出会った日
「おい信政、なんだその顔色。まさか一週間も経たずにホームシックか?」
部屋に入ると、開口一番にそう言われた。そんな目に見えて顔色が悪いのかと、手で顔をゴシゴシとこする。
そんな俺の仕草を見て笑う目の前の男は柊 信成。俺の父だ。そして今俺がいるこの場所はヒイラギヘルスケアの本社で、この部屋は社長室である。
この会社は医療機器の開発・製造を行なっていて、業界内でも大手と言われる部類に入る。他にも都内に病院を経営していて、そちらの業績も年々成長しつつあるようだ。当然、会社の建物自体もかなり大きく、毎回社長室にいる父に会いにくるのが億劫で仕方がない。
「アホか。一人暮らし最高」
強がって見せたが、事実はその逆で最低と言っていい。
当然なのだが、一人暮らしになるとすべてのことを自分でしなくてはならない。所謂ボンボンである俺は今まで包丁もまともに持ったことがなかったため、食事にありつくのが今一番の難題だ。すでに外食に手が出そうになっている。
洗濯にしても掃除にしても、すべて一から調べてから実行に移す。もちろんやり方を何も知らないためだ。
だがそんなことは些細なことと言ってしまっていいだろう。あの、ポルターガイストに比べたら……。
「ところで、大学はどうだ? 馴染めそうか?」
父はニヤニヤと口を歪めて笑いながら聞いてくる。
知ってるくせに、と胸の中で悪態を付くが、それすらも父は知っているのだろう。
「全くもって馴染めない。めちゃくちゃ避けられる」
まるで「歩けば進むよ」といったような当たり前のことを言うように吐き捨てると、父は満足そうに大笑いした。
「だから言ったろう。気兼ねなく接してもらえるのはせいぜいが高校までだって。大学に入って同じ学部にお前がいたら、そりゃ驚く」
「まだ学生の身分なのに驚いてくれて光栄だ」
その言葉にも笑いどころがあったようで、また父は大きな口を開けて笑った。
「もうテレビやネットでお前の顔は知れてるからな。もちろんこの会社のこともくっついて。そんな奴が同じこと学んで同じ道を進んで行くのだから、畏怖も敬遠も、敵対もされようさ」
そう言われて、高校の頃に俺をやけに毛嫌いしていた生徒のことを思い出した。あいつも確か医学部志望だった。つまり大学ではあいつみたいなのが俺の周りを取り囲んでいるということか。
「暗い大学生活になりそうだ」
天を仰いでつぶやく。
だが父はいやいやと首を振る。
「最初はそんなもんだがな、ちょっと時間がたつと何人かは興味本位で話しかけて来たりするんだよ。ああ、だけど女の子には気をつけろよ。玉の輿狙ってくるが、それらは碌なのがいないからな」
父は自身の体験を振り返るように何度か頷いてアドバイスをくれた。
確かに、と心に刻んで俺も何度か頷く。
顔を見せに来ただけだったから、そのあとに数度会話を交わし、その日はそれで社長室を後にした。
会社から徒歩で20分ほどしか離れていないアパートなのに、自室の扉の前に立つとまるで別世界のように感じる。
内見の時にそんなことを思った記憶はないから、きっと自分の経験がそう感じさせているのだろう。
ただ、怖いとは微塵も感じていなかった。
あんなに空中を飛び回って尚、俺は幽霊や不思議体験を信じていなかった。「絶対に何か科学的に説明のつく原因があるはず」と真剣に考えていたのだ。
今日こそ原因を突き止めようと、意気込んで部屋の中へ入った。
「ただいま」
扉を閉めてから、誰もいない部屋につぶやく。真面目ちゃんと笑われそうだが、そういう風に育てられたのでしょうがない。
当然俺はその言葉に対しての返事など期待してはいなかった。文字通りの独り言の気でいた。
しかし……。
「――おかえり――」
靴を脱ぐ動きが止まる。
確かに、「おかえり」と、聞こえた。
声からは性別が読み取れなかった。すごくガサついていて、夜の砂漠を思わせるような、冷たく淋しげな声だった。
「た、ただいま」
もう一度言ってみた。だが今度は返事が返ってくることはなかった。
「……気のせいか」
気のせいで片付けるにはハッキリと聞こえすぎていた気がするが、幽霊だと認めるわけにはいかないから無理やり思い込むことにする。
玄関から数歩歩いて、リビングのドアを開ける。
中を見回すが、今朝部屋を出た時と変わった様子はない。
「今日は、大丈夫か」
ここ数日、なんとなくだが部屋の中のものが移動している気がするのだ。
例えばクッションがソファの右端から左端に移動している気がする、だとか。ブラインドの締め具合が違っている気がする、だとか。確信はないが何かが違う気がする、ということが何度かあった。確実な違いがないからいやらしい。得てして幽霊とはそういうものなのだが、これは幽霊の仕業ではないのでプラズマか何かだろう。
バッグを床に置いてソファに腰掛ける。張っていた気を緩めてゆっくりと息を吐いた。
だが、息を吐き終わってすぐに強烈な視線を感じた。また動きが止まり、息が詰まる。
これまでも視線を感じることはあった。だが今回はまるで猛獣に睨まれているような緊迫感がある。感じるのは、背後のクローゼットからだ。
俺はためらいもなく振り返った。なぜならこういう展開で実際に幽霊がいることはまずないからだ。
バッと振り返りクローゼットの隙間を見ると――、恐ろしいほどはっきりと女性の顔が見えてしまった。
目が合い、時間が止まる。
時間の速度の物差しがない時を過ごす。どれくらいの間か、その物差しもない。
次に思考が再開した時、やっとのこと声を出した。
「あうえ?」
――自分でも聞いたことのないような、間抜けな声が口から漏れてしまった。
依然その女性から目を離せないでいると、あちらも俺の間抜けな発声に目を点にしている。
数秒見つめあったあと、女性は口元を綻ばせると小さくこう言った。
「……ダッサ」
「………………」
俺はその言葉に顔を真っ赤にした。
確かに、さっきのは死にたくなるほどダサかった。幽霊などいないと断言しておきながら、彼女という完全無欠の幽霊を見た瞬間にパニックになってあんな有様だ。顔から火が出るとはこの事か。
もう彼女の顔も見られなくなって、しばらく俯いて顔の赤が引くのを待っていると、だんだん冷静になっていく。よくよく考えてみると、まだ彼女が幽霊だなんて決まってはいないのではないだろうか?
ここ数日のことと、さっきの声、そして視線によって思い込まされているだけで、彼女がただの不法侵入者である可能性の方が普通に考えたら高いのではないか。
そう思い立つと、今だにクスクスと笑っている彼女がいるクローゼットへとドカドカ近づいていった。
少しだけしか開いていなかったクローゼットを全開にする。
俺は「やっぱり」と思った。彼女にはちゃんと実体があり、足だってある。よく見たらただの人間だ。
その証拠に、俺に急に近づかれた彼女は吃驚して口をポカンと開けている。
さっき馬鹿にされたことを根に持っている俺は、あたり強く彼女に詰めよる。
「人の家に勝手に入るのは犯罪って知らないのか? どうやって入った? 目的は? 警察呼ぶからな」
まくし立てると彼女はさらに吃驚しているようだった。
暗闇の中ではわからなかったが、よく見ると彼女はまだ中学生、どんなに高く見ても高校生ぐらいの女の子だった。
そう思った瞬間に俺の方が怖くなる。そんな年齢の女の子を家に連れ込んだと思われたりしたら、逆にこっちが犯罪者にされかねない。ここは穏便に事を進めたほうがいいのかもしれない。
「あの……、部屋間違えたの? 誰かは知らないけど、ここ俺の部屋だから出ってってもらえる?」
できるだけ優しく、「間違ったんでしょ? それなら仕方ないよね」というようなニュアンスで静かに退室を願うが、彼女が放った言葉は奇想天外なものだった。
「私が怖くないの?」
「……はあ?」
言っている意味がわからなかった。怖いといえば怖いが、それは世間の目と法律が怖いのであって彼女が怖いわけじゃない。
いったい彼女は何を言っているのだろうか。
「怖くないけど……」
「あ、じゃあ普段から見えてる人なのね! 初めて会ったよそういう人!」
屈託無く笑う彼女を見て、俺は一体何をしているのだろうかという気がしてくる。これから勉強もしなくちゃいけないし、難題の食事のことも考えなくてはいけない。彼女が何を言っているのか皆目見当もつかないが、理解するのは諦めて、さっさと帰ってもらう事にしよう。
「喜んでくれてなによりだ。とりあえず帰ってくれないか。親も君のことを心配しているだろうし、俺も長居されると困る」
真っ当なことを言ったつもりだったが、今度は彼女が俺の言っていることを理解できないように小首を傾げている。
「今更親が心配するはずないじゃない。それに今の私の家はここなんだから。帰るも何もないでしょ?」
「あー、わかったわかった。とりあえずクローゼットから出てもらえるか。それから今度はリビングから出て、部屋も出て」
言ってもはぐらかされるからと、彼女の手を引っ張ろうとした。直前で「セクハラって言われたらどうしよう」と考えたが、このままでは埒が明かないので、決心して手首を掴んで引く。
はずだったのだが……。
「うおっ。あれ?」
確かに彼女の手首を掴んだはずだったのに、俺の手は空を切るだけだった。彼女もその場から動かず大きな丸い目をこちらに向けている。
もう一度。今度はしっかり彼女の手首を凝視しながら手首に触れようとする。
手を伸ばし、彼女の肌に触れる――ことはなかった。まるで煙を掴んだように、俺の手はすり抜けた。
「何してんの?」
彼女が俺の目を覗き込む。
「何って……」
今起こったことに対して、彼女は何も思っていないようだ。手がすり抜けるのは当たり前であり、俺の行動が異常だと言わんばかりに。
「あの、笑わないで欲しいんだけど、違ったら、すぐ言って欲しいんだけど、君は、もしかして…………幽霊、なの?」
俺は半笑いで、そんなわけないよねと、冗談を言うように聞いた。
一瞬の間があって、彼女が何か察した顔をするとクローゼットから一歩踏み出す。そして慣れたように、ふわっと体を浮かせて俺の頭の上を飛び越えて行った。
俺はすぐさま振り返り、彼女の姿を追う。
振り返った俺の顔の数センチ先に、彼女の笑顔があった。
鼻と鼻が当たるような距離で見る彼女の目は、深い海を思わせ、未知なる宇宙の輝きを湛えるようだった。
「そう。私は幽霊なの」
声は揺らぎ、耳を滑って胸に落ちる――。
俺が信じた「科学的に説明のつく原因」というものは、どうやらないらしい。