02
朝が忙しないと、夕べ見た夢なんてすぐに頭から抜け落ちてしまうものだ。その例に漏れず、俺も今朝見た夢の内容をすっぱり綺麗に忘れてしまっていた。
何だろう、モヤモヤする。朝、朝食を作っていたときまでは覚えていたのだが。
「おはよう諸君。蛍日透様の御前であるぜ頭が高ーい!皆の者、控えよー!」
「はよー、蛍日」
「ははっ、うぜー!」
「朝からテンションたけーな」
遅刻を免れ、無事登校できた俺と深楽。現在は、既に一時間目の授業の真っ最中である。
「よぉ、ノアちゃん。どうかしたか?ただでさえ目付きの悪い顔がしかめ面で更に怖くなってるぞ?」
余計なお世話である。
そして繰り返すが、今は授業中なのである。黒板の前には、青筋を立てて固まっている数学教師がいるのである。図太い神経で授業妨害した挙句、エア紋所を掲げ馬鹿騒ぎし、遅刻のくせに堂々と教室に乗り込むこいつは、一体何様なのだろうか。そうか、ご老公様か。
「うわっ、また眉間の皺が増えた。どれどれ、オレが伸ばしてやんよ」
「触んなっつの」
伸びてきた手を、俺は遠慮なく力を込めて払い落とし、目の前に立ついかにも軽薄そうな男子生徒を睨みあげる。
「早く席に座れよ」
「おお、そうだな。オレの席は何処だっけ?あーそうだった、お前の隣だったなマイハニー」
そいつはぱちん、と漫画ならハートでも飛びそうなウィンクをかましてくる。はっきり言おう、気色悪い。
「蛍日っ!ふざけるのも大概にしろ、さっさと座れ!」
やっと硬直状態から回復したらしい教師に怒鳴られ、蛍日は「へいへーい」と気のない返事をしながら着席する。……俺の隣の席に。
やっぱり、こいつはどうにも気に食わない。
「……ん?どうしたノアちゃん。まさかオレに惚れちゃった?いやーん!でもごめんな、アイドルはみんなの心の恋人でいなくちゃいけないんだよ」
「は?ちょっと黙っとけ」
深楽には日頃から、「ノアって結構、口悪いよね」と言われているし、自分でも自覚はある。だが、こいつと喋っているときは二割増しぐらいに暴言を吐いているような気がする。
そのこいつこと蛍日透というのがまた、よく分からない奴で、入学当初から何が楽しいのか俺にべたべたと付き纏ってくる。正直なところ、かなり鬱陶しい。
しかもこいつはかなりの問題児で、先程のような遅刻や授業妨害は常であるし、髪は染めるわピアスは開けるわのいかにもチャラそうな奴なのである。
特に気になるのは毛髪で、染めて痛んでいるのは勿論のこと、何を思ったのかこいつの髪は目に優しくないどピンクだ。こんな色に染めて何になるんだろか。馬鹿さ加減を露呈するだけではないか。
普段、深楽の地毛だが色素が薄くサラサラとした綺麗な髪を毎日見ているからか、余計に気になってしまう。
大体、俺に関わってくる理由も分からない。蛍日に言われた通り、俺は目付きが悪い。鏡を覗けば自分に睨まれているような錯覚を覚えるぐらいには悪い。お世辞にも愛想が良いとも言えないし、一緒にいて楽しいことなんてある筈ないのに。
ネガティブだとか自虐的だとか、そういうわけじゃない。俺は人間関係を面倒だと思うタイプの人間だ、ただそれだけである。必要以上に関わる気がこちらになければ、向こうだってそれを感じ取って過干渉してくることはない。それを良しとしているだけだ。
俺は取り敢えず、深楽がいて、深楽が良い友人関係を築き、深楽が楽しく学校生活を送れていればそれでいい。自分の友人関係や、ましてや蛍日との友情関係なんかは二の次、というか正直どうでもいい。つまり蛍日は鬱陶しい。
深楽に依存していると言われればそうなのかもしれない。だが、俺が深楽に依存心を抱くのは、当然のことだ。
俺の一番古い記憶は、深楽の顔だ。六歳の俺に笑いかけ、幼い身体で抱き締めてくれた深楽との思い出。俺にはそれ以前の記憶がない。深楽と深子さんの話では、火事で両親を失くしたショックで俺の記憶は欠落し、遠縁だった赤月家に引き取られたらしい。
生まれたばかりの鳥の雛が、最初に見た相手を親として慕うのと似たような原理だ。どうやら俺は、ずっと一緒にいた深楽に、尋常ではないくらいに気を許しているらしい。それを依存と言うのかもしれないが、自覚があるだけマシだろう。
――話は逸れたが、つまり俺は、妙に付き纏ってくる蛍日が不思議で仕方がない。
蛍日は教師の頭を悩ませる問題児だが、それと同時にクラスでは明るいムードメーカーで、友人も多い筈だ。そんな蛍日が何故、俺に構いたがるのか。
「……ま、別にどうでもいいけど」
少し考え込んだが、俺は早々に思考を放棄した。こんなこと、考えるだけ無駄だ。取り敢えず「蛍日が変人だから」の一言で片付けておこう。
「ん、なになに?ノアちゃん、今何か言ったか?」
俺の呟きを目敏く聞き取った蛍日が、ずいっとこちらに顔を近づけてくる。俺はそれをスルーし、蛍日から目を背け、代わりにその視線を斜め前方の席に座っている深楽の背中へと向けた。最後列の窓際に座る俺に対し、深楽は廊下側の前方だ。ここから見えるのは深楽の背中だけである。
それでも蛍日は気にすることなく、俺の耳元でペラペラと喋りだす。
「ノアちゃんってば、また赤月クンのとこ見てんの?やだねー、恋する乙女かよ」
「誰が乙女だ気色悪い」
「そういや、ノアちゃんって赤月クンと一緒に住んでんだろ?」
「だから?」
「いやー?何となく。でもノアちゃん達って双子とかではないだろ?」
普通に見れば分かるだろう。俺と深楽は、外見的特徴も性格的特徴も、何処をとっても似ているとは言えない。深楽の髪はサラサラで綺麗なものだが、俺のそれは黒い癖っ毛だ。優しげな目元が印象的な深楽に対し、俺の目は少しきつい感じのする切れ長吊り目である。
「双子じゃないとすれば、義兄弟か?」
「どうでもいいだろ、妙な詮索すんなよ。つうか、普通そういうこと面と向かって聞かないだろ」
無神経な蛍日の発言に苛立ちが募る。俺はそもそも記憶がないため、親がいないことを気にしたことはないが、デリカシーがなさすぎるのではないだろうか。
「そーか?オレは義兄弟とか、血が繋がらないこととか、別に悪いことじゃないと思うけどな」
「そういう問題じゃないだろ」
「そういう問題だって。血が繋がっても情が希薄な肉親より、血が繋がらなくても気持ち的な繋がりがちゃんとある他人の方が、絶対に大切にするべきだ。結局血なんか関係ない。実の親を殺せる子もいるし、実の子を棄てられる親もいる。……と、韓流王室ドラマとか王位継承権争奪物語とかを見るとしみじみ思うね、オレは」
「…………え……?」
一瞬、呼吸を忘れてしまった。
言葉を失う俺に何を思ったのか、蛍日は再び饒舌に喋りだす。
「ん?オレの深イイ話に感動しちゃっただろ?」
「……煩い、授業中だろ」
……驚いた。こんなにも考え方が似ている人がいるだなんて。
俺は常々、蛍火は気に食わないと思っている。
気に食わない、けど、それはもしかしたら、考え方が似ていると薄々感じていたからかもしれない。同族嫌悪というやつだ。
俺はそんな考えを振り払うようにシャーペンをぎゅっと握り直し、板書に集中を注いだ。
「ノアー、お弁当頂戴?」
午前の授業を全て消化し昼休みに入ると、深楽は俺の席の方に来て、にっこりと笑いながら両手を差し出してきた。
「ああ、これな」
その手に俺はいつものように深楽の弁当箱を渡す。餌付けをしている気分だ。
深楽が俺の前の席を拝借しているのを横目に、俺も自分の分を取り出し、机に広げた。本当は弁当も家政婦さんに頼めば作ってもらえるのだが、またもや深楽のお願い、「お弁当はノアに作ってほしいな」の一言により、俺は毎朝早起きして二人分の昼食を作るハメになっている。
「おいおいノアちゃん、オレの分は?」
また湧いてきたな、こいつ。
横から掛けられた声に渋々目をやると、案の定そこには、購買の袋をぶら下げた蛍日がいた。
「あるわけないだろ、そんなもん」
「うええ?マジかよ。ひっでーな」
「泣き真似すんな鬱陶しいな」
「赤月クン、今の聞いたか?ノアちゃん冷たすぎねえ?」
俺が蠅を払う手つきで蛍日を遠ざけると、今度は深楽に絡み始めた。
その深楽はというと、愛想の良さを崩さずに、笑みを浮かべたままである。
「ごめんね、蛍日君。ノアはちょっと照れ屋なんだ。本当は蛍日君がいてくれて嬉しいって思ってるんだよ?」
「おい深楽」
「なーんだそういうことかよ。でも大丈夫だぜ?これからも仲良くしてやんよ、ノアちゃん」
「調子乗んなよ蛍日」
「でも、ノアが照れ屋、っていうか口下手なのは本当でしょ?僕も、ノアに仲のいい友達ができて嬉しいよ」
「深楽、」
「だってよ。これからも仲良くしよーな、ノアちゃん?」
「……蛍日」
「あ。でも、僕とは親友なんだから、蛍日君とばっかりいるのはやめてよ?僕寂しいから」
「……もういいだろ。いつまで続けるんだよ、これ……」
深楽と蛍日、二人に交互に茶化され、俺の精神は早くも疲労困憊である。
だが、深楽は笑みを消し去り、真剣な表情で繰り返す。
「ノア。僕はもっと、ノアに色んな人と触れ合ってほしい。勿論、僕とは親友のままでいてほしいけど、友達くらい作るべきだよ」
「……善処する」
苦々しい顔でそう絞り出すと、深楽はふにゃりと表情を緩めた。
「善処、ね。僕はその言葉って、都合が悪いお願いごとをされて困ったときに使う言葉だと思ってるけど」
その通りである。
俺がいかにも図星といった風に顔を強張らせたのだろう、深楽は軽く俺の頭に手を置いただけで、それ以上言及はしなかった。
「ほら、早くお弁当食べようよ」
「オレも賛成。あ、赤月クン、オレもご一緒させてもらうぜ?何せ、オレはノアちゃんのトモダチだし」
蛍日はわざとらしくそう言って、俺の肩に腕を回してきた。そんな俺と蛍日を、深楽は面白そうに眺めている。
友達、だとか蛍日は気軽に言うけれど、俺とこいつは高校で初めて知り合ったから、付き合いはまだ一ヶ月にも満たない。
それなのにもう友達だと言って、妙に懐に入り込んでくるこいつは一体、何なのだろう。
俺は人間関係が煩わしい、面倒くさい、と思う。クラスメイトにも必要以上に関わることはない。それは事実だ。
だけど、蛍日はそんな俺の防御壁なんかは物ともせずにするりと抜けて見せる。そして何でもないような顔をしてにやにや笑いながら、ぺらぺらと話し掛けてくるのだ。
――蛍日透は、変な奴だ。