ダビデの呪文
六駅を通り過ぎて、私の尻はうんざりしている。右隣に座るおっさんの鼾を聞きながら、ただ尻を動かしたいとだけ思っている。たった今、「あなたの夢は何ですか。」と訊かれたら、私は即座に、「尻を動かすことです。」と答えるであろう。動かしたい、尻を。動かせばいいじゃないか、と思うかもしれないが、動かせないのはこれ、左隣に座る二十五歳ぐらいのOLであろう女性が私の肩に寄りかかりながら眠っているからであり、起こしては可哀想だと、私は思ってしまうからであり、私の人生というもの、かれこれ二十七年、私は常に、人の気持ちを考えすぎてしまうのである。
今の私の夢、尻を動かす動作を何と呼ぼう。「寝返り」ではないし、何と言うべきか。私は、少なくとも自分の脳内には答えが存在しないということを承知の上で、考えてみた。いや、考えるふりをしたと言った方が正しいのかもしれない。全く無駄な努力である。しかしながら、しだいに尻を動かしたいという欲望だけが脳内を占領し、余裕がなくなった私はこれに、「尻返り」という安易な名前を付けて、思考を強制終了させた。安易でごめんよと思ったが、そうやって名前を付けてみるとこれ不思議なもので、辛いはずの尻が愛らしく思えてくるではないか。はは、面白い。だから人は生きるのだ、はは、と愉快な気持ちになりながらも、人が子供に名前を付ける行為は、その子を愛するために必要不可欠な一つの手段なのかもしれないなと真面目のようなことも考えた。
「子供か。」私は二十七歳になったというのに、結婚もしてなければ、当然子供もいない。ましてや恋人もいない。私は今まで何をしていたのだと自分を殴りたくなったが、おっと、それはいかん。そんなことをしてはOLが起きてしまう。危ない、危ない。
ふと前の席を見ると、そこに座るのは、皺くちゃな指に無駄だとすら感じるほど光輝く指輪をはめた婆さん、これでもかと股を広げてイヤホンからハードロックの音を洩らす男子高校生、その隣で身を縮めて辛そうな体勢なのだけれど、顔を上に向けて口を大きく開けながら眠っている主婦など様々である。
私は、「ここで問題です。この電車に乗っている人々には、一つだけ共通点があります。それは何でしょう。」という問題を作った。そして、その問題を作りながら思い付いた答えが既に頭の中に浮かんでいるというのに、はて何だろな。という思案する顔も作ってみた。自分で問題を作って、答えを知っているのに思案するふりをするというのは思っていた以上に虚しかった。
虚しくて泣きたくなったが、問題には答えようと思い、
「目の前に座る人たちは全員、眠っています。そこが唯一の共通点です。」
と丁寧に回答した。正解であった。頭の中で「ピンポン!」という音がした。その音は、隣のおっさんの鼾の三倍程度の音量で聞こえた気がした。
何故、私は寝むれないのだ。上司との付き合いで酒を飲んだ後、今朝五時半に帰宅し、シャワーを浴びて、四十分程は寝たが、当然その程度では眠気は覚めず、目を擦りながら電車に乗り込み、今、会社に向かっている。そんな状況で見つけた魅力的な空席。どうした事であろうか、今ではちっとも魅力を感じない。
自分の一部であるはずの尻が、私の敵になったような気さえする。
「睡眠欲」と「尻動かしたい欲」の戦い。尻の優勢。さらには、OLの援護。つまりは、人を気持ちを考えすぎてしまうという私の奇病を利用した効果的な作戦を、相手であるOLは思い付いたのであろうか。それとも、尻とOLは元々、何も関係のない他人同士であったが、偶然にもお互いに、「あいつをちょっと苛めてみよう。」と私を発見しては、
「はじめましてOLさん。あなたもこいつが気に入りませんか。」
「こんにちは。気に入りませんね。自分で自分に問題なんか作ってないで、もっとちゃんと生きないと駄目ですよと説教をしようと思いまして。奇遇ですね。あなたお名前は?」
「私は尻といいます。それなら一緒に奴を痛め付けましょう。」
「賛成です。私は何をすれば良いでしょうか。」
「じゃあOLさんは、奴の肩に寄りかかりながら眠ってください。私は、あなたの攻撃で動けなくなった彼をじわりじわりと痛めつけます。」
「ラジャー、尻隊長。」
「隊長だなんて恥ずかしいからやめてくれ。」
などという作戦会議をした後で私を苛めているのであろうか。ああ、私は、また無駄な思考に陥ってしまった。そもそも自分の一部であるはずの尻が、私の敵になるということは、やはり意味が分からない。睡眠不足から生じた異化。こんなことを考えているうちにも、私の尻は悲鳴を上げている。
尻はどのような悲鳴を上げるのだろうか。尻は尻らしく「シリー!!」と叫ぶのであろうか、それとも期待外れにありきたりの「キャー!!」だろうか。「オーマイガ!」と英語で叫ぶかもしれない。実際に聞いてみたいものだ。ああ、これまた無駄な思考。尻が痛い。
駅に着き電車が止まると、OLは慌てて立ち上がり、駆け出して行った。その時初めて気付いたが、そのOLは相当な美人であった。彼女が走り去った車内には、甘酸っぱいような香水の匂いがほのかに漂っていた。
OLが居なくなって、私は即座に腰を上げた。尻を上げた。やっと夢が叶ったのだ。尻全体の血流が一気に良くなって、それはまるで勝利の証。シャンパンを頭から浴びているような感覚。じわりじわり。いや、じゅわあじゅわあ、のほうがいいか。
「真っ赤なシャンパン 尻に浴びれば 私は勝者 美女の枕 耐えたご褒美」
と、陽気な歌を作っては、頭の中で歌ってみた。自分で言うのもなんだが、なかなか良いメロディーだった。
私が尻を動かしてもごもごしていると、隣に座るおっさんの鼾が止まり、目を覚ましたかと思うと、何事も無かったような体たらくで座っている。何と羨ましい性格なのだろうか。私だったら、鼾で人に迷惑を掛けてしまったのではないかと肩身の狭い思いをするであろうが、おっさんはそんなことは一切考えない様子で、私に邪魔だとでも言いたげに股を広げた。広げやがった。
もしかしたらこのおっさんは、自分の鼾の喧しさに気付いていないのかもしれない。私は、もしそうなのだとしたら可哀想だなと思った。鼾を注意してくれる人が周りに居ないのかなと思ったからである。
そして私も注意しなかった。
おっさんは
「よっこいしょ」
と言って立ち上がり、寝ぼけているのかヨタヨタと電車を降りて行った。
それにしても、「よっこいしょ」というのは何なのだろうか。なんとも可愛らしい言葉ではないか。人気子役に言ってほしいなあ。「よっこいしょ」と15秒、子役が言い続けるだけのCM。そんなCMがあったら、全国のお茶の間が笑顔になるだろうなあ。ただそれは一体、何のCMだろうか。「椅子」のCMだろうか。ただ、「よっこいしょ」という言葉は、立ち上がる時のある種の苦痛・負担の様なものを言語化したものであって、椅子を宣伝するのにそんな言葉を使ったら、まるで「この椅子は立ち上がるのが辛い椅子です。買ってください。」と言っているようなことになり、それじゃあCMとして成り立たない。困った。じゃあ、何だろか。なんのCMなら・・・。
一体どれくらいの間、私の脳は下らない思案に支配されていたのだろうか。あっという間に電車は次の駅に着いたらしく、ドアがドンプシューと言って開いた。
ものすごい数の人々が並んでいる。「私が一番に乗るんだ。邪魔をするな。」とでも言いたげな中年のおっさんは、降りる客がまだいるというのに片足だけひょこんと乗車させて、今か今かと乗り込むタイミングを計っている。その後ろには、2列に並ぶ、人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人。妙に真っ直ぐ並ぶ姿はまるで軍人。北のあの国のような光景である。
全ての軍人が乗車した車内は、人間で埋め尽くされて、まるで缶詰。人間缶詰。私は、発狂しそうになるのを堪えて座っていた。OLと鼾のおっさんが座っていた席、私の左右の空席には、軍人が二人、座った。お座りになった。
私は目を瞑っていた。視界が人で埋まるのが嫌だったのである。なにか楽しいことを思い出そう、何か、と考えて私は「よっこいしょ」を思い出した。人気子役が「よっこいしょ」言って、笑う。良いじゃないか。平和じゃないか。そこには、軍人なんて一人も存在しない。存在する必要がないのだ。そんなことを考えていると、精神が安定してきたので私は勇気を振り絞って、目を開けてみることにした。
私の心にはもはや、この人間缶詰に立ち向かってやろうという闘争心さえ生まれていた。
ゆっくりと目を開けると、視界全体にまた軍人が溢れた。しかし、何かが違う。軍人たちの様子がおかしいのである。皆、目を見開いていて、苦痛に耐えているように、拳を強く握り締めたり、歯を食いしばったりしている。
「どうかしましたか。」
私は、目の前で苦しそうにしている軍人に声を掛けてみた。しかし軍人は何も答えない。ほんの少し黒目を私の方へ動かしたように見えたが、あとは苦悶に満ちた顔をして、小刻みに震えているだけである。私は助けを求めるために周りを見渡したが、私以外の全員が、この軍人と同じような状態なのであり、皆が皆、痙攣を起こしている。
私は立ち上がって、非常ボタンを押した。しかし、何も起こらない。止まる気配もなければ、アナウンスさえも聞こえてこない。私は、運転手に直接知らせようと、痙攣する人たちに「大丈夫ですか。大丈夫ですか。」と声を掛けながら、急いで車掌室に向かった。
車掌室の前について、ガラスを叩きながら、
「乗客の様子がおかしいです。緊急停車してください。」
と言った。ガラスの振動が目に見える程の大きな声だった。しかし、運転手は無視。
「おい、乗客がみんなおかしくなってんだよ!」
とまた言ってみたが、また無視。イライラしながらも、運転手の視界に入れば気付くだろうと思って、出来るだけ車内の端に寄ってガラスを叩いた。
私は、目を疑った。運転手の顔が真っ白だったのである。顔面蒼白どころではない白。全身が歯になった様な色をしているのである。私が茫然として動けないでいると、電車がカーブに差し掛かり、車内が少し揺れた。そしてその少しの揺れで運転手は姿勢を一切変えぬまま倒れた。カンッという音がしたことから、どうやら彼の身体は石のように硬くなっていることが知れた。
これじゃあ助けを求める人が居ないじゃないかと私はどうすれば良いのかわからなくなった。微かな望みを込めて、倒れている運転手に「おい!」とまた叫んでみたが相変わらず反応はなかった。私はとりあえずさっき自分がいた席の方へ戻ってみようと後ろを振り返って、また、自分の目を疑い、茫然自失。視界が真っ暗になった。苦しんで痙攣していたはずの乗客が全員、運転手と同じ状態になっていたのである。黒い視界の中に、白く固まる人。私は、一番近くに立っているおじさんの肩を人差し指と中指と薬指で叩いてみた。これが人間かと疑いたくなるようなコツコツという音がした。触れるまでは信じたくもなかったが、やはり身体が恐ろしく硬くなっていたのである。
その後も、出来る限り多くの人に声を掛けたり、身体を揺すったりしてみたが、全員が全員、真っ白な石。ダビデ像のようになっているのである。しかしどうして私には何も異変が起こらないのだろうか。これは夢かと思い身体のいたるところを抓るなどしてみたが、どこを抓っても直ぐに痛みが走り、どうもこれは現実らしかった。信じられなかった。信じたくなかった。
「ミケランジェロ!ふざけるな!」
私は気付いた頃にはそう叫んでいた。ガタガタと電車が揺れる音の中で、その叫び声は白い石にぶつかって冷たく響いた。
「ミケランジェロさん。ダビデを作ったのが貴方なら、この固まった白い人々を作ったのも貴方でしょう。もう、おふざけはやめて下さい。私はもう頭がおかしくなりそうです。この石になってしまった人たちを元の姿に戻して下さい。お願いします。ねえ、ミケランジェロさん。」
石になった人々に感情移入して、私はそんなことを叫んでいた。しかしそんな心の叫びをミケランジェロは悉く無視した。車内の中で動いているのは私の心臓だけで、そこには生命がただ一つしか存在していないようであった。
電車が急に真っ暗になった。トンネルに入ったのだ。すると、どうしたことだろう。急に、固まっていた人たちが、何事もなかったかのように動き出したのである。座っているおばさんは欠伸をして、若いカップルは会話をし出す。誰も、先程まで石になっていたことには気付いていないようだった。トンネルに入った途端に、生命が蘇ったのだ。それに、誰もが元気であった。苦痛に耐えて歯を食いしばっている人も居なければ、痙攣をしている人もいなかった。私だけが青ざめた顔をして突っ立っていた。
「まもなく、三軒茶屋、三軒茶屋です。」
というアナウンスが流れた。どうやら運転手も元に戻ったようだ。私は安堵感と、酷い疲労感を同時に感じた。三軒茶屋駅に着くと沢山の人が降りて行った。やはり異変を感じている人は居ないようだ。私は空いた席に腰を下ろした。数人の人が乗ってきて、私の目の前に髭の長い外国人が立った。誰かに似ているなと思ったがそれが誰なのかは思い出せなかった。歳を取っているように見えたので席を譲ろうかと思ったが、もしこの人がただ単に老けているだけだとしたら失礼だなと思って、私は席を譲らずに目を瞑って眠ったふりをした。また、考えすぎてしまった。今わかったが、私は外国人の年齢を見分けるのが苦手だ。
そのまましばらく座っていると、何だか肩が凝ってきたような感じがした。首を回そうとすると重たく、ああさっきの疲れがどっときたのだなと思った。もう本当に寝てしまおうと、腰を深く座りなおそうとした。しかし、思うように身体が動かない。
私は異変に気が付いた。だんだん手足が痙攣してきているのである。嫌な予感がして目を開けようとしたが、脳の指令がどこかで途絶えたように瞼が全く動かない。全身が痙攣し出し、意識が薄れていく。
そんななかで、低く枯れた声が聞こえてきた。
「お前の望み通り、石になった人々を解放してやった。お前の願いを叶えてやった。けれども、私はお前をダビデにする。お前をダビデにする代わりに人々を解放したのだ。さあ、ダビデになるんだ。ダビデになれ。ダビデになれ。ダビデになれ。」
そんな言葉が私の目の前で繰り返されている。
どんどん意識が遠のいていくなかで、私はふと、あることを思い出した。目の前に立つ髭の長い外国人はミケランジェロにそっくりだったのである。そして、目を瞑っているから定かではないが、先程から繰り返されている言葉は、どうやらその男のものであった。
「渋谷、渋谷です。」
というアナウンスが、もう殆ど無に近い意識の中で微かに聞こえた。私は渋谷で降りるのだ。けれども立ち上がれない。もはや立ち上がっても、その場で気を失ってしまう様な状態であった。それでも私は最後の力を振り絞って、気合を入れて立ち上がろうとした。渋谷で降りたかったことよりも、この呪縛からとき離れたいという気持ちのほうが圧倒的に強かった。私はもがき叫んだ。
「よっこいしょ!」
私の叫びは車両全体に響き渡った。そして、私は驚いた。いとも簡単に立ち上がることができたのである。夢だったのではないかと思うほど、意識ははっきりとしているし、痙攣も治まっている。そしてそれよりも奇妙だったことがある。あの髭の長い外国人が消えていたのである。そして、あの低く枯れた声も、消えていた。
そんな謎だらけの状況の中で、私は頭を整理してみようとした。しかしそれで分かったことは、ダビデにならずに済んだということだけであった。
けれども、何故私はダビデにならずに済んだのか。謎が解けて、また謎が生まれた。初めに車内中の人々がダビデになった時、私には何も異変が起こらなかった。そして今も、私は結局ダビデにならずに済んだ。自分にそんな力はあるはずがない。きっと何かが私を守ってくれたのだ。一体、何が。
私はこの二つの時点に何か共通点があり、その共通点が私を救ったのではないかと考えて、記憶を思い返してみた。そして、気が付いた。
よっこいしょ。それが私の救世主だったのである。ふふ。効力を持つ言葉というのはいつも稚拙で滑稽なものだ、と笑い、電車を降りると、そこには堅苦しい言葉ばかりが溢れていた。