2.Drop the everythin'.―1
そこまで告げられて、坂月はやっと、自我を取り戻したような、意識がフェードインする感覚に目覚めた。はっとし、自信を囲む三人の隙間から辺りの様子を見回した。DFに囲まれるという非常事態の光景に興味がないわけがない。人々のその殆どが足を止め、坂月達の様子を数歩離れた位置から興味の視線を投げている。
くそが、そう、坂月は吐き出したくなった。そして、秘匿な程に小さく実際にそう吐き出した。俯き、眉を顰め、大そう気だるそうに吐き出した。あぁどうして俺が、と続ける。
坂月はそういう男だった。何かに熱を持つ事がなく、ただ、死ぬのが面倒だから生きているという男。そんな、無気力な男。故に、坂月はこの状況に嫌気が刺していた。なんで俺が、どうして俺が、と面倒な状況に面倒をただ、感じていた。
そんな面倒だとしか思わない様な男、坂月はどうするか考えさえしなかった。
ただ周りの視線と、眼前と両サイドに立つ男達を疎ましく思い、ただ、この状況から脱したいと思った。
だから、坂月はまた面倒を呼びそうな選択を選んだ。それでも、今、この状況から脱出する事が出来るならば、と。
「逃げたぞ!!」
坂月を正面に捉えていた男が怒鳴り声に近い大音声を上げた。
そう、坂月は、即座に踵を返して走り出したのだ。
走り出したその瞬間から既に、坂月の呼吸は荒れていた。張詰めた空気を爆発させたかの如く、坂月は緊張から遁走し、一瞬のみであるが解放されたのだ。緊張した空気の中で自然と呼吸の回数を減らしてしまっていたのだ。だから、意識外で酸素を求め、坂月の呼吸は荒れた。そして必然的に走る厳しさを感じ始める。
「くっそ……何がなんだってんだよ……」
荒れる呼吸の隙間を縫ってそう吐き出しながらも足を止めない坂月。ふと、街灯とならんで設置されているミラーを見上げると、自身を追ってあの三人が背後に近づいてきている光景を確認できた。流石は国の平和を守る軍隊DFか、その速度は坂月と比べ格段に早く、あっという間に坂月に追いついてしまいそうだった。そんな光景をみて尚更、坂月は呼吸と肉体の悲鳴を無視して駆けた。
暫く走ると、無我夢中だったからか坂月は見覚えの殆ど無い道へと出ていた。途中までは自然と帰路をなぞって進んでいたのだが、本能が自宅に向かうのは危険だ、と察知したのだろう。日が空高く昇ったその時、坂月は見慣れない路地裏に突っ込んでいた。
「あぁ、ふざけんなよ……」
そして先に見えてきた光景に、坂月は足を止めざるを得なかった。
昼間だというのに薄暗い背の高い建物二つに囲まれて生み出される路地裏の途中。坂月の視線の先に見えてきたのは――壁だった。無理すればよじ登れるようなフェンスではなく、少し跳べば越えられる段差ではなく、壁だった。高さは四メートル弱だろうか。どうにかすれば確かに、乗り越える事が出来たかもしれない。だが、すぐ背後にDFが迫ってきているこの状況で、坂月が様々な挑戦をする時間はなかった。
今の今まで無駄に喧騒を生んでいた無数の足音が次々と止んだ。
坂月、そして男達、と足を止める。坂月は壁際まで進み、そこで振り返り、壁に背中を預けて三メートル程先にまで迫って足を止めた男三人を続けざまに一瞥した。
坂月は状況を忌憚する。だが、忌避できそうにはなかった。
「何故逃げたのか」
坂月から見て右に位置する男が無機質な声色で放つ。
「アカシック・チャイルドだという自覚はないのではないのか?」
坂月から見て左に位置する男が感情の起伏の感じられない声色で漏らす。
「我々DFから遁走するとは、強制連行をお望みか?」
そして、坂月の真正面に位置する男が怜悧さを感じさせる声色で告げる。
「俺が何したってんだよ」
こんな状況ながら、慌てふためき、大音声で喚き散らす事は出来ないか、坂月の口から漏れたのは小さな言葉だった。
「罪状を告げたつもりはない。今はまだ、疑いの余地ありに留まっている」
正面に立つ男が無慈悲にそう告げ、坂月に一歩だけ迫って続ける。
「任意同行願いたい。それ以降の執権は我々も余り好まないのだ」
そしてもう一歩迫った。
無駄だ。そう、坂月が現状を悟ってこの理不尽な現状に屈してしまおうと諦めかけたその時だった。
「上!」
可愛らしい、余りに場にそぐわない軽い声色が言葉そのまま、坂月の『上』から聞こえて来た。坂月は首だけを動かして真上を見上げ、DFの男達も思わず視線を坂月の上へと向けてしまった。それ程までに、予測できない事態だったのだ。
坂月の真上には、壁を乗り越えて坂月へと細く、雪の様に真っ白な手を伸ばす少女の姿があった。一目見て、その全く見覚えないのない少女が坂月を助けようとしているのが分かった。
最早、何故、どうして、と問うてる暇も考えている暇もない。少女のその行動に理解をしたか、DFの連中三人は即座に坂月の確保に移ろうと足を上げ始めた。
「ッ!!」
坂月は頭上に伸びる手に縋るしかなかった。自身も手を伸ばし、壁を越える勢いで跳躍し、少女の手と自身の手を絡ませる。
「捕まえた!」
二つの手が重なったと同時、少女の声がもう一度だけ響いたが、聞いている暇はなかった。坂月が跳躍した勢い、そして、少女自身が壁から重力に引かれて落ちる勢いが重なり、坂月はワイヤーアクションでもしてるかの如く、舞い上がった。その坂月の足に三人分の手が伸びてくるが、僅かな差が生じ、三人の手が坂月を捕まえる事はなかった。
坂月の体は視線では追えない程の速さで動いた。そして、一回の宙返りの様な感覚が過ぎ去って――、
「いってぇ!!」
坂月は少女と共に、壁を越えたのだった。背中から落ちた坂月と、そのすぐ横に転がった少女。無理も無い。少女の華奢な矮躯で坂月のほぼ成人男性ともいえる体を引っ張り上げたのだ。着地まで見事に決まる通りなんて最初からなかったし、少女も期待していなかった。
打ち付けた背中を摩りながら先に起き上がったのは坂月だ。すぐに側に倒れこむ少女を引き起こしてやり、顔を向かい合わせる。