃないわ」

 どうやら訳ありのようだ。僕は聞こえないふりをしてグラスを口にした。しばらくすると男性の方が席を立った。

「今日の分はこいつからもらってくれ」

 そうマスターに言うと、店を出て行った。残された女性は髪をかき上げ、ため息を吐いた。よく見ると、あどけなさが残る顔立ちではあったが綺麗な女性だった。

 ふいに目があった。彼女はバツが悪そうに軽く頭を下げた。

「追わなくてもいいんですか?」

 余計なお世話だとは思ったが、黙っている方が息苦しく感じた。彼女は何も答えず、ただ僕の方を見ている。

吉永(よしなが)くん?」

 彼女が不意に僕の名前を口にした。僕は記憶の引き出しを全開にして中にあるものを片っ端から引きずり出したけれど、彼女に関するものは何も出てこなかった。




 20年ぶりだった。彼女を最後に見たのは高校の卒業式だった。三年間同じクラスだったのだけれど、彼女の印象はほとんどない。唯一憶えているのは卒業式の当日にボタンが欲しいと言われたことくらいだ。

 ボタンをせがまれたとはいえ、僕もそれほどモテていたわけではない。だからこそ覚えている…。




 卒業式の式典が終わると、人気のある同級生の周りには第二ボタンを手に入れよとする女の子たちが集まった。僕はそれを横目にそそくさと教室を後にした。そんな僕を校門のわきで待っていた子が居た。それが彼女だった。

「もし、よかったら制服のボタンをくれませんか? 第二ボタンじゃなくてもいいので」

 僕は驚いた。同時に、少し誇らしい気分にもなった。しかし、その子の顔を見た途端、がっかりもした。

宮園(みやぞの)?」

 彼女は宮園裕子(ゆうこ)。クラスでも地味な女の子だった。僕には三年間片思いだった子が居た。その子はサッカー部のキャプテンだった同級生と付き合っていた。

「ダメならいいです。ごめんなさい」

 そう言って裕子は背を向けた。僕は彼女の肩に手を置いた。

「いいよ。あげる」

 僕は制服の第二ボタンを外して彼女に渡した。

「ありがとう。一生大事にするね」

「あ、ああ…」

 彼女は深々と頭を下げて、駆け出した。

 後で知った話だけれど、彼女は卒業するとすぐに引っ越すことになっていたらしい。




 そんな彼女と偶然再会した。あの時の面影は全くない。

「ずいぶん変わったな」

「そんなことはないわ。化粧のせいよ」

 そう言うと彼女はバッグを開けて何かを探し始めた。そして、その何かを見つけると顔をほころばせた。

「これ、私の宝物」

 そう言って僕に見せてくれたのはボタンだった。

「それって…」

「そうよ。あの時の。一生大事にするって言ったでしょう」

 それはあの時僕が彼女に渡した制服のボタンだった。


 僕はウイスキーのロックに変えていた。彼女は二杯目のマティーニを口にした。

「まだ持っていてくれているとは思わなかったよ」

「ねえ、今夜、時間ある?」

「ん? 時間があるからここに居るんだけどな」

「それじゃあ、付き合ってくれる? いいもの見せてあげる」

 そう言うと彼女は席を立って僕の腕をつかんだ。

「マスター、お金ここに置くわね」

 マスターが頷くのを確認して彼女は僕を引っ張って出口へ向かって歩き出した。




「知らない仲じゃないとは言え、ほぼ初対面なのにここはマズイだろう?」

 彼女が僕を連れて来たのはホテル街だった。

「吉永くん、奥さん居るの?」

「いや、居ないけど…」

「じゃあ、彼女は?」

「それも…」

「だったら問題ないよね」

 彼女は適当なホテルに入ると、パネルの部屋番号を押してフロントでカギを受け取った。そのままエレベーターで最寄りの階まで行き、部屋のドアを開けた。部屋に入ると彼女は僕をベッドに座らせた。

「ちょっと待ってて」

 そう言うと一人で浴室に駆け込んだ。しばらくして出てきた彼女を見て僕は驚いた。

「宮園?」

「だから、さっきからそう言ってるでしょう!」

 彼女は浴室で化粧を落としてきたのだ。そして、当時と同じように黒渕の眼鏡をかけている。あの頃の彼女がそこに居た。彼女はほとんど変わっていない。あの頃は地味で目立たなかったけれど、こんなに綺麗だったんだ。このことを知ったら、当時の同級生たちはみんな悔しがるだろうな。


「吉永くんは変わらないね」

「そうでもないよ…」

 そう、そうでもない。今、この年でもまだ独身で居るのにはそれなりの理由もある。




 大学に進学した僕は入ったサークルで気の合う友達を見つけた。彼女は何かにつけて僕の世話を焼いてくれた。そのうち自然に付き合うようになった。

「僕のどこがいいの?」

 そんなことを彼女に聞いたことがある。何を取っても中の中。特に目を引く何かがあったわけでもない。そんな僕と一緒に居ても楽しくないないのではないかと思っていた。

(ひろ)(のぶ)は私のこと好き?」

 逆に彼女に聞かれた。

「そりゃあ、好きだよ…」

「私のことを好きでいてくれるから」

 彼女はそう答えた。そんなのが答えだなんて釈然としなかった。彼女は他の男友達からも人気があった。その気になれば僕なんかよりいい男はいっぱい居たはずだ。

 大学を卒業すると同じ会社に就職した。そして、僕は彼女にプロポーズした。その時、初めて彼女の秘密を知った。

「私の寿命はもうすぐ終わるわ」

「えっ? どういうこと? 悪い冗談はよしてくれよ」

「病気なの。発病したのと同じころに博信と知り合った。延命のための治療をすれば私は私じゃなくなる。そうなっても博信は私のことを見捨てはしないのは解かっていた。でも、私は私が私でなくなるのが嫌だったの。どんな治療をしても助からないのなら私は私のまま逝きたいと思った。博信ならきっと、そんな私を分かってくれると思った…」

 彼女が告げた病名は誰もが知っている不治の病だった。嘘だと思った。嘘だと思いたかった。

「博信には感謝しているわ。実際、博信に出会ってから私の寿命はずいぶん長くなった。博信と一緒に生きたいと思ったからだと思う。だから、結婚は出来ないの」

 参った。彼女は誤解している。僕はそんなに強くない。今この瞬間にでも発狂しそうだ。でも、そうはならなかった。彼女はまだ僕の前に居る。彼女の思いに応えるのが僕の役目なのだ。だったら、彼女が望む彼女らしい彼女のままで逝かせてやろう。そう決心した。

「結婚しよう」

「だから…」

「だからだよ!」

「いいの?」

「いいんだ。そうしたいんだ」

「ありがとう。やっぱり博信は博信ね」

「当たり前だろう」

 彼女がクスッと笑った。僕は彼女を抱きしめて泣いた。

「でも、私が死んじゃったら、すぐに次の女の子を見つけてね。そうじゃないと博信は一生結婚できないかも知れないから」

 そう言って再び彼女は笑った。


 僕たちが結婚することはなかった。結婚式の当日、彼女はウエディングドレスに身を包んで天に召された。




 それから彼女とはしばらく高校の頃の話で盛り上がった。僕は彼女のことはよく覚えていなかったのだけれど、共通の話題はいくつもあった。そして、彼女が僕のことをどう思っていたのかも知ることが出来た。

「ところで、さっきの彼は…」

「ああ、彼ね…」

 少しの間をおいて彼女は再び口を開いた。

「高校を卒業して引っ越したのは知ってた?」

「うん、風のうわさで」

「そう…。その引っ越し先でいろいろあって…」

 そう前置きして彼女は話し始めた。話し終わった彼女はあのボタンを見ながら言った。

「このボタンを持っていたから、どんなことにも負けずにやって来られたわ。そして、また吉永くんに出会えた」

 彼女が浮かべた柔らかな笑みに僕は天に召された彼女の面影を見た。この出会いは彼女が用意してくれたのではないか。僕がいつまでももたもたしているから。すると、「そうよ。もたもたしていると、せっかくのいい子を他の人に取られちゃうわよ」そんな声が聞こえた。

「そうだね。まあ、ゆっくり進んでいけるように努力してみるよ」

 僕は彼女に向かってそう呟いた。

「えっ? なに?」

「いや、何でもない。さて、そろそろ行こうか。そもそも化粧を落とすだけならこんなところじゃなくても良かっただろう?」

「それもそうね。でも、あの時は他に思いつかなかったんですもの」

 僕たちはそこを出ると、狭い路地を並んで歩いた。触れるか触れないかの微妙な距離感で。そして、僕はあることに気が付いた。それはとても大事なことだった。意を決して僕は彼女に尋ねた。

「あのさ、連絡先を教えてもらってもいいかな?」

 僕の問いかけに彼女はにっこり笑って頷いた。


 




ある女性ユーザーさんとのコラボのために書き下ろした作品です。ボクが男性サイドの話を書きましたが、彼女には女性サイドの話を書いて貰うつもりでした。今回は実現しなかったのだけれど、いつか実現するのを楽しみに、この男性サイドの話を一足先に投稿しました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 読み応えのあるお話でした。 これからの二人の歩みも、ちょっと気になるラスト。想像が膨らみますね。
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