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「こんばんは。砥ぎ、終わったんですって? 取りに伺いました」
礼似が携帯を睨んでいた頃、土間はこう言っていた。
「土間さんが……何故です?」
倉田の工房にいた香はキョトンとしていた。
香が倉田に砥ぎを教わっていると聞きつけたハルオが、香にドスの砥ぎを頼んでいた。
「れ、練習のつもりで、ぜ、是非、お、お願いします」
ハルオには今まで身を守るための訓練をしてもらっていたし、あんまりにも熱心に頼むので、香もふと、
「まあ、いいか」
という気になった。こんなこと私に頼むのはハルオくらいのものだろうし、本当に練習にはなるだろうし。ハルオなら、私の心に反する使い方……意図的に誰かを深く傷つける使い方はしないだろうから。
正直、香は誰かと組む事を恐れていた。自分もいつかは礼似から離れて、一人でこの世界で生きていくのだと思っていた。もう、誰を巻き込むのも、足を引っ張るのもこりごりだ。またスリにでも戻った方がいいかもしれない。
けれど、砥ぎなら……ハルオや土間さんのような人が、相手を深く傷つける心配をし過ぎぬように、いい状態に刃物を整えておく技術なら、人に協力してみるのも、いいかもしれない。そんな技術も、自分の中にあってもいい。
ハルオに砥ぎを頼まれた時、香はそんな事を考えたのだ。
「ハルオのドスは、私が初めて握った刃物なのよ。だからずっと手元に置いておいたの。あんたが倉田さんに習って、そのドスを研ぐと聞いて、懐かしくってね。私は若い時にそのドスを倉田さんの砥いだ刀を手本にして、自分で研いでいたものだから」
土間は香からドスを受け取ると、いとおしそうに鞘を抜いて、波紋を確認した。
「きれいだわ。いい研ぎね。最初にしては上出来よ。砥ぎ料払うといってもあんたは受け取らないだろうけど、お礼にコレはどう? いける口なんでしょ?」
土間の手には洋酒のビンが握られていた。
「たまには誰かと呑むのもいいもんですね。いっつも一人酒に慣れていたから」
香は口がなめらかに動いた。
「でしょ? お酒は楽しく呑まなくちゃ。それに、なかなか強いじゃない。もう、二本目が空きそうよ」
土間が驚いた。
「へへ。もう時効って事で許してほしいんだけど、実は中学の時から、一人で飲んでたの。スリの母親は夜中じゅう、泥酔者の懐、狙ってるから留守でしょ?退屈しのぎに遊び回ってるうちに覚えちゃった」
「悪い子ね。でも、それだったら、礼似と呑めばいいのに。一緒に呑んだこと、ないそうじゃない」
ほんの少し、香は言葉を詰まらせた。だが、軽くグラスを煽ると、すぐに話し始める。
「……こてつ組に入る少し前に、ちょっと、オトコ、騙しそこなってね。って言うか、騙しきれなかったんだ。あんまり人が良すぎて。その内そいつと『変な事』になっちゃって、こっちの方がのぼせあがっちゃった。でも、所詮は堅気よね。こっちがまっとうな女じゃないから、軽くあしらってた、だけだったみたい」
「……それで?」
「あったまきたから、そいつの有り金巻き上げて、ついでに自分の有り金もはたいて、高級そうな酒、片っ端から買って呑んだの。真冬だったのに、暖房も入れずに。そしたら翌日高熱出して、金、使い切ってたから、薬も買えなくって。これはさすがにやり過ぎたって反省して、ずーと禁酒してたんだ。だから呑むのは久しぶり」
「そんな人間ばかりじゃないわよ。堅気も、男も」
「うん? 土間さんは男だったんだもんね。マシなオトコもいる事なんて解ってるよ。ただ、私ずっと一人だったし。おんなじお人好しでも、ハルオは違うもんね。あれはお人好しの上に、輪をかけてバカだから。私みたいな女に身体張ってさ。刀使いは大っきらいだけど……でも、そういうバカは、嫌いじゃないかも……」
香はうとうとしてきていた。
不意に土間の携帯が鳴った。会長からだ。
「はい。……え? 御子と、良平の連絡が途絶えた?」
土間の顔色に、香の酔いはいっぺんに醒めた。