6.メサルティムの白羊宮神殿3
ひゅーひゅー、と自分の物とは思えない荒い息が口を付く。自身のペアであった筈のダウト様が目の前で異形のモノへと変貌した。その存在と背後の広がりつつある闇から感じるのは、身体に纏わりつく重苦しい気配。胸を直接押しつぶされるかのような圧迫感を覚え、息をするのが苦しい。何か巨大なモノに飲み込まれるかのような感覚に陥っていく。自分の存在が如何にちっぽけなものだったかと突きつけられ、そのまま奈落の底に落とされてしまうかのような。
「ちょっとあんた」
耳に響いたのはこの場にそぐわない明るい声。びくり、とダウトの守護者の男の身体が震え、のろのろと視線を上げる。
視線の先に居るのは自分とあの異形のモノとの間にしっかりと立つ女の後姿。
「仮にも守護者でしょ。参拝者どうにか逃がして」
「っな、にを」
この状況で平然としている彼女の様子に現実へと引き戻される。僅かに視線をずらせば人々が血だらけで倒れ伏しながらもまだ息があるようだった。出入り口の方では獅子族の青年ともう一人、人々を逃がしている。再び視線を元に戻すとセレッサ様が錫杖を手に立ち上り、グラナーテがもう一人の魔導師だった男と対峙している。
「あんたの武器じゃあいつに攻撃は届かない。分かるっしょ?」
視線はこちらに向けず、軽い調子で言葉を紡ぐ彼女。
魔族、と確かに聞こえた。今まで遭遇したことなど無い。しかし聞いたことはある。この世にあるまじきモノ。そして太古の昔この世界を崩壊させようとしたモノ。この世のモノでは無い故に、この世の武器では干渉することができない。即ち自身が神官であったダウトに突き刺したあの長剣ではかすり傷一つ付ける事はできない。
―――――小娘、貴様何ヲ悠長ニシテオル?コノ腕の代償ハ重イゾ?
脳裏に響く音と共に背後の守護者が再びびくりと震えるのを感じる。男の癖に意気地が無い。魔族の殺気がこちらに向けられているにしても、ここはもう少し男の矜持を掲げて欲しいものだ。そう思い前方に集中すれば、魔族の背景にある歪な闇が大きくなりながら蠢き、ずるりと何かが這い出てくる。形を成さない軟体動物のような黒い魔物。純生の魔物とでもいうのか。気持ち悪い、というのが正常な判断だろう。この場の混沌とした状況から湧き出る恐怖の感情が、断絶され零れ落ちる生命の流を更に濁らせ、そして奴らに力を与えてしまっている。
悪循環も甚だしい。
舌打ちをしたくなる衝動に駆られるが、今脳裏を過るのは穴を塞ぐためにも断絶された生命の流を接続し、正常に戻さなければこの闇は恐らくこの場を飲み込み続けるだろうということ。
――――共鳴せよ
セレッサの声が響く。彼女が考える事も同じだった。
魔導師だった男の異業の形がそうはさせまいと逃げ惑う人々からセレッサに標的を変えて飛びかかる。しかしそこにはグラナーテが魔力を通す彼女の長剣でもって防いだ。
「セレッサ様っ、お早く・・・・・!」
―――サセルカ 巫女ヨ
一瞬の内にばさり、と眼前の魔族が翼を羽ばたき、その身体ごとセレッサに向かって急降下した。まずい、と思ったが。
ドンッ!とその横から銀色に輝く巨体が過り軌道がずれる。
―――何ッ?!
『っ巫女様っ、大丈夫っ?!』
調律を始めようとするセレッサの前に降り立ったのは人より遥かに大きい白銀の獅子。その声はリオンのもの。獅子族と言われる所以ともいえる本来の姿だった。獅子族は12宮の一つ、獅子宮の恩恵をその身に直接受ける魔力の塊のような存在。彼の本来の姿であれば、たとえこの世のモノに対してもその体躯、爪、牙、全てが武器になる。
「リオン、助かりました、しかし、私一人ではこの断絶した状況を補填するのはっ・・・」
「なら、俺が手伝いましょう」
セレッサの告げた言霊は未だ上手く流れを捉えることができず、接続できていない。白羊宮の印は未だ地面には現れず、その片鱗を辿ることさえもできない。焦りばかりがセレッサを襲うが、そこにこの場にそぐわない落ち着いた言葉が投げかけられる。
リオンと共に人々を逃がしていたソルが、ダウトの守護者であった男と交代し、この場の応急処置を切り上げいつの間にか側に立っていた。
『ソ、ソル? 君魔導師じゃないって・・・・・・』
「細かい事はいいから巫女様、今やらなければ大変な事になりますよ。アルマ、ウラガン、リオン、守護者さん達、後は任せた」
早口に簡潔に述べたソルはじゃり、と大地を踏みしめ言霊を乗せる。
―――――共鳴せよ 我はソルヴェントス=ディ=アクエルド 白羊宮に連なる者なり
―――馬鹿ナッ?!貴様調律師カッ?!
ソルの口上に遅れて僅かに朱色の光が辺りに集まり始める。セレッサもその動向に驚きを隠せない。あの口上は調律師が12宮の生命の源泉に宣誓し、自らの位置を教え、力を行使する際に口にする言葉。魔族もその口上に対し即座に攻撃対象をソルに変えたが。
「させないっ」
注意力散漫になっている魔族の背後へ斬りかかる。しかし流石にそれは分かり易かったのかひらり、と翼により軌道を変えられ、切断されていない側の腕から爪が伸縮して向かってくる。一刀でその爪の軌道をずらし、もう一刀で横腹を叩こうとしたが、背後に殺気を覚え後ろに振り切った。びちゃ、と奇妙な感触を覚えて振り返ると、そこには先程よりも更に大きくなった軟体生物。初期の魔物としてよく見るスライムよりも遥かに大きく不気味なものだった。そして切り捨て、分離した部分はそのままうごうごと蠢き、新たな魔物として機能しだすではないか。
まじかい。
―――ククク、コノ状況デアレバ我ラノ眷属ハ次々ト増殖シ、憑依シ、イクラデモ生マレテクルワ。 如何ニ守護者デアロウト、無限ノ魔物ヲ相手ニデキルカ?
その様子を楽しげに中継してくる魔族。全然嬉しくない。
しかしあの闇の穴さえ塞げれば、魔物の増殖を促す力の流れも劇的に減少し、その無限の増殖も終わる筈。とにかく一刻も早く調律を成功して欲しいのだが。ソルの周囲には既に柱が生み出され始め、セレッサにもその流れの片鱗を認知する事ができたのか淡い光が輝きだしている。グラナーテも、もう一人の魔族らしきモノを相手取り、リオンも軟体動物の分離体を潰し、僅かにリオンの攻撃から漏れたモノは次々に更なる魔物となる。魔物化する前のそれらをウラガンが竜の吐息で燃え尽くそうとしているのが見えるが。
数が多すぎる。やってられない。
セレッサの体力も先程の調律時の失敗からか立つのもやっとの状況だと思われる。光の柱は安定しないどころか柱を成立することができていない。ソルの方は着々とその柱の大きさを増大させているが少し時間がかかりすぎている。邪魔をしようとする魔族に対して隙を付いて斬りかかろうとするが、図ったかのように巨大になるスライムに邪魔をされ、魔族自体も自身の翼で宙へと逃げられる。決定打がどちらにもない。そもそも魔族に翼があるというのが厄介極まりない。ならばその力を削げばいいのか。
思考を巡らせながら魔族の急降下の攻撃を防ぐと眼前のモノがにやり、と醜悪な表情を浮かべた。
―――皆串刺シニナルガイイ!
破壊された神殿一杯に分離しているスライム共が突然圧縮され、その身体が棘となり壁に突き刺さる。
そう、全てのものが黒い棘に突き刺され、絶命するその光景が魔族に映る。
筈だった。
「っあ、ぶなっ」
頬に僅かな切り傷ができたようだった。咄嗟に後方に跳び自身に向かって伸びる棘を全て斬り防ぎ床に降り立つ。周囲にはありとあらゆる方向に黒い棘が伸びているが。
『こ、これは・・・?』
大きな巨体を縮こまらせているリオンが驚いた声を上げた。彼の周囲には薄い緑色の光が膜を張り、それを境に全ての棘が無残に折れ、溶けている。その部分から再生する様子も見えなかった。共に異形のモノに対峙していた幼竜も同じであり、少し視線を反らせば無残に突き刺され吸収されている魔導師だったモノと、光に守られているグラナーテの姿。この緑色を指す魔力は風の元素に連なる魔力障壁。調律をしていたセレッサやソルに行えるものでは無いと想像できるが、それならば一体誰が?とリオンは疑問を覚える。
―――馬鹿ナ、馬鹿ナッ
「面妖な事をしてくれる」
ソルが恨めしそうに吐き捨てる。その腕には意識を失っているらしいセレッサの姿。
やはり保たなかったか、と内心思う。調律をするには体力も魔力もごっそり持って行かれる。安定していなければ安定しない程その消耗は計り知れない。棘攻撃の状況を一瞬で把握したソルが調律をやめて彼女を守ったのだろう。既にソルは柱内から立ち位置が変わり、彼が創った柱は歪な形をしだし、今にも消えそうだ。
―――フ、フフハハ、シカシモハヤ貴様等ハ終ワリダ! コレダケ歪ニナリ、貴様ガ創ッタ柱モモウ消エル!調律ハデキマイ!コレデ我ラガ王の道が創ラレルノダ!
調律さえ行わければ穴を塞ぐことができず、魔物の増殖を止めることもできない。事実自らの領域に接続する闇はじりじりと広がっている。魔族にとって、この状況は彼等の勝利を得るものだと確信した。
「いいや?」
ソルがその確信を否定する。そ、と守護者のグラナーテにセレッサの身体を預けると不敵な笑みを浮かべた。
「調律ならできるさ」
―――――共鳴せよ
ソルと私の声が重なった。
リオンの本来の姿についての補足を少々。
この世界の獣人の人型は仮の姿で本来は獣型で大きい設定です。リオンは獅子族なので、本来の姿は獅子となれますな説明でした。
兄妹の本領発揮です。