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礼似は顔の痛みにちぢみあがっていた。何これ? 寒いどころじゃない! 痛い!
空港から電車に乗り換える時も、地下のホームは寒いと思った。札幌だって十分すぎるほど寒かった。
しかし、レンタカーでやってきた、この港町で車を降りようとしたら……痛い! 無防備な顔も、手袋を付けた指先さえも、寒さを通り越えて痛いのだ。思わずふきかけた息も、凍ってかえって冷たくなる。北国なんか大嫌いだわ!
だいたい、不慣れな雪道なんか運転したくはなかったが、北海道は思った以上に広い。要所、要所が相当離れている。札幌中心部は流石に便利が良かったが、観光地とは関係のない所を調べるためにはやっぱり車は必要だ。開けた港町でさえ決して交通の便はいいとは言えなかった。あの娘の住んでいたマチなど、車を使わなければ、ろくに移動も出来ないだろう。苦手な雪道を緊張しながら、嫌いなノロノロ運転で走るもどかしさ!
あーあ。本当にこんなところ来るもんじゃないわ。さっさと調べて、さっさと帰ろう。一体どんな人間が、こんな寒さを楽しめるって言うんだろう? 地元の人はよくこんな所に住んでいられるわね。礼似はしみじみ思っていたが……
「そーら、こてつ。楽しいでしょう?」
ここに雪と寒さを、愛犬と満喫している人がいた。由美だ。こてつは相変わらずニコニコしている。
「奥様、本当にここにこてつを連れて来て、良かったんでしょうか・・・?」
不安げにタエは聞いた。
たまたま話がスキーの事になり、タエが一度も滑った事が無いと言うと
「あら? じゃあ一緒に行ってみない? こう見えても、私、スキーは得意なの。昔は主人ともよく行ったんだけど……。そう言えばこてつは大雪を見せてあげた事が無いわ。パウダースノー、見せたら喜ぶでしょうね」
そんな由美の思いつきで、二人はフェリーにこてつを連れて乗り込み、北海道のとあるスキー場に来ていた。
「スタッフの人も快くかまいませんよって言ってくれたし、犬ぞりで遊べるって書いてあったんだからいいんでしょう」
由美はそう言って楽しそうにしているが、タエは絶対に違うと思った。
第一、今、そりに乗っているのはこてつである。由美はプラスチック製の子供用のそりにこてつを乗せて、自分がそりを曳いてやるという、独自の「犬ぞり遊び」(?)をしていた。
ここにはゲレンデとは別で、雪の体験広場が作られており、本物の犬ぞりはスポーツドッグらしき犬たちが、きちんとしたコースで子供を乗せたそりを曳いている。
たしかここって、市の財政が苦しくて大変なスキー場だと、何度もニュースになっていたところよね。会長の事だから、色々と手をまわして(弱みに付け込んで)奥様がこてつと遊ぶ事を無理やり承諾させたんじゃないかしら?
タエはそんな事を考えていたが、気が付くとスキーを履かされ、由美に引っ張られてリフトに乗せられていた。
「あ、あの、私、スキーは初心者で、初めて履いたんですけど。それにこてつは?」
「こてつはスタッフの方に見てもらってるわ。私が滑り下りる所をこてつにも見てもらわなくちゃ。せっかくスキーに来て滑らないなんて、もったいないわよ、タエさん」
あれよあれよという間にリフトは山頂へ。これって、上級者のコースなんじゃ……
「やっほー! こてつー! 今行くからねー!」
由美はそう、楽しげに叫ぶと(こてつに聞こえるとは思えないのだが)華麗にシュプールを描いて降りていった。
途方に暮れてタエはその背中に叫んだ。
「奥様―! 私はどうやってここから、降りたらいいんですか―!」
タエの叫び声は果して由美に届いていたのかどうか。
礼似はへとへとで札幌の典型的なビジネスホテルの部屋のベッドに倒れ込んだ。とにかく疲れた。
男騙してひと儲け? 無理無理。そんな気力も体力も残りゃしない。ああ、くたびれた!
ついに、レンタカーはあきらめた。綺麗に除雪された道ならともかく、人づてに物を聞いて回るのに裏道や路地の奥へと入って行くと、積み上げられた雪山で視界は遮られ、吹きだまりに道は消され、轍にハンドルが取られる。
運転できない訳ではないだろうが、こうも疲れては調べるどころじゃなくなりそうだ。
スキー場みたいに、観光客用に整備が整った道と一緒に考えたのは、失敗だったなー。こうなったら、タクシー、ガンガン使って、会長に思いっきり色付けて請求してやろうか? 地元の運転手なら、噂にも詳しいだろうし。ホテルも、もっといい所に泊まればよかった。ああ、自分の庶民感覚が恨めしい。
それでもわざわざ足を運んだかいはあった。例の貿易会社とやらはやっぱりダミーで、とっくに計画倒産されていた。資料の上では会社の存在も、そこに社長として納まっていた人物の存在も綺麗に消されている。
しかし、人が目撃した事実や、記憶に残っている出来事は、誰にも消しようがない。その人物が行動したと思われる周辺を丹念に訪ね歩けば、結構痕跡は残っている。港町の外れの、小さな海産物の貿易をおこなっているように見せていたダミー会社は、裏で怪しげな物を売りさばいていると、ささやかれていたらしい。
男の名は北里と言うらしかったが、これも偽名だ。年の暮れを前にして姿を消している。
しかし、今度は田沢と言う男が、どうもクスリの密売にかかわっているらしい事が解った。同一人物が名を変えたのかと思ったが、どうやら別人のようだ。見かけたという人相が、北里と田沢では、全く違うのだから。
田沢が北里のルートを引き継いだのか、北里が田沢を利用しているのか? その辺のところは、これからクスリを買った人間を調べるうちに分かってくるのだろう。そのために、クスリを買った娘の地元を訪ねに行かねばならない。
ブツを手に入れるのは港でも、広めるのは内陸部をこいつらは選んだらしい。簡単にルートを探られないためだろう。おかげで世間知らずな子供が犠牲になっているという事か。タチが悪いな。
札幌からなら電車を乗り継ぐよりは、高速バスの方が便利だな。礼似は時刻表に目を凝らしていたが……。
その時部屋の電話が鳴った。取ってみるとフロント係の者が、「お電話が入っています」と告げる。誰だろう?
「礼似か。悪いが宿を変えてもらいたい」
いきなり会長の声がした。
「は? 何故です? それに私、まだ夕食もとっていないんですけど・・・」
「すまんがこれから言うところに行って欲しい。そこに由美がいる」
「奥様が? 何故です?」
「スキー旅行だ。タエとこてつも連れている。心配だったのでそのマチに私が色々手を回していたのだが、それがあだになったらしい。由美が誰かにつけられているようだ。本人は気付いていないが、タエが知らせてくれた。私や由美の事を知っている人物が、そっちにいるらしい。調査は後だ。由美を見守ってやってくれ」
なんでこんな時に、奥様がスキーなんかに来てんのよ! 会長も会長よ。私をなんだと思ってるんだか……
文句は山のようにあったが、会長命令では仕方がない。行くか。
急いで荷物をまとめて、タクシーを呼んでもらう。もう! 高速、使いまくってやる!
タクシーに乗り込むと、礼似は行き先を告げた。夜のススキノのネオンが車窓から見える。
あー、お腹が空いた。なんで私、こんな目に会ってるんだろう? 御子と良平にでも押しつけとけばよかったな。あの二人なら新婚旅行気分で、そんなにつらさも感じなかったでしょうに。
空腹を抱えた礼似を乗せて、タクシーは間もなく高速に乗った。