追放直前の聖女ですが、突然みんなの頭上に数字が見えるようになりました
突発的に追放聖女もののアイデアが浮かんだので、書いてみました♪
「……え?」
エキュリア王国の聖女ステラ=リシアは、神殿の廊下で足を止めた。目の前を歩いていた侍女リタの頭上に、見慣れない数字が浮かんでいたからだ。
――12。
「……数字?」
思わず目をこするが、消えない。突然目をこすったり、ぱちぱちと瞬きを始めたステラを不審に思ったのだろうか、それとも自分への視線に気付いたのか、リタが振り返る。
「ステラ様? どうかなさいましたか?」
「い、いえ……なんでもありません」
リタは不思議そうに首を傾げ、それからいつものように微笑んだ。
「ステラ様、お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます」
「とんでもございません。ステラ様には、いつもお世話になっておりますから」
優しい声、いつもと変わらない笑顔。けれど、その頭上には、12という数字が浮かんでいる。
(この数字は、何…?)
リタは、ステラがもっとも信頼している人間の一人だった。幼い頃から身の回りの世話をしてくれた。熱を出した夜には、一晩中付き添ってくれた。ステラが15歳の誕生日を迎え、晴れて神殿に務める聖女になってからも、忙しいステラのために食事を用意し、眠れていない日は何も言わず温かいお茶を置いてくれた。そんな人の数字が、12。
「一体、どういうこと……?」
「ステラ様?」
「あっ、いえ。なんでもないわ」
あなたの頭上に数字が出てるんだけど、12って何だと思う?なんて、勿論そんなことを聞けるはずがない。ステラはリタに背を向けた。胸の奥が、ひどくざわついていた。
***
その日、ステラは神殿中の人間を観察した。リタだけではなく、ステラの目には全ての人の頭上に数字が浮かんでいるように見えた。
神殿長ゴードンは――8。
幼い頃から面倒を見てくれた老司祭エドワードは――21。
いつも励ましてくれた同期の聖女サラは――4。
食事を用意する料理人ケインは――17。
掃除をしている下働きの少年ノアは――63。
「……どういうこと?」
どうして数字が出るようになったのかはわからない。けれど、一つだけわかることは、数字が大きいほど、自分に対する何かが強い。好意、信頼、親しみ。あるいは、もっと別のものもあるだろうか。
正確な意味まではわからなかった。ただ、数字が高い人ほど、自分に親しい人間が多いような気がする。そう考えれば、ひとまず辻褄は合う。
では、12という数字は何なのだろう。ステラは鏡の前に立ったが、鏡に映る自分の頭上には何もない。
「自分の数字だけは見えないのね……」
そこで、ふと気づいた。
人の頭上に数字が浮かぶ。それなら、もっとも知りたい人物の数字を見ればいい。自分の婚約者、エキュリア王国王太子レオンの数字を。
ステラは胸元を押さえた。
(見たくない、怖い……けれど、確かめたい)
ずっと胸の奥に引っかかっていたものを、今日なら、確かめられる気がした。
午後、ステラは王宮へ呼び出された。通された部屋には、王太子レオンが座っていた。そして、その隣には侯爵令嬢エレナが寄り添うように座っている。
(一応公にはまだ私と婚約中なのだけど、すっかり恋人気取りね…まあ、恋人なんでしょうけど)
最近、二人が頻繁に一緒にいるという噂は神殿にも広がっていた。王宮では、ステラに関する噂も増えている。聖女としての力が衰えただの、王太子に執着しているだの、王妃になることに固執しているだの、神殿の権力を利用して王宮を支配しようとしているだの。どれも、ステラには身に覚えがなかった。最初のうちは、レオンだけは、自分を信じてくれていると思っていた。けれど、噂の出所が婚約者とその愛人だということに気付いてからは、ステラも彼らに期待をかけるのはやめてしまった。
神殿の聖女と王族の政略結婚なのだから、お互い愛情なんてないのは承知の上だ。他に結婚したい相手ができたのなら、いっそ清々しく婚約破棄をしてほしいと思っていた。
「ステラ」
レオンが口を開く。
「聖女としての役目、ご苦労だった」
「……ありがとうございます」
ご苦労だった、とは、どういうことでしょうか。
ステラは彼の頭上を見る。そこには、1という数字。
「……」
わかっていたことだけれど、息が止まる。たったの1。政略結婚でも、曲がりなりにも、自分の婚約者なのに。
そして、隣にいるエレナの頭上には、99という数字。
ステラは指先に力を込めた。こんなに高い数値を見たのは初めてだ。それまでは、数値が高い人は自分を好いてくれているものだと思っていた。けれど、エレナが自分を見る目は侮蔑と嘲笑に溢れている。
(数値が高いからといって、私の事を好きでいてくれるとは限らないのね…)
レオンは淡々と続ける。
「国王陛下とも相談した。君との婚約を解消する」
「……はい」
「また、聖女としての資格も剥奪する。神殿の力を利用し、王宮を乗っ取るために王妃の座を狙っている、偽聖女だという報告が上がっている。…おまけに可愛いエレナのことも、虐めたらしいじゃないか」
「……」
何一つ身に覚えはない。エレナ嬢に至っては、二人きりで会って話したことすらない。けれど、この部屋にいる人物――レオンも、従者たちも、皆軒並み頭上の数値は一桁だ。ここにステラの味方は誰もいない。ステラは何も言えないまま、俯いた。
「本来なら厳正に3日後、神殿から追放する」
覚悟していたはずだったが、それでも、胸が痛かった。
改めて、レオンの数字を見る。
――1。
ステラは、思わず尋ねた。
「…殿下」
「なんだ?」
「私のことが、お嫌いだったのでしょうか」
レオンが眉を寄せる。
「はぁ?なぜそんなことを聞く?」
「……いえ」
ステラは、取り繕って笑おうとした。不敬にならぬよう、上手く笑えていただろうか。
「婚約者でしたから」
「そうだな」
レオンの数字が、1から0になった。
ステラは、その数字を静かに見つめた。嫌悪ではない、憎しみでもなく、ただ、何もないのだ。自分は、この人にとって大切な存在ではなかった。婚約者だからそこにいただけで、必要なくなったから、捨てる。ただそれだけ。
「……そうですか」
ステラは小さく笑った。
「私、殿下に嫌われていたわけではなかったのですね」
「……」
「もっと悲しいことでした」
「何?」
「いいえ、何でもありません」
ステラは頭を下げた。
「3日後まで、最後の務めを果たします」
「好きにしろ」
部屋を出る。扉が閉まった。扉が閉まる時、もうレオンはステラの方を見ていなかった。きっとエレナと見つめ合い、ステラには見せない顔で笑っているのだろう。
ステラは廊下の壁に背を預けた。
「……そっか」
涙は出なかった。悲しい、悔しい、寂しい。けれど、それ以上に自分が信じていたものが、最初から存在していなかったような気がした。
その日の夜、ステラは一人で考えていた。
突然見えるようになった数字は、結局何なのだろう。好感度なのだろうか。それとも、その人が自分をどれだけ大切に思っているか。
ならば、エレナの99はどういう意味なのだろう。自分より、レオンを愛しているということなのだろうか。それだけではない気がした。
エレナは、ステラが聖女になってから何度も敵意を向けてきた。聖女という立場を羨んでいた。王太子妃の座を争っていると、勝手に決めつけていた。
それなのに99とは、高すぎる。
「……この数字は、もしかして私に向けられている感情の量…?」
答えは出ない。数字はステラにしか見えていないからだ。思い悩みながら、その日ステラは眠りについた。あと3日の間、耐え続ければ自分は追放され、神殿を出る。国外に送られるかもしれない。もう国境に結界を張ったり、怪我人の手当をすることもなくなる。そうしたら、どう生きようか。そんなことを考えていた。
しかし、翌朝。数字はステラの思わぬ方向へと変わってゆく。
***
神殿の食堂で、昨日まで64だった司祭の数字が、32に減っている。
「……え?」
別の神官は、50から17に。街から来た信徒は、80から12に下がっている。
ステラは目を疑った。いくらなんでも、急降下すぎる。
「数字が……下がってる」
理由はすぐにわかった。噂だ。
「王太子を誘惑した聖女」
「王妃の座を狙う聖女」
「神殿の権力を欲しがる聖女」
そういった噂を信じた人々が、昨日まで笑顔を向けていた人々が、ステラを見る目を変えていく。そして、数字も変わっていく。それは、ステラにとって恐ろしい光景だった。
誰かに嫌われることより、昨日まで信じてくれていると思っていた人間の数字が、簡単に変わってしまうことのほうが怖かった。
けれど、こんな悪意ある噂が飛び交う中でも、それでも変わらない人がいた。
「……ノア」
「はい?」
神殿で下働きとして住み込みで働く少年。数字は、63。
(昨日、見た時と同じ…)
今日も同じ。噂が広がっても。
ステラが王太子を誘惑したと騒がれても、神殿の人間が冷たい視線を向けても。ずっと変わらぬ感情でいてくれている。それが数字になって見えていることは、ステラをひどく安心させた。
「ノア、私が、王太子殿下を誘惑したという話を聞いた?」
「聞きました」
「それでも、私を嫌いにならないの?」
「どうしてですか?」
「……だって、みんな数字が下がっているから」
「数字?」
「あ……」
しまった。数字は他の人には見えないのを、つい失念してしまいそうになる。
「い、いえ。なんでもないわ」
ノアは、少し考えてから言った。
「僕は、ステラ様がそんなことをする人じゃないって知っています」
「……どうして?」
「僕が熱を出したとき、夜中まで付き添ってくださったからです」
「それは……」
「母さんが亡くなったときも、祈りを捧げてくれました」
「聖女として当然のことよ」
ノアは笑った。母親を亡くした時はまだ10歳くらいだっただろうか。背が伸びて、声も少し低くなった。成長したものだ。
「じゃあ、僕は、ステラ様を知っているから信じます」
その数字は、63。ずっと変わらない。
ステラは、そこで初めて気づいた。今まで、数字の大きさばかり見ていた。でも、もっと大切なのは、数字が変わるか、変わらないか。
同じことは、ノアだけではなく他の人にも起きていた。
老司祭エドワードは21のまま。
侍女のリタは数字を下げなかった。
以前ステラに助けられた騎士、ハンスも。街のパン屋の店主も。ステラと直接関わったことがある人たちは、噂を聞いても簡単には変わらなかった。
「私は、自分が見たものを信じます」
エドワードは、そう言った。
「あなたは昔から変わりません」
ハンスも言った。
「聖女様が娘を救ってくださったことは忘れませんよ」
パン屋の主人も言った。数字は高くない。それでも、変わらない。
ステラは、少しだけ胸を張れるようになった。数字が高いから味方、数字が低いから敵。そんな単純な話ではない。
誰かの言葉一つで変わる数字より、自分の目で見たものを信じてくれる人のほうが、ずっと信頼できると思えた。
***
王宮ではある企みが進んでいた。ステラには知らされていなかったが、王太子派は聖女の影響力を警戒していた。
聖女ステラは、国民から人気があった。疫病が流行れば治療に赴き、貧民街で病人が出れば自ら足を運ぶ。神殿が見放した孤児を保護した。
聖女としての権威だけではない。一人の人間として、国民から支持されていた。
だからこそ、王太子派にとっては都合が悪かった。
王太子妃となるエレナより、ステラを支持する声が大きくなれば、将来の王宮運営に支障が出る。
だから、噂を流したのだ。
「聖女の力が衰えた」
「聖女ステラは、王太子に執着している」
「王妃の座を狙っている」
「聖女は危険な存在だ」
一つ、また一つ。
小さな嘘を重ねて人々の信頼を削った。勿論、ステラは知らない。ただ、数字が変わっていく様子だけを見ていた。
***
3日後、ついに追放の日が来た。
王宮の大広間には、大勢の貴族が集まっていた。ステラは聖女の白い衣を脱ぎ、質素な旅装束を身につけている。壇上にはレオンとエレナがいる。
「本日をもって、ステラとの婚約を破棄する。そして、聖女の地位から解任する」
レオンの宣言にどこからともなく拍手が起こった。
「王族を誑かす、偽聖女め!」
「悪女!」
心無い言葉をステラに投げかける人々。彼らの頭上には、3、7、14といった低い数字が並んでいる。ステラはただ黙って俯き、罵声に耐えていた。
しかし、群衆の中には、21、48、63。ステラに数字が見えるようになってから、変わらないものもあった。
ステラは小さく息を吐く。大丈夫、私は一人じゃない。
「そして私は、エレナ=ノイマン公爵令嬢と正式に婚約する」
さらに大きな拍手。エレナは笑顔でレオンの隣に立った。その頭上には、99。エレナの顔は微笑んでいるが、ステラに対する嘲笑が目から滲み出ている。
ステラは、その数字をもう怖いとは思わなかった。99だから、良い人とは限らない。99だから、悪い人とも限らない。ただ、今のエレナが、自分をどう思っているのか。それだけだ。
「ステラ。最後に何かあるか?」
「いいえ」
「恨み言は?」
「何も……いえ、」
少しだけ考えて。
「今まで、ありがとうございました」
頭を下げ、ステラは歩き出した。もう、ここには用がない。
「待て」
その瞬間、大広間の扉が勢いよく開いた。
低い声が響く。全員が振り返った。
そこには、黒い軍服に身を包んだ、銀髪で青い瞳の男が立っていた。青年の後ろには、数人の騎士が控えている。
「何者だ!」
レオンが叫ぶ。
「王太子たるものが、隣国の王子の名前もわからんのか。俺は隣国ヴァルディア王国、第一王子。カイル・ヴァルディアだ」
大広間が騒然となる。
「なぜヴァルディアの王子がここに……」
ステラは呆然と青年を見つめた。
しかし、その頭上に浮かぶ数字を見て、思わず声が漏れる。
3000。
桁が違う。今まで見てきた数字とは、明らかに違う。
「さん……ぜん?」
(会ったこともない、隣国の王子が、どうして3000なの……?)
カイルはステラをまっすぐ見つめた。レオンは男性としては少し小柄で、手のかかる可愛い弟のような印象だったけれど、カイルは身長が高く、精悍な顔立ちをしている。見下ろされて、ステラの体に無意識に力が入る。
「ステラ」
「……はい」
「私と一緒に来てくれないか」
「……え?」
「何を言っている! 彼女は追放された身だぞ!」
レオンの怒鳴り声が大広間に響く。
「だから何だ?」
レオンの怒声を特に気にすることなく、カイルはそっとステラの前に跪いた。
「聖女として失格になった女だ!」
「私は聖女を迎えに来たわけではない。ステラという一人の女性を迎えに来た」
ステラの胸が、大きく鳴った。
そして、カイルの数字が、3000から、3001に変わる。
「えっ……増えた…?」
「何が?」
「い、いえ……」
カイルは不思議そうに首を傾げた。
その時、大広間の隅から声がした。
「殿下」
声の主は、老司祭エドワードだった。
「ステラ様は、この国の聖女である以前に――」
頭上には、21。
「この国の人々を救ってきた、一人の人間です」
続いて騎士ハンスが前へ出る。頭上には、48。
「私は彼女を信じます」
「僕もです!」
ノアが声を上げた。彼の頭上にも、変わらぬ63の数字。
ステラは目を見開いた。
「ノア……」
「ステラ様は、悪い人じゃありません!」
「そんなものは関係ない!」
レオンが苛立った様子で声を荒げる。カイルは、静かに言った。
「少なくとも、私には関係がある」
そして、ステラを見る。
「私は、あなたを探していた」
「……私を?」
「ああ」
「どうして?」
カイルは少しだけ目を伏せた。
「3年前のことを覚えているか?」
「3年前……?」
「ヴァルディアで疫病が流行った」
「あ……」
ステラの記憶に、古い出来事が蘇った。
3年前。まだ聖女になったばかりだった頃、隣国ヴァルディアで、疫病が流行した。当時、神殿は感染を恐れ、正式な支援を拒んだ。けれど、ステラは反対を押し切って国境を越え、ヴァルディアへ向かった。病人を治療し、薬を届けた。食料を配り、何日も休まず働いた。
その中に、一人の少年がいた。高熱を出して、今にも死にそうになっていた少年。少年はステラの手を握り、『死にたくない』と泣いていた。ステラは、その小さな手を握り返した。
『大丈夫』
『本当に?』
『ええ。あなたは死なないわ』
その少年の顔を、ステラは、今でも覚えていた。
「……まさか」
「私は、あのときの少年だ」
カイルが笑う。
「あなたに命を救われた」
「……あの子」
「そう」
「こんなに大きくなったの?」
「3年も経てばな」
ステラは思わず笑った。
「ずいぶん背が伸びましたね」
「あなたは、あの頃から変わらない」
「それは……」
「優しいところも」
カイルの数字は、3001。ステラは、その数字を見つめた。そして少しだけ、意味がわかった気がした。
3000という数字は、きっと単純な恋ではない。
命を救われた感謝。尊敬や、憧れ。そして、もう一度会いたいと思い続けた年月。そのすべてが混ざった数字なのだ。
数字は、人の心を完全に説明してくれるわけではない。ただ、その人が今、どれだけ自分を大切に思っているのか、その一端を見せているだけなのだと。
「ステラ」
カイルが手を差し出した。
「ヴァルディアへ来ないか?」
「……私に、何ができますか?」
「何もしなくていい」
「え?」
「あなたはもう、誰かの役に立つ必要はない」
カイルは穏やかに言った。
「好きなものを食べて、好きなところへ行って、好きなだけ眠ればいい」
「……そんな生活、していいんでしょうか」
「もちろんだ」
「でも、私は聖女で――」
「もう違うさ」
カイルは笑った。
「だから、ステラとして生きればいい」
その言葉が、じんわりとステラの胸に沁みる。ステラは差し出された手を見る。少し怖さがあった。知らない国に、知らない王子。知らない未来。
(それでも……)
ステラは後ろを振り返った。
苛立った様子で何かを怒鳴っているレオン。
――その頭上には、0。
顔を扇子で隠しつつも、憎々しげにこちらを睨むエレナ。
――その頭上には、99。
最後までステラを信じてくれた、老司祭エドワード。
助けた恩を、ずっと感じてくれていた騎士ハンス。
そして、誰よりもステラを信じてくれたノア。
変わらない数字が、そこにあるとステラは思った。
(私は、数字に救われたわけじゃない。数字を見て、人を信じられたわけでもない。自分が見てきたもの、自分が受け取ってきた言葉。自分が感じた優しさ、それを信じたから)
だから、最後に選ぶのも、自分で決めたい。
「……わかりました」
ステラは、カイルの手を取った。
「あなたの国へ行きます」
「ありがとう」
「でも、一つだけお願いがあります」
「なんでも言ってくれ」
「私、聖女を辞めたので働きたくありません」
カイルが固まった。
「……」
「三年間、ほとんど休みなく働いたんです」
「……そうだったな」
「だから、しばらく何もしません」
「わかった」
「本当に?」
「ああ」
カイルは少し考えてから言った。
「庭のある家を用意しよう」
「……庭?」
「花を植えてもいい」
「それなら、嬉しいです」
カイルの数字が、3001から、3002へ変わった。
ステラは笑った。
***
その日の夜。ステラはヴァルディアへ向かう馬車に乗っていた。
窓の外で、王都が遠ざかっていく。
これまで暮らしてきた場所、聖女として過ごした場所、レオンと出会った場所、たくさんの人を救った場所。
……そして、たくさんの人に傷つけられた場所。
(悲しくない、と言えば嘘になる)
けれど、もう、戻りたいとは思わなかった。
「ステラ」
向かいに座っているカイルが呼ぶ。
「はい?」
「一つ聞いてもいいか?」
「なんでしょう?」
「さっきから、私の顔ではなく頭のあたりを見ている気がする」
「……」
ステラは固まった。
「何かついているのか?」
「…何もありません」
「ならいいが」
カイルは窓の外を見る。ステラも視線を外へ向けた。数字は見える。カイルの頭上には、3002。
けれど、ステラは、初めてその数字から目を逸らした。数字が何を意味するのか、これから先、いくつになるのか。そんなことは、もう重要ではない。自分が彼をどう思うのか。それは、自分で決めればいい。
「カイル殿下」
「なんだ?」
「私、あなたのことをまだ何も知りません。だから……」
ステラは少しだけ笑った。
「これから、あなたのことを知っていってもいいですか?」
カイルは一瞬、驚いた顔をしたが、
「もちろんだ。俺も、もっと貴女のことが知りたくなった」
優しく笑った。
ステラは数字を見なかった。見ないようにした。それでも、頭上に浮かんだ数字が、3002から3003へ変わったのが、視界の端に映り、思わず笑ってしまう。
「……何?」
「なんでもありません」
ステラは窓の外を見る。夜空には、満天の星が浮かんでいた。数字より、ずっと綺麗だった。
「ところでヴァルディアに着いたら、私は何をすればいいんでしょう?」
「好きにすればいい」
「本当に?」
「ああ」
「では、まず三日くらい寝ます」
「三日?」
「三日です」
「……聖女だった頃は、そんなに眠れなかったのか?」
「そうですね。朝の祈り、国境の結界張り、怪我人の手当、瘴気の浄化…食事すら、満足に摂る時間がなかったので」
聖女の過酷さを知ったカイルは、思わず目頭を抑える。
「そうだったのか……なら、好きなだけ寝るといい」
「ありがとうございます」
ステラは、目を閉じた。
馬車が静かに進んでいく。もう、数字を見る必要はない。
誰かに好かれているか、誰かに嫌われているか。誰かに必要とされているか。
そんなことばかり気にして生きなくてもいい。
これからは、自分が何をしたいのか、誰を信じたいのか、どこへ行きたいのか。自分で決めていく。
***
ステラが去ったエキュリア王国では、少しずつ異変が起きていた。
最初に問題になったのは、農作物だった。聖女が毎年行っていた土地の浄化が行われなくなり、収穫量が落ちた。
次に、疫病が流行った。これまでなら神殿が治療を行っていた。しかし、その中心にいた聖女はもういない。
「聖女一人くらい、いなくなっても問題ない」
そう言っていた者たちは、ようやく気づく。ステラ一人が、どれほど多くの仕事を背負っていたのか。エキュリア王国の国力は少しずつ落ちていった。
ヴァルディア側は当初、戦争を望んでいなかった。しかし弱体化したエキュリアが国境を侵したことをきっかけに、両国は戦争状態へと突入した。結果は、ヴァルディアの圧勝だった。エキュリア王国は敗れ、ヴァルディアとの講和条件として属国となることを受け入れた。そして、敗戦の責任を問われた王太子レオンは、王太子の地位を剥奪された。
逃亡を試みたものの捕らえられ、最終的に待っていたのは――離島への流刑だった。
「私は王太子だぞ!」
最後までそう叫んでいたという。けれど、もはや彼を王太子と呼ぶ者はいなかった。
その隣には、エレナもいた。王太子妃になるはずだった令嬢。
彼女もまた、レオンと共に流刑となった。
かつて彼女の頭上にあった99という数字が、何を意味していたのかは、誰にも分からない。愛情だったのか、嫉妬だったのか、憎しみだったのか。あるいは、そのすべてだったのか。ただ一つ確かなのは、彼女が何よりも欲しがっていた未来は、もう二人の手にはなかったということだけだった。
王太子派と呼ばれていた貴族たちにも、それぞれに罰が下された。
虚偽の噂を流した者。聖女追放を推し進めた者。聖女の功績を横取りした者。彼らは皆、爵位を失い、財産を没収され、あるいは投獄された。
そして神殿にも、大きな変化が訪れた。
ステラが残していた記録には、治療した人数、訪れた村、救った孤児たちの名前、そして連日のように続いた長時間の治療まで、事細かに記されていた。全て、休むことなく働かされていた記録。それらが次々と明るみに出た。
「……これほどの仕事を、一人に?」
調査に入った者たちは絶句した。聖女を神の使いとして崇めながら、実際には、その力を当然のように使い潰していたからだ。神殿上層部にも責任が追及され、多くの者が職を失い、財産を没収された。
けれど、そんなことステラは知る由もなかった。彼女は遠いヴァルディアで、庭のある家でゆっくりとした日々を送っていた。朝は遅くまで眠り、好きな花を植え、時々、カイルと食事をした。聖女ではなく、ただのステラとして。
***
やがて、王国がヴァルディアの属国となったことで、人々の往来が増えた。
ある日。ステラの暮らす庭に、一人の少年が立っていた。
「……ノア?」
少し背が伸びた少年。けれど、その顔を見間違えるはずがない。
「本当に……聖女様だ」
ノアの目に涙が浮かぶ。
「会いたかったです」
ステラも笑った。
「私もよ」
その後ろには、あの老神官エドワードがいた。かつて自分を信じてくれた騎士、ハンスもいた。いつもパンを届けてくれた店主も。ステラは、一人ずつ名前を呼んだ。
「みんな……元気だったのね」
「はい」
「聖女様がいなくなって、大変でしたけど」
「そう……」
ステラは少しだけ困ったように笑った。
「でも、今はもう聖女じゃないわ。ただのステラよ」
そう言うと、ノアが笑った。
「知っています」
「え?」
「だから、会いに来たんです。聖女様だからじゃなくて、ステラ様だから」
その言葉を聞いて、ステラは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
昔なら、きっと数字を見ていただろう。今、ノアの頭上にいくつの数字が浮かんでいるのか、確かめていたかもしれない。
けれど、ステラはもう見なかった。
目の前で笑っているノアを見て、その声を聞いて、ただ、嬉しいと思った。
(数字がなくても分かる。この人たちは、自分を信じてくれていた。そして自分も、この人たちを信じている。)
「……会いたかったです、ステラ様」
その言葉に、ステラは笑った。
「ありがとう」
もう、頭上の数字を気にする必要はない。誰かの心を数字で測る必要もない。これからは、自分の目で。自分の心で。大切な人を選んでいけばいい。
ステラは、みんなの輪の中へ歩いていった。その先には、花の咲く庭と、彼女を一人の人間として迎えてくれる人々がいる。隣には、彼女のことをあたたかく見守る青年がいた。
ステラは振り返って、カイルに笑いかける。カイルも笑う。以前のステラなら、その頭上に浮かぶ数字を見ていたかもしれない。けれど、今は違う。数字がいくつなのかなんて、もうどうでもいい。これから、彼がどんな人なのかを知っていけばいい。
そして、自分が彼をどう思うのかも、自分で決めればいい。
追放された聖女は、もう振り返らなかった。
彼女の新しい人生は、ここから始まる。
誰かの評価ではなく、誰かの期待でもなく。自分自身で選ぶ人生が。
――数字の見えない、自由な人生が。




