変身・逆
ある日一匹のゴミ虫が目を覚ますと、一人の人間になっているのに気がついた。甲羅と棘で覆われていた身体は、毛もほとんどないつるつるのヒト肌に包まれていた。何本もあった脚が減って、前に二本、後ろに二本の、これまたつるつるの足が生えていた。さらに、後ろの足の間には、何やら得体の知れないものがあったのを発見して、グロテスクな自分の身体に戸惑いを覚えた。
「なんだ、これは」かつて虫だったそのヒトは叫んだ。そして突然口から出た言語に慄いて口を両手で抑えた。直感的に、意味が分かる。意味が分かるからこそ気持ち悪い。唐突に口の奥から何かがこみ上げてきた。目から液体が溢れた。口からも、苦い、とにかく苦い何かが出た。大量に出たその苦いものは、鼻を詰まらせ、胸が熱くなった。これが吐くということなのだと、しばらく後になってから分かった。
明るいところに出たくなって、後ろの二本足で立ち上がり、ふらふらと前に歩いた。やけにうるさい。騒音が耳に刺さる。思わず耳をふさいだ。そのせいで目の前をたった今歩いていた髪の長いヒトが、大きな声で叫んだのに気がつかなかった。
ふらふらと、ふらふらと、あてどもなく歩いた。やがて、頭に何かを乗せた、青い二人組がやってきて、両腕を掴まれた。そうしてどこかへ引きずられた。必死で抵抗した。それは以前、仲間が蜘蛛に捕らえられたときに似ていた。やがてこうこうと明るい、大きな空間まで連れてこられた。
「どうしたんですか」一人が訊いてきた。「どうしてそんな恰好で街を歩いていたんです」
「わからないんだ」彼はそう答えるしかない。「突然、ヒトになっていたんだ、それまでは、虫だったのに」
「これはあれだな」もう一人が言った。「こいつぁ、精神がいかれちまってる」
「まあ待て」質問してきた一人が制した。「落ち着いてください。どこで、何があったのか、ゆっくりでいいですから話してください」
「わ、わからない、わからないんだ、とにかく、」勝手にあふれ出てくる言葉に身を任せた。「気がついたら、こんな身体に、訳が分からない……」
「 少し落ち着いてください。お水でも、飲んでください。さあ」
言われるがまま、コップを手に取って、水をのんだ。途端に、目の前がぐらりと揺れた。
「あ、あ、あ……」
後になってから、気がついたのだった。薬が入っていたことに。
「神、神、神……」
すぐ横の誰かがささやいた。向こうでは、虫のつがいが交尾していた。色気のない、繁殖のための激しい種付けだ。
暑い。暑いのに雪が降っている。凍え死にそうだ。なぜなら水の中にいるからだと分かった。苦しい。気管に水が詰まって息ができない、ああそうか、もう死ぬのだ。僕は死ぬ。
「神は、死んだ!!」
誰かが叫んだ。と思ったら水面に映った自分だった。尻の部分には、どでかい、その体にあまりにも不釣り合いな、グロテスクな何かがついている。しかもどんどん大きくなる。ヒトのものだと悟った。目の前に迫ってくる。迫ってくる迫ってくる迫ってくる怖い怖い怖い怖い
「ぎゃあああああああああああ!!」
はっと気がついた。夢だったようだ。ひとしきり安心した。すぐに、身体が動かないことに気がついた。縛られている。全身を、腕を、足を、頑丈なベルトで。
身体を揺すってみた。ガチャガチャと音がした。簡単には外れそうもない。助けを呼ぼうと叫びかけて、またあの吐き気が襲ってきてやめた。足元でカサカサと音がした。何かと思って身をよじって見た。
「お前は……」
すぐにそれが何なのか分かった。
「お前は、俺だ……」
それは一匹のゴキブリだった。