後味の悪い柑橘系
連載を企画中。
吸い込んだ朝の湿った空気が、気怠い色に染まって吐き出される。前方に拡がるはずのその空気は、自転車を漕ぎ続ける俺にぶつかり、後方へと流れていった。
───朝の登校時である。
力のうまく入らない足に体重をかけ、行きたくもない場所へと舵を取る。毎朝幾度となく繰り返してきた作業。景色は大して変わらず、季節感を演出するのは通り過ぎるコンビニぐらい。俺は安全には気を付けつつ、ただただ淡々と足を動かしている。
すると踏切を渡ったところで、一組の男女が前に並んだ。制服のデザインからして、同じ市内の高校の生徒のようだ。二人とも自転車を漕ぎながら、時折言葉を交わしている。
どう見ても付き合ってるようにしか見えない。
だがそれはあくまで推測だ。実際は違うのかもしれない。たまたま出会したとか、仲が良いだけなのかもしれない。
しかし他人から見れば、ちょっと話してたり笑い合っているだけで、カップルがいちゃついてるように見える。
若い男女がただ一緒にいるだけで、そこから色恋を見出す。
「………………っ」
俺は得体の知れない気味悪さを覚えて、頭をふるふると振った。
教室に入った俺を出迎えたのは、疎らに埋まった席と、数人の話し声。変わりの無い光景だ。鞄を置いて一息吐くと、弱った足から力が抜けた。
「なぁ」
机の中のプリントを整理していると、不意に肩を叩かれた。慣れない事態にビクッ!と反応すると、おうっ、とかいう声が聞こえた。
振り向くと、ここ一年以上見かけなかった、懐かしい顔がそこにあった。
「伊吹……?」
「おっ、憶えててくれたか。久し振りだなぁ」
大して親しかった覚えが無い(険悪だった覚えも無いが)のにもかかわらず、親しげに話してくるこいつは、中学時代のクラスメートで伊吹という。下の名前は忘れた。
特進クラスの俺と馬鹿クラスの伊吹は、その進路(頭の出来)の違いから、同じ高校にはいるものの、あまり接点が無かったのだ。
「いきなりどうしたんだ?」
本当は「馬鹿が伝染る。帰れ」と言ってやりたかったが、流石にそこまで邪険にするのも人としてどうかと思ったので、とりあえず用件は訊いてみることにした。
「いや、大したことじゃねぇよ。───この前、喫茶店にいるお前を見つけてさ」
「そうか。それは気づかなかった」
適当に返しつつも、頭の中の記憶が照らし出される。喫茶店なんて普段行かないし、多分あの女―――柳田明香里に捕まった時のことだろう。
───と、その時の光景を思い出すと同時、今朝(というかつい十分程前)考えていた嫌なことが、脳内に浮上してきた。
「随分と仲良さげだったじゃん。明香里と」
「……何が言いたい?」
本当は理解していた。けど、それを伝えるのを嫌悪感が邪魔をした。伊吹はニヤニヤしながら、隣の机の上に座る。
「付き合ってんだろ?明香里と」
予想通り過ぎて溜め息が漏れた。
「違うよ」
「そうかぁ~?だってお前、中学の頃好きだったじゃん」
林間学校の時に、雰囲気に流されて言ってしまったのはやはり失態だった。まさかこんなところで尾を引くとは。
「それでも違う」
「じゃあなんだ?狙ってんのか」
伊吹は執拗なまでに俺と明香里を繋げようとする。こいつに大した悪気は無いのだろう。刺激の無い、つまらない日常への当てつけなのかもしれない。それか、実は俺の恋の行方を応援したくて───それが有り難いかはさておき───わざわざ出向いてきたのかもしれない。
しかしそれはあくまで向こうの都合。こちらが言ってることを受け入れられてないのは事実なのだ。既に俺の苛立ちは、表情の裏に隠すことが出来ない程には膨れ上がっている。
俺はそれを抑えることなく、声として吐き出した。
「いい加減にしつけぇぞ。とっとと帰れ」
しかし、伊吹はその言葉をムキになっただけだと捉えたらしい。更にニヤニヤを深めた。
「お前が嘘吐いてるからだろ?正直に言っちまえよ」
ビクッ……。
何でもない、ただの馬鹿馬鹿しい言葉だった。しかし俺の耳には、言ってはいけない禁句のように突き刺さった。
視界に火花が散り、身体が理性の支配から逃れる。いつの間にか、右手が無意識に突き出されていた。
「がっ!?」
驚愕と苦痛に彩られた悲鳴が耳に届く。俺の右手は、伊吹の喉笛を鷲掴みにしていた。
「───おい。お前の期待に沿う答えじゃなかったら、それは嘘だってのか?」
「っ!?」
引き剥がそうと鋭く爪を立てかけた伊吹の手が、ビクッと止まる。
「…………ふぅ」
その仕草に頭を冷やした俺は、ふっと力を抜き、喉から手を離した。
椅子に座り直し、顎をしゃくって出てけと示す。伊吹はつまらなそうな顔を貼り付けて、教室を出ていった。
太陽が地平線の彼方へと沈み、辺りが人工の光と、仄かな月明かりで照らされた頃。
人気の無いランニングロードに、等間隔の歩幅で歩く、一つの人影があった。
中肉中背に、ほど良くはねさせた髪型。大手スポーツメーカーのジャージに身を包み、手の中のスマートフォンを思い詰めたような表情で見つめている。
───彼の名は伊吹真也。しがない公立高校に通う高校二年生だ。
「………………」
ただひたすらに、真っ暗になった画面を気難しそうな顔で見つめている。
それから三つの街灯の下を通り過ぎた。ふと立ち止まり、光に群がる蛾虫を見上げる。
そこで何を思ったのか、彼は意を決したような表情で画面に触れると、アドレス帳を呼び出し、元は恋人であった少女───柳田明香里の連絡先をコールした。四回目の呼び出し音で繋がる。
『もしもし?』
「なぁ。お前、今は誰と付き合ってんの?」
真也は単刀直入に切り出した。相手も驚いたようだ。少しの間の後、呆れたような声が返ってきた。
『いきなりどうしたのよ。今はフリーよ』
それでもちゃんと質問には答えてくれる。そのことが、彼の口許に笑みを運んだ。
「……そうか。じゃあ、本当だったのか」
『えっ、何が?』
独り言のように漏れた言葉は、ちゃんと向こうに拾われていた。
「いや、大したことじゃないよ」
はぐらかそうとするも、
『大したことじゃないなら教えてくれるんでしょうね』
逃がしてくれない。これは中学の頃から変わらない。
「うっ、あ、まぁ」
『……もしかして、また何かしたの?』
察しの良さも。
「またって何がだよ」
『早とちりで人をおちょくったりとか』
「………………」
察しが良いというより、よく理解されてる。といったところか。
『もしかして図星?』
「……そうだよ」
『はぁ……』
困った奴め。という優しい言葉が聞こえてくるような気がした。
「…………すまん」
『何が?』
無意識に口にした謝罪に逆らわず、彼は話し始めた。
「……俺さ。(主)に、お前と付き合ってるのか訊いたんだよね」
『……。それで?』
「しつこく訊いたらさ。怒っちゃってさ。それでも訊いたら、首絞められた」
『……あ~らら』
物騒な一文に息が止まったのを電波越しに感じて、それを和らげようと、わざと冗談めかそうとする。
「でさ。こっぴどく叱られちゃったわけよ」
『(主)、優しいからね』
しかしそうして付け加えた一言は、彼の思惑通りには働かなかった。
「……優しい?何処が」
『ちゃんと間違ってるって、教えてくれたでしょう?』
「………………」
真也は間違えた。人との接し方を。少なくとも、彼との接し方を間違えた。
『真也が見たのって、喫茶店にいるときでしょ?』
「あぁ」
どのような経緯で明香里と(主)の仲を疑ったのかを言った覚えはないが、彼女は頭が良い。推測したのだろう。
『その日ね。私、別れたんだよ』
十分な溜めもって放たれた言葉は、真也の思考を置き去りにした。
「…………は?」
『彼氏とね。いや、今は元カレかな?』
「えっ、ぁ……え?」
ついて来れてないのが伝わったのだろう。十秒弱の間が置かれた。
「ぇあ~……はいはい」
ようやく追いついたと、気の抜けた返事をする真也。明香里は話を再開した。
『別れ話が纏まって、さぁ帰ろうって時にね。(主)と、偶然会ったんだ』
その時を思い出すような溜め息が耳に届く。
『何だか解らないんだけど、呼び止めちゃってね。お茶に誘ったんだ』
「───そうだったのか…………」
(主)の言っていたことは本当。明香里を誘った訳ではなく、逆に誘われていた。……もしかして、狙ってるのは明香里の方なんじゃ?
『でね。ここからが面白いんだよ』
一転して愉しそうな声色になる彼女。
『私が自分のことを嫌味に言ったらね。それ以上に容赦無い言葉で───お前は男をおもちゃみたいに扱ってるって、叱られた』
叱られた───。
先程、真也自身が言った言葉と重なる。しかし彼に出来たのは、
「……それ、叱られたのか?」
という、辛辣な言葉に対する疑問を投げるだけだった。そもそも叱られるということがよく判らない真也には、何とも言えない。
「うん。それを叱られたっていうんだよ」
対して明香里の、まるで言い聞かせるような言葉。
「そうなのか?」
「うん」
それっきり、会話は続かなかった。真也は理解に脳を割いていたし、明香里はもう喋る気も無かった。
「長話になっちゃったね。じゃあね」
彼女からこう切り出すのも当然と言えよう。
「あぁ。また」
素っ気ない挨拶と共に、通話が切れる。
───音が消える。
真也はスマートフォンをポケットに捩じ込み、再び、街灯に群がる蛾虫を見上げた。
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