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その二 バルセロナ

午後七時半、バルセロナ空港に到着した。

 日本時間では、既に深夜の午前二時をまわっており、長時間飛行による疲労と共に、かなりの眠気も覚えた。

 入国手続きは一切無く、機内預けのスーツケースをピックアップした二人は売店で少し買いものをして、小銭を手に入れてから、タクシーに乗った。

 三池がホテルの名前を告げたら、タクシーの運転手はすぐ分かった。

 ホテルはバルセロナ市内のゴシック地区と呼ばれる旧市街周辺にあり、リセウ劇場と呼ばれるオペラ劇場のすぐ近くにあった。

 二十分ほどで着き、三池はメーター料金に空港送迎料金と称する加算料金を加え、チップ込みで三十ユーロ払った。

 タクシー運転手は、ブエン・ビアッヘ(良い旅を!)と陽気な口調で言って、車をまだ明るい街の通りに走らせていった。

 「バルセロナ空港からは、地下鉄とか空港バスも走っており、そちらの方が料金としては安いですが、何と言っても初めての街ですから、タクシーの方がより無難な選択でしょう」

 三池はスーツケースを押して歩きながら、香織に言った。

 スペイン語では、Hは常に無声音で発音されない。

 ホテルはオテル、小さなホテルであるホスタルはオスタルと発音される。

 バルセロナの四泊は部屋数二十ほどしか無いオスタルとしていた。

 オスタルのドアは閉まっていたが、インターフォンがドアの脇にあり、三池がボタンを押して、到着したことを告げた。

 少しして、ドアが開き、若い娘が姿を見せた。

 なかなか愛想のいい女の子だった。

 チェックインの時、香織はセニョーラ(奥さん)と呼ばれた。

 一瞬、恥ずかしそうな表情を見せた。

 三池は香織の表情に気付いたが、素知らぬ振りをした。

 ダブルベッドの部屋が用意されていたが、ベッド二つのツイン・ベッドの部屋に変えて貰った。

 部屋に通された二人はそれぞれのスーツケースを開け、当座必要となるものだけ取り出して、クローゼットとか箪笥にしまった。

 三池はシャワーを浴びて、少し寛いだ。

 三池はパジャマを着るのは秋と冬だけで、春と夏は半ズボンとTシャツという姿で寝る。

 暑苦しい恰好で寝るのはご免だ、というのが三池の好みであった。

 やがて、シャワーを浴び、着替えを済ませた香織が現われた。

 彼女は黄色のシンプルなパジャマを着ていた。

 色気の無い女だな、と三池は思った。

 少し失望した。

 もっとも、扇情的なネグリジェでも着て、色気たっぷりな姿でも困るが、と思い直した。

 なにしろ、旅の同伴者であって、生々しい男と女であってはならないのだから。


 一方、香織はテレビに見入る三池を見ながら、父とか兄以外の男と同じ部屋に泊まる経験は初めてであり、紳士然とした三池がひょっとして、男としての欲望に目覚めたらどうしようと思っていた。

 香織は何となく、三池に警戒心を抱く自分に嫌気を覚えた。

 その反面、その時はその時、なるようにしかならない、余計な心配をしてもしょうがない、とも思っていた。

 しかし、できるだけ、女を感じさせないように振る舞わなければならないと改めて思った。


 「さあ、二日目は無事に終わり、僕たちは今、スペイン第二の都市、バルセロナに居ます。今夜含めて、四泊しますから、気合いを入れて、名所見物に努めることとしましょう。美味しいものもいっぱい食べて、いい思い出をつくりましょう」

 明るい三池の言葉に、ええ、そうしましょう、三池さん、明日以降もよろしくお願いします、と香織は頷きながら言った。


 闇の中で、三池は目を覚ました。

 窓際の方のベッドからは、香織の規則正しい寝息が微かに聞こえている。

 三池は三十年ばかり前の、メリダに着いた初日の夜の出来事を思い出していた。

 闇の中、天井で何やら光るものがあった。

 それは、規則正しく明滅を繰り返していた。

 気になってしょうがなかった。

 起き上がって、部屋の照明を点けた。

 天井には何も無かった。

 妙だな、と思いじっくりと天井を仔細に凝視してみた。

 小さな黒いものがあった。

 椅子の上に立って、調べてみて、ようやく判った。

 蛍だった。

 小さな蛍で、日本で言えば、平家蛍と同じ位の五ミリほどの大きさしか無かった。

 また、灯りを消して、ベッドに横になった。

 蛍はまた、光り始めた。

 小さな体に似ず、闇の中でひときわ強い光を放っていた。

 朝、起きてがっかりした。

 蛍は死んで、床にゴミのように転がっていた。

 季節外れで、死ぬべき時に死なず、死にそこなっていた蛍の死骸を三池はつまみ、部屋の窓から外に捨てた。

 そのメリダの思い出は何となく、三池の心の中で、澱のように沈殿していた。

 ふと、香織も俺も、旬を逃した女と男か、と思った。


三日目 五月十一日(火曜日)

 目が覚めた。

 ふと、窓際を見遣ると、香織が窓の外を見ていた。

 既に着替えをして、化粧も終えていたようだった。

 朝の光の中で、窓際に立ち、通りを眺めている香織の横顔は三池をドキリとさせるくらい、綺麗だった。

 こんなに綺麗な女だったのか、と三池は異性に対する少年のようなトキメキ感を覚えながら思った。

 それと同時に、自分の「老い」も強く意識した。

 疼くような悲しさを伴っていた。

 三十歳の頃、俺は別な工場に転勤になった。

 その挨拶を兼ねて、久しぶりに山本健一の家を訪れた。

 香織は十歳の女の子だった。

 山本は工場の労働組合の委員長から中央に出て、上部団体である労連の副委員長として転出する時でもあった。

 香織が出てきて、きちんと挨拶した。

 綺麗な女の子に成長していた。

 元々、綺麗な顔立ちをしていたのに、俺が本社に異動してきた時は、少しくすんだような顔になっていた。

 俺が五十歳で、彼女は三十歳を迎えていた頃だ。

 その後、本社から工場に異動して、部長として本社に戻ってきた時、俺はもう五十五歳になっていた。

 その時、初めて俺は彼女の上司となった。

 彼女は三十五歳になって、物腰は洗練されていたが、地味な女になっていた。

 そんな彼女を見て、俺は少し悲しかった。

 が、今、こうして見ると、香織はやはり端正で綺麗な顔立ちをした女性であった。

 彼女を独身のままにしておいた世の中の男共はまことに目が無いな、と少し義憤にも似た思いで三池は香織の横顔を見た。


 オスタルに朝食は付いていなかった。

 貴重品を全て、室内に備え付けられている金庫に入れて、身軽な格好でオスタルの外に出た。

 人通りの多い道を歩いて、二百メートルほど行ったところに、サン・ジュセップ市場という大きな市場があり、そこのカフェテリアで朝食を摂った。

 香織はカフェ・コン・レチェ(カフェ・オ・レ)とクロワッサンを注文し、三池はトマト味が好きだったので、一度食べたいと思っていたガスパーチョ(トマト風味の野菜入り冷スープ)を注文した。

 軽い朝食とするつもりだったが、カマレロ(ボーイ)が持ってきたガスパーチョを見て、あまりの量の多さに愕然とした。

 それだけで、満腹になってしまう量であった。

 スペインの一人前は量が多い、注意しなければなりませんね、と香織に言い、三池は少しうんざりした表情をした。

 この市場は大きな建物の中にあり、建物の外観だけ見たら、とてもこの中に市場があるようには見えない。

 カフェを出て、暫く市場の中をあちこち見て廻った。

 バル(飲み屋)もあり、お決まりのハモン・セラーノ、最高級のハモン・イベリコ・ベジョータという生ハムを売る店もあった。

 ハモン・イベリコ・ベジョータという生ハムには、百グラムほどで、十ユーロほどの価格が付いていた。

 その他、各種の肉、野菜、フルーツ、パン、ケーキなどを売る店がぎっしりと詰められていた。

 皮を剥かれて吊るされていた小動物の肉の物体があった。

 猫のように見えた。

 三池は興味をそそられ、包丁を研いでいた店員に、何の肉か、訊いてみた。

 コネホ(兎)という返事が返ってきた。

 二人は市場全体をぐるっと回ってみた。

 食料品の他、衣類とか雑貨も売られていた。

 ここだけで、全て間に合ってしまいますね、と言いながら、三池と香織はその市場を出て、オスタルの方の道を辿った。

 オスタルの近くには地下鉄・リセウ駅があり、二人はとりあえず、T―一〇という十回乗車できる回数券を買い、二週間先とはなるが、二十七日のコルドバからマドリッドまでの新幹線の切符を買うために、スペイン国鉄のサンツ駅に行くこととした。

 地下鉄は結構混雑していた。

 掏りが多いという話は聞いていたが、身軽な格好の二人は観光客には見えず、それほど注目されることも無く、地下鉄に乗り込むことができた。

 「新幹線はAVEと言います。アベはスペイン語では『鳥』という意味ですが、本当は、アルタ・ベロシダッ・エスパニョラ(スペイン高速鉄道)という言葉の三つの頭文字、A、V、Eを繋ぎ合せたもので、鳥のように速く走る、というイメージを持たせた略字です」

 三池は更に続けた。

 「但し、技術的にはフランスの新幹線技術を導入したものであり、スペイン固有の鉄道技術はあまり入っておりません。そして、速度は我が国の『のぞみ』並みに最高時速三百キロは出す、ということです。上海のリニア・モーター・カーの四百三十キロには敵いませんが、相当なスピードで走ります」

 リセウ駅から地下鉄・三号線でソナ・ウニベルシターリア方面の電車に乗り、サンツ・エスタシオーン駅で降りた。

 RENFEと略称されているスペイン国鉄の駅であるサンツ駅はその地下鉄の駅に隣接している。

 サンツ駅の構内は旅行者で混雑していた。

 切符売場は当日券と前売り券で売場が分かれていた。

 前売り券の切符売場では少し並んだが、無事に切符を買うことができた。

 二週間以上前の事前購入ということで、結構割り引きがあり、予想より大分安い料金で買うことができた。

 「大分、安い料金で買うことができました。カフェの何回分かは儲けましたね」

 「日本よりは随分と安い料金で新幹線に乗れるんですね」

 三池の言葉に頷きながら、香織も少し嬉しそうに言った。

 「今度は、また地下鉄に乗って、バス・ターミナルに行き、今後乗る予定のバスの切符を一括して買っておくことにしましょう」

 サンツ・エスタシオーン駅(カタルーニャ風に言えば、サンツ・エスタシオ駅)から地下鉄・三号線のトリニタート・ノバ方面の電車に乗り、エスパーニャ駅で地下鉄・一号線のフォンド方面の電車に乗り換え、アルク・デ・トリオンフ駅で下車して、五分ほど歩いたところに、北バス・ターミナルがある。

 そこで、バルセロナからコルドバまで乗り継ぐバスの乗車券を全て買った。

 地下鉄の路線図を眺めながら、三池は改めてスペインでの言葉の不統一性をまざまざと実感した。

 表示されている言葉と発音が三池が習ったスペイン語と微妙に異なっているのだ。

 三池が覚えたスペイン語は、このスペインではカスティーリャ語であり、ここバルセロナではカタルーニャ語と呼ばれる現地の言葉で全ての公共施設が表示されているのだ。

 駅はエスタシオーンと三池は習ったが、バルセロナではエスタシオと表示されている。

 統一言語はカスティーリャ語であるはずなのに、カタルーニャ語が使われているのだ。

 頑固で、地域毎にそれぞれプライドの高い国民性がなせるわざかと思った。

 フランコ将軍が独裁政権を握っていた頃はカスティーリャ語に統一させられていたが、フランコが死んでからは地域性が前面に押し出されているらしい。

 バスの切符売り場では、前もって準備しておいたバスの乗車予定を書いた紙片を切符販売担当に渡し、バルセロナからバレンシア、バレンシアからグラナダ、グラナダからマラガ、マラガからセビーリャ、セビーリャからコルドバまでの一連の乗り継ぎのバスの乗車券を買った。

 「凄い、凄い、三池さんはやはり旅慣れていらっしゃるんですねえ。こんなに、スムースに何枚もの切符が纏めて買えるなんて、私にはもう奇跡としか思えませんわ」

 香織が感心したような口調で言った。

 褒められて悪い気はしない。

 三池は照れ隠しに、時計を見た。

 もう、十二時をかなり過ぎていた。

 二人は北バス・ターミナルの中にあるカフェテリアで昼食を摂った。

 ボカディージョと呼ばれるサンドウィッチをオレンジ・生ジュースを飲みながら、つまんでお昼とした。

 「香織さんはそれほど苦労しないでも体型を維持しているんでしょうけれど、僕は生まれつき肥る体質で、五十歳を過ぎた頃から常時ダイエットには気を付けているんです」

 「でも、男の人は少し太めの方が貫禄がついていいと思いますわ。もっとも、うちの父は晩年かなりのメタボでしたけど」

 「ここ、スペインは料理にかなりのオリーブ油を使います。何と言っても、油ですから、注意しないとこの一ヶ月の旅でかなり肥ってしまいますよ。とにかく、野菜もいっぱい食べなければ」

 「あら、三池さんは野菜信仰者なんですね。でも、三池さんはお腹も出ていらっしゃらないし、スマートな体型ですから、少し肥っても大丈夫だと思います」

 「実は、今もビールが飲みたくてうずうずしているんです。今夜の夕食では、少しビールを飲んで、肥りましょうか」

 二人は昼食を済ませ、カフェテリアを出た。

 「香織さん、バルセロナと言えば、何と言っても、ガウディのサグラダ・ファミーリア(聖家族教会)です。聖家族と呼ばれる、イエス、マリア、ヨセフの三人を祀る教会です。もっとも、ヨセフは仮の父親とされていますけどね。何と言っても、イエスは神の子供ですから」

 「三池さん、早速行きましょうよ」

 香織は行きたくて、うずうずしているようであった。

 二人は、地下鉄のアルク・デ・トリオンフ駅から地下鉄・一号線のフォンド方面の電車に乗り、クロットという駅で地下鉄・二号線のパラル・レイ方面の電車に乗り換え、サグラダ・ファミーリア駅で降りた。

 駅から出たが、肝心のサグラダ・ファミーリアは見えない。

おかしいな、と思いながら、後ろを振り返ると、そこにサグラダ・ファミーリアが聳え立っていた。

 予想よりも巨大な建築物であり、二人はその巨大さにまず圧倒された。

 「随分と大きな建築物なんですね。これでは、近くからでは、とても写真におさまりません」

 香織は言い、かなり遠くまで離れて、写真を撮っていた。

 「何と言っても、高さは百五十メートルもあります。この建物は完成まであと百年はかかるとか二百年はかかるとか言われています。でも、ヨーロッパの寺院ではこうした年数は実は珍しくはないんですね。竣工、というか、落成まで、三百年或いは四百年かかったという話は結構耳にしますから」

 「どうも、年数に関しては、日本人の感覚とは随分と違う感覚ですよねえ」

 「アントニオ・ガウディの仕事としては一番有名なんですが、ガウディという人も結構変わった人です。八十何歳まで生きた人で、最後は路面電車に跳ねられて亡くなったんですが、浮浪者と間違われるくらい質素な身なりだったそうです。生涯独身でした。独身、ということだけは、僕も一緒ですが」

 三池は笑いながら、香織に言った。

 「ガウディにはパトロンがいました。グエルさんというお金持ちで、若きガウディを見出して、いろんな建築を造らせたそうです。今残っている有名なものでは、グエル公園、グエル邸、グエル別邸があり、みんなこのバルセロナの観光名所となっています。このバルセロナはガウディに一杯感謝しなければなりませんね」

 入場料を払って、中に入り、辺りが薄暗くなるまでじっくりと見物した。

 エレベーターにも乗り、塔のかなり上から螺旋階段を伝って降りたりもした。

 内部は工事中のところが多かったが、完成しているところの造形は素晴らしく、二人はその奇抜さ、造形の妙に圧倒された。

 その後、サグラダ・ファミーリア駅から地下鉄・五号線のコルネーリャ・セントロ方面の電車に乗り、ディアゴナル駅で地下鉄・三号線のソナ・ウニベルシターリア方面の電車に乗り換え、リセウ駅で降りた。

 オスタルに寄り、部屋で少し休憩してから、オスタルを出て、周辺のゴシック地区と呼ばれる地域を散策した。

 「香織さん、スペインにはバルと呼ばれる一杯飲み屋があります。英語で言えば、バーなんですが、日本人の感覚であるバーとは違います。タパと呼ばれるおつまみが何種類もあり、それを取って、おつまみとしながら、酒を飲むところです。複数でタパスとなります。まあ、バルのイメージは酒よりはタパが主と言っていいですね。昔、僕が住んだメキシコにもバルはありましたが、こちらは、どちらかと言えば、日本のスナックみたいな感じで食べどころというよりは、飲みどころといった感じが強かったですね。時々、流しのトリオが入ってきて、お客の注文で何曲か歌っていきます」

 「賛成。是非、バルに入ってタパを食べてみましょうよ」

 二人は、朝食を食べた市場、サン・ジュセップ市場に行き、そこにあるバルに入り、タパを何種類か注文して食べて、夕食とした。

 エストレージャというバルセロナの地ビールがあったので、二人はそのビールを飲みながら、生ハムとか海老のオイル炒めのタパをつまんだ。

 タパにはいろいろな種類がある。

 バルによっては、百種類ほどある店もある。

 有名なタパとしては、ハモン・セラーノという生ハム、チョリソという豚肉のソーセージ、アルボンディガスという肉団子のトマト煮、ガンバス・アル・アヒーリョという小海老のニンニク・オイル炒め、アルメーハス・ア・ラ・マリネラという浅利の白ワイン煮、カラマーレス・フリートスというイカリングのフライ、チョピートス・フリートスというホタルイカのフライ、クロケッタというクリームコロッケ、カラコレスというカタツムリのソース煮込み、など枚挙に暇が無いくらい、たくさんある。

 二人が食べていると、どこから来たんだい、という声がした。

 声がした方向を見ると、隣のテーブルに居た数人の年配の男たちが好奇の目を二人に向けていた。

 日本だよ、と言うと、日本人かい、と更に訊く。

 そう、日本人だよ、今、観光旅行をしているんだ、と三池が答えた。

 ここで、どこを観た、と訊いてきたので、今日はサグラダ・ファミーリアを観て来た、良かったかい、とても感激したよ、と会話は続いた。

 そんな三池を香織は尊敬の目で見ていた。

 会話の内容は分からなかったが、外国に来て、その国の言葉で会話を交わす、ということが香織には素晴らしいことと思われた。

 バルの中では、煙草の吸殻も、ピンチョと呼ばれる長めの爪楊枝のようなものも床に捨てられる。

 スペインのバルでは床がこのようなゴミで散らかっているほど、繁昌している良い店だと昔聞いたことがあります、と三池は香織に言った。

 九時頃まで空は結構明るく、暗くなったのは十時頃であった。

 十一時頃、店を出て、オスタルに戻った。

 少し飲み過ぎた、と三池は思った。

 シャワーを浴びて、ベッドに入った。

 市場には独特な臭いがある、と三池は思った。

 メリダの市場より臭いはきつくないものの、市場独特の饐えた臭いがしていた。

 メリダの市場に初めて入った時、この悪臭にはほとほと閉口した。

 しかし、その内、気にならなくなった。

 長く住むということは、においにも鈍感になることらしい、と当時は思った。

 日本に帰ってきて、どういうわけか知らないが、あの臭いが郷愁を誘う懐かしいもののように思えた。

 今日は、久しぶりに、あの懐かしい臭いをかいだような気がする。

 香織がバス・ルームから現われた。

 相変わらず、黄色のパジャマを着ている。

 ふと、香織にとって、郷愁を誘われるにおいはあるのだろうか、いつか訊いてみよう、と思った。


四日目 五月十二日(水曜日)

 眠りが浅く、朝早く目を覚ましてしまった。

 香織はまだ寝ており、薄暗さの中で、三池は香織の寝姿を見ていた。

 羽毛の薄手の掛け布団であったので、体の線が判った。

 横向きで寝ている香織の背中から腰にかけてのラインと、張り出したお尻の膨らみにふと欲望を覚えた。

 しかし、どうなるものでもない。

 香織との暗黙の契約は遵守しなければならない。

 いつの間にか、また眠りについた。

 次に、目を覚ました時には、香織は既に身づくろいを済ませており、軽いコロンの香りを漂わせていた。

 「昨夜のバルでは、三池さんが地元の方と会話を交わしておられる様子を見て、私、感動しました」

 「それはまた、大袈裟な。外国人が話す単純な会話に過ぎませんでしたよ」

 「でも、私、三池さんを尊敬しますわ」

 女性から褒められて悪い気はしない。

 三池はともすれば、ニタニタとなりそうな表情を抑えて、香織に言った。

 「さて、今日も朝食はサン・ジュセップ市場にしましょうか。その後、昨日は中途半端になってしまったゴシック地区を重点的に見てまわることとしましょう。いろいろと歴史的に面白いところらしいですよ」

 二人は歩いて、昨日の市場のカフェテリアに行った。

 三池はカフェ・コン・レチェとパン・コン・トマテ(スライスしたフランスパンにオリーブオイルとトマトを塗ったもの)で軽めの朝食とした。

 香織は昨日と同じ、カフェ・コン・レチェとクロワッサンで、コンチネンタル風な朝食とした。

 「パン・コン・トマテはバルのタパのメニューの一つですが、なかなか美味しいです。僕はメキシコ生活以来、トマト風味が大好きで、ミネストロネ・スープもよく作って食べます。死んだ母にも結構評判が良かった」

 「お母様が亡くなられて、もうかれこれ十年ですよねえ」

 「そうです。僕が五十歳で初めて、本社勤務になった頃ですから」

 「丁度、私の父も同じ頃に亡くなりました」

 「僕もがっかりしました。山本さんと僕は十五歳ほど違っていましたが、年が離れた兄貴のような存在でしたので。やはり、お酒が祟ったのですかねえ。六十五歳ではまだ若過ぎた死でしたね」

 「正直に言って、父が亡くなった頃、私は三十歳で一番結婚したかった頃でした。父のお蔭で、いわゆる縁故採用みたいな形で会社に入り、十年が過ぎ、仕事の方は一応順調にこなせていましたが、女は三十歳を迎えると、どうしても結婚に焦りを感じるものなんです。お見合いして、早く結婚しようと思っていました。でも、父が亡くなり、母を残してお嫁に行くことはできませんでした。実を言いますと、母は兄嫁とどうもしっくりいかなかったのです。私の目から見たら、母も兄嫁も結構強いところがあり、折れて仲良くするという何でもないことが苦手だったんですね。十歳違う兄は兄で、三池さんもご承知のように、人はいいんですけど、母と兄嫁の間を取り持つ役割は苦手でした。結局、母は私と暮らすこととなり、お見合いのお話も断り、現在のような状況になったのです」

 三池は香織の言葉を聴きながら、そのざっくばらんな語り口に驚いていた。

 いつも、どちらかと言えば、お澄ましタイプの香織がこのような家の内情をいくら長年の知り合いとは言え、他人である自分に話すなんて、考えられないことであった。

 一方、香織は香織でやはり驚いていた。

 母と兄嫁の確執を話すなんて、何と言う『はしたないこと』を私はしているのかしら。

 市場の中は活気に満ちており、カフェテリアの中もかなり混んで来た。

 二人は少し冷めたコーヒーの残りを飲んで、立ち上がった。

 朝食の後、オスタルの方の道を戻り加減に歩き、途中から左手に曲がり、レイアール広場に行った。

 それから、王の広場、サンタ・カタリーナ市場を経由して、ピカソ美術館に行った。

王の広場は、新大陸を発見したコロンブスがパトロンのイサベル女王に謁見したところとして有名な広場であり、まさに輝ける中世がそのまま息づいているところであった。

 「コロンブスは自分が到達したアメリカ大陸を死ぬまで、インドと思い込んでいた、という話はあまりにも有名です。お蔭で、アメリカ大陸の先住民は、インド人、つまり、インディアンになってしまったんですね」

 三池は笑いながら、香織に言った。

 サンタ・カタリーナ市場はカテドラル(大聖堂)から歩いて五分ほどのところにあり、地元の人で賑わっていたが、三池たちのような観光客はあまり見掛けなかった。

 新鮮な野菜、シーフードが豊富に店頭に並び、オリーブオイルの専門店もあった。

 オリーブオイルって、こんなに種類があるんですねえ、と香織は感心していた。

 ピカソ美術館は少し判りづらい路地にあった。

 ともすれば、見落とし易い路地にあったが、旅行者の流れでそれとなく判った。

 しかし、入場券売場には行列ができており、十五分ほど待たせられた。

 ピカソ美術館は、ピカソの幼少期から「青の時代」の作品を集めた美術館として知られている。

 ピカソはマラガで生まれたが、十四歳の時、このバルセロナに来た。

 行列の中に並んで、入場券を買い、ロッカールームで所持品を預け、二階に上がってピカソの絵を鑑賞した。

 抽象画を描いたピカソしか知らない三池の眼に、少年のピカソが描いた絵の完成度の高さは驚嘆すべき芸術と映った。

 ピカソは幼い頃から、天才であった、そして、天才は天才として生まれるとしか言いようがない、と三池は圧倒的なピカソの才能に驚嘆を感じながら、そう思った。

 二人は一通り、鑑賞した後、美術館の中にあるカフェでお茶を飲んだ。

 カフェは少し混んでいたが、空いているテーブルがあり、座ることが出来た。

 香織は売店で買った絵葉書を見ながら、昨日のサグラダ・ファミーリアといい、今日のピカソといい、今回のスペイン旅行は二重丸ですわねえ、としきりに言っていた。

 二時間ほど見物してから、美術館を出て、オスタルに戻る途中の道にある、ラス・キンザ・ニッツというレストランで昼食を食べた。

 レスと書いて、ラスと呼ぶのもカタルーニャ語の特徴です、と三池は香織に言った。

 二人は、メヌ・デル・ディアと呼ばれるランチ定食を注文した。

 いろいろと選べる定食であったが、二人は赤ワイン、ジャガイモ風味のスープ、チキン・ソテー、フルーツ・ポンチといったコースで食べた。

 「こんなことを訊いていいかしら」

 香織がふと、目を上げて、三池に語りかけた。

 「いいですよ。どんなことです?」

 「あのう、三池さん。三池さんはどうして結婚なさらずに独身を通したんですか?」

 三池は少し考えた後で、ぼそぼそと呟くように言った。

 「僕は、小さい頃に、父親を亡くし、母子家庭で育ちました。兄弟もおらず、母一人、子一人といった暮らしの中で、母親の苦労を間近に見て、大きくなりました。大学院まで出してくれた母親に感謝して、就職して数年経ち、落ち着いたところで母を呼んで、一緒に暮らしました。男というのは、不思議なもので、衣食住何一つ不自由のない環境下ではあまり結婚を考えない生き物です。よく、親元から通勤する男の結婚は遅くなるというじゃあないですか。僕の場合も一緒で、朝は起こしてくれる、料理は作ってくれる、洗濯はまめに行なってくれる、部屋は綺麗に片づけてくれる、といった、母親との同居生活の中で結婚して新たな家庭を持つ、という発想にはなりませんでした。また、仕事も結構忙しく、女性と交際するといった気持ちの余裕もありませんでした。山本さんたちとわいわいしているのが楽しく、三十歳にはあっという間になりました。三十で係主任、三十五で課長補佐、四十で課長、四十五で副部長、五十歳で部長、と比較的順調に昇格、昇職していきました。この間、上司とか親戚に勧められて、見合いも何回かしましたが、どうもピンと来るものが無く、お断りするのが常で、その内、呆れ果てたのか、誰も縁談話を持ち込んで来なくなりました。結局、今の私がおります」

 三池は語り終え、少し自嘲気味に嗤った。

 私がいたじゃありませんか、と香織は言いたかった。

 昼食を食べて、二人はオスタルに戻り、少し休憩した。

 午後はモンジュイック地区を訪れることとした。

 地下鉄・リセウ駅から、地下鉄・三号線のソナ・ウニベルシターリア方面の電車に乗り、エスパーニャ駅で降りて、スペイン広場、バルセロナ見本市会場を通り抜けて、モンジュイックと呼ばれる丘に向かって歩いた。

 スペイン村と呼ばれる一画に入場料を払って入り、一時間ほどぶらついた。

 スペイン村というところは、日本で言えば、明治村とかリトル・ワールドみたいなところだ、と三池は思った。

 スペインの代表的な建築のレプリカが配置され、それぞれの特色ある雰囲気を醸し出していた。

 中に、レストラン、バルもあり、フラメンコ・ショーも行なわれていた。

 路地があり、両側の家の白壁に挟まれるように歩いた。

 広場の石のベンチに腰を下ろして少し休んだ。

 猫が足下に寄って来た。

 香織が触ろうとしたら、猫はさっと身を翻して逃げて行った。

 私って、猫にも嫌われる、男の人が寄りつかないのも当たり前ね、と香織は思った。

 「このあたりは、やたらと猫が多いですね。犬はほとんど見かけないのに」

 と、香織が言った。

 「日本でもそうですよ。昔は、犬、と言っても、野良犬をほうぼうで見かけましたが、最近では、野良猫は見かけますが、野良犬はほとんど見かけません。つかまえられて、処分されるので、いなくなったのかも知れませんねえ」

 「そう言えば、自分が飼っていた愛犬を処分され、それを恨んで、厚生省の次官を襲撃した人がいましたよねえ」

 「一種の逆恨みです。殺害された元次官は何ともはや、災いとしか言いようが無い」

 スペイン村を出て、カタルーニャ美術館、民族学博物館、カタルーニャ考古学博物館を経て、ミロ美術館に入った。

 ミロ美術館では、屋上に出て、透き通るような青空の下で、真っ白な空間に映えるミロのカラフルなオブジェを眺めながら、午後の豊饒としか言いようのない時間を過ごした。

 ミロはシンプルさを追求した芸術家であると三池は思った。

 三次元の立体は、二次元の面に凝縮され、二次元の面は一次元の線にさらに圧縮され、線もやがては点にまで昇華される。

 ミロの晩年のシンプルな絵画に驚嘆を覚えつつ、三池はそんなことを漠然と思っていた。

 帰りは、軍事博物館を少し覗いてから、ロープウエイでバルセロネータと呼ばれる海辺まで下りた。

 海を渡るような感覚を抱かせるロープウエイであった。

 エル・バッソ・デ・オロという名前の洒落たバルの看板が目に入った。

 金のグラスとか、金のコップという意味です、入ってみましょうか、と三池が誘った。

 二人はそこで、タパを二、三つまみながら、カタルーニャ地方名物のカバ(発泡ワイン)を飲んだ。

 「三池さん、現在は郷里の街で、悠々自適ですか?」

 香織が微笑みながら言った。

 「悠々自適、とまでは行きませんが、新築の小さな家で、自由気儘な生活をしています」

 「小さな家って、どんな造りなんですか?」

 私の居場所って、あるかしら、と香織は一瞬思った。

 「玄関を入って、正面に和室があり、その脇がキッチン兼リビングの洋間になっています。奥に二部屋ほど洋間の部屋があります。寝室と、まあ、書斎に使っていますけど」

 「と、言うと、三LDKといったところなんですね」

 「普段は、リビングでごろごろしており、時々はそのまま、ソファで寝てしまいますよ。和室と書斎なんか、使ったことが無い」

 「時間を持て余す、ということは無いんですか?」

 「それは、幸い、ありませんね。近くに、まあ、車で二十分ほど走れば、大きな市立図書館もありますし、ウォーキングと称して、周辺を歩きまわったり、クラブを担いでゴルフ練習場に行ったり、音楽をぼんやりと聴いていたりして、結構時間は有意義に使っているつもりです。今は、衛星放送の映画にはまって、録画をしておいて、夜何にも無い時に、まとめて観ています」

 「もう、会社勤めには未練が無いということですか」

 「三十五年ほど働き、ご飯だけは何とか食べられますから、身過ぎ世過ぎのため、働き口を見つける必要は無いと思っています。まあ、その内、暇を持て余すようになれば、何か遣り甲斐の持てる仕事をするかも知れませんがねえ」

 「私は、生意気なことを言いますが、三池さんはうちの会社の役員になる人だと思っていました」

 「おやおや、香織さん、それは貴女の買い被りですよ。僕にはそんな力なんかありはしない」

 「いえ、うちの父が或る時、三池さんのことを言っていました。役員クラスになる能力、資質は十分にあるが、惜しむらくは、自分を引き立ててくれるボスを持たない、持とうとしない、有力な人に媚びない、媚びようとしない、何か超然とした雰囲気がある、これは三池君のいいところであるが、会社人間としてはいいところでは無い、残念だけど役員にはなれないかも知れないよ、と言っておりました」

 三池は香織の言葉を聴きながら、山本の言葉は正しかったかも知れない、と思った。

 会社にはいろんな派閥があり、餓鬼大将みたいな剛腕ボスも居る。

 その傘下に与することで、出世がはやくもなり、最終的には役員への道も開ける。

 能力だけで上に登っていこうとする人は、最終的には「運」があるかどうかだ。

 「運」が無ければ、その人の会社人生は未完のまま終り、型通りの定年退職となる。

 しかし、俺は別に後悔はしていない。

 いや、本音を言えば、少し悔しいところは感じるが、それだけだ。

 役員になれなかったお蔭で、今こうして自由な時間を香織と楽しむことができている。

 贅沢な旅行は無理としても、年に一度程度はこのような自由気儘な旅をすることができる。

 他に、何を求めようというのだ。

 その店を出て、二人は北に向かい、ゴシック地区に入り、カテドラルの少し北の方角にある、ピカソゆかりのカフェとして知られる、クアトラ・ガッツというカフェテリアでお茶を飲んだ。

 カタルーニャ語では、クアトラ・ガッツ(四匹の猫)と発音されますが、カスティーリャ語、いわゆる、スペイン語ではクアトロ・ガトスと発音されます、と三池は香織に言った。

 その後、オスタルに戻った三池はシャワーを浴びながら、山本が自分に関して言った言葉が心の中で澱のように沈殿し、沈着していくのを感じた。

 と同時に、役員になれずに、定年退職を迎えた自分に内心は忸怩たる思いを感じていること、役員になっている同期の仲間に対する嫉妬めいた感情も併せ持っていることに気付き、少し暗澹たる気分に陥った。

 悟りきったつもりでいても、そうそう、悟りきることなんか、なかなかできやしないものだなあ、畢竟俺も俗物に過ぎない、とつくづく思った。

 ふと、香織の方を見たら、香織は成田からの飛行機で貰った週刊誌を所在無げに見ていた。

 もし、彼女と結婚していれば、もう少し違った人生になったかも知れない。

 三池はそんなことを思いながら、バルコニーから暮れていく通りを眺めた。


五日目 五月十三日(木曜日)

 目が覚めたら、八時を過ぎていた。

 香織もつい、寝過ぎてしまったようだ。

 二人はお互いの寝坊振りを冷やかしながら、オステルを出た。

 昨日は、少し食べ過ぎたせいか、お腹が空かず、朝食は抜くこととした。

 サグラダ・ファミーリアをもう一度訪れてから、ガウディの建築群を集中的に観るためにアシャンプラ地区周辺を観ることとした。

 リセウ駅から地下鉄・三号線のトリニタート・ノバ方面の電車に乗り、ディアゴナル駅で地下鉄・五号線のオルタ方面の電車に乗り換え、サグラダ・ファミーリア駅で下車した。

 サグラダ・ファミーリアの中を観てから、外に出て、ベンチに腰を下ろして教会の尖塔を見上げながら、三池は思った。

 もう六十になった、俺はあと何年生きるのだろうか、今は一人ぼっちでこれからも一人ぼっちだ、覚悟はしているが、どうにも遣りきれない、ガウディが不慮の死を遂げた時、この教会の塔は一本しか建っていなかったと云う、今はこのように八本建っている、最初に始めた人が死んだ後も歴史は確実に時を刻み、その仕事を完遂していく、ガウディは今あの世で幸福な時を迎えている、さて、俺は何をこの世に残すことになるのだろうか。

 サグラダ・ファミーリア駅から地下鉄・五号線のコルネッリャ・セントロ方面の電車に乗り、ディアゴナル駅に戻り、地下鉄・三号線のトリニタート・ノバ方面の電車に乗り、レセップス駅で降りて、少し歩いて、グエル公園を見物した。

 中央広場へ続く大階段には有名なイグアナのタイル像があり、その前で記念写真を撮る観光客で一杯だった。

 その後、ガウディ博物館を見学して、レセップス駅に戻り、地下鉄・三号線のソナ・ウニベルシターリア方面の電車に乗り、ディアゴナル駅で降りて、カサ・ミラを見物した。

 レセップス駅で電車に乗り込もうとした際、数人の男女に囲まれた日本人と思しき夫婦連れを見た。

 その夫婦は電車の奥に入ろうとしたが、数人の男女に囲まれてなかなか奥には入れない様子であった。

 それでも、何とか制止を振り切って奥に入った夫婦に舌打ちしながら、その数人の男女は電車の扉が閉まる間際に電車から降りて小走りにホームを去って行った。

 これが噂に聞いた集団スリでしょうかねえ、と三池は香織に囁いた。

 びっくりしました、と言って香織は大きく溜息を吐いた。

 二人はカサ・ミラに入った。

 直線を徹底的に排除し、歪んだ曲線を主調とするカサ・ミラという建物は結構高い入場料を取っていたが、屋根裏のようなところが博物館風な展示構成になっており、見どころは豊富であった。

 その後、ディアゴナル駅から、地下鉄・三号線のソナ・ウニベルシターリア方面の電車に乗り、パセジ・ダ・グラシア駅で降りて、カサ・バトリョを観た。

 この建物も高い入場料を取って内部を見せていたが、観る人を幻惑させる蠱惑的な魅力に満ちていた。

 それから、パセジ・ダ・グラシア駅に戻り、地下鉄・三号線のソナ・ウニベルシターリア方面の電車に乗り、カタルーニャ駅で降りて、二百メートルほど歩いて、『フレスコ』というサラダ中心のビュッフェ・レストランで少し遅めの昼食を摂った。

 店内は広かったが、人気のあるレストランらしく、ほとんど満員という盛況であった。

 「時に、香織さん、今の貴女の暮らしを聴かせてください。昨日は僕の今の生活を話しました。今日は、貴女の番です」

 「別に、とりたてて、お話しするほどのことはありませんわ。私も結構することが多く、時間を持て余すことはございません。ステンドグラスの習いごとに関しては先日お話ししましたわね。その他、五年ほど前から、お茶も習っております。また、住んでいる文京区にはいくつか図書館があり、私がよく行く茗荷谷駅近くの図書館にはレコードとかCDが結構沢山あります。CDは貸し出されますが、レコードはその図書館の中でヘッドフォーンによって聴くんです。私も時々、レコードを聴きます。この間なんか、サラサーテのツィゴイネルワイゼンが収録されているレコードを五枚ほど借りて、全部聴き比べをしたくらいです。その他、二十分ほど歩いて後楽園に行くとか、三十分ほど歩いて池袋に行くとか、私も帽子を被ってウォーキングに励んでいるんですよ」

 「香織さんもウォーキングをするんですか。それなら、僕と共通の趣味になりますね」

 三池は、帽子の下から長い髪を垂らして、颯爽と歩いている香織の姿を想像した。

 それは、三池の気持ちを和ませる悪くない想像だった。

 一方、香織は香織で、今の三池の暮らしの中に自分が果たして割り込んでいけるものか、話しながら想像していた。

 そして、そのように想像している自分に気付き、驚いた。

 まあ、香織ったら、三池さんと結婚するなんて、お前は何と言う想像をしているの。

 「このフレスコという店はチェーン店なのか、マドリッドにもあるらしいですよ。あそこのポスターに書いてありますから。なかなかいい店ですから、マドリッドに行った時も食べてみましょうか」

 「賛成。マドリッドと言わず、いろんな街で野菜も大いに食べましょう。だって、この数日で私、確実に肥りましたから」

 フレスコを出て、二十分ほど歩いて、オスタルに戻り、部屋で少し休んだ。

 三池がぼんやりとバルコニーから街の通りを見下ろしていると、香織がお茶目な顔をして、三池に提案した。

 「ねえ、三池さん、さっきは私、この数日で肥ったから野菜を今後どんどん食べましょうと言ったばかりで、こんなことを言うのはちょっと変なんですが、・・・。まだ、私たち、パエーリャを食べていませんよねえ。今夜の夕食、パエーリャにしません」

 女の髪の毛は象をも繋ぐ、と言われる。

 三池に抗する術は当然無く、八時頃、二人はバルセロナ現代美術館の近くにある『オリヒナル』というレストランまでオステルから歩いて行き、念願のパエーリャを食べた。

 香織の好みで、シーフードのパエーリャを注文したが、魚介類がたっぷりと入っており、少し塩気が強かったが、結構美味しかった。

 飲みものはカーニャと呼ばれる生ビールをジョッキで飲んだ。

 塩辛いパエーリャにはビールがよく合う、と三池は思った。

 「どうも、会社を退職すると、情報が入らなくなります。何か、変わったことでもありましたか」

 「あまり、財務内容としては良くないようです。まあ、世の中全体が不景気ですから、しょうがないですが。三池さんの後に部長になった方、ご存じでしょうが、三池さんとは全然タイプが違う人です。はっきり言って、人望が無い人です」

 三池は少し驚いた。

 おとなしく、柔和そうに見えていた香織の意外な面を見たような気がした。

 分かっていたようでも、俺は案外分かっていなかった、香織は激しさを内に秘めている女性であった、ということを三池は知った。

 しかし、その発見は不愉快な発見では無く、一種爽快さを伴っていた。

 「三池さんが部長のままだったら、私は会社を辞めずにそのまま居たかも知れません。同僚の雅子さんも言っていました。私の気持ちが分かるって。実は、雅子さんも私と同じ齢なんですよ。私に辞めないで欲しいって、かなり言っていました。お局さまが三人から二人になってしまうからって、言って。勝手ですよねえ」

 香織が噴き出しながら、明るい口調で言った。

 夕食の後、泊まっているオスタル近くにある『ロス・タラントス』という店でフラメンコ・ショーを観た。

かなり安い料金で、三十分ほどのショーであったが、若手ダンサーの迫力あるフラメンコを観ることができ、二人は大いに満足してオスタルに戻った。

何だか知らないけど、三池さんには何でも言える、と香織は歩きながら思っていた。

普段ならとても言えないようなことまで、三池さんには自然と話せてしまう、でも、三池さんには少し嫌われたみたい、今の部長の悪口を聞いた時の三池さんは少し不愉快そうな顔をしていたもの、何であんなことを言ってしまったのかしら、でも、構わない、今後は少し、情熱的に生きてみたいと思っているの、今夜観たフラメンコのせいかしら。


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